チーム天狼院

少し前までは、承認欲求なんかない方がいいもんだと思い込んでいた。《川代ノート》


少し前までは、承認欲求なんかない方がいいもんだと思い込んでいた。

大学生の頃の私といえば、就活の真っ只中で、自分のやりたいことが決まらなくて、周りの人間よりいかに「すばらしい」人間みたいに見えるか、いかに「他と違う」ように見えているか、いかに「すごい」と言ってもらえるか、そういうことばかり気にして、毎日を過ごしていた。
どの分野でも、誰よりも一番になりたかったし、自分の隣にいる別の誰かが褒められているのを見ると、すごく嫌な気持ちになった。私はこいつなんかよりももっとすごい人間なんだぞと提示したいと思っていた。
認めてほしかった。「わかってくれる人がわかってくれればそれでいい」なんていうかわいいものじゃなかった。「みんなに」わかってほしかったのだ。強い強い承認欲求が、いつも私の胸の中に渦巻いていた。世界中の人全員に認めてほしかった。自分でも自分のことを認めたいと思っていたし、大人からも認めてほしかった。家族からも、「いい子に育ってくれた」と思ってほしかったし、友達からは「さきにはやっぱりかなわないなあ」と思ってほしかった。先生からも、上司からも、「やっぱり川代は違う」と思ってほしかった。褒めてほしかった。いつも。いつも自分の居場所を求めていた。「自分はここにいてもいい」という証明がほしかった。安心したかった。私の存在を認めてくれる人に出会いたかったし、私を求めてくれる環境がほしかった。でももちろん、自分のそんな感情を表になんか出さなかった。プライドの高い自分自身をさらけ出したくなんかなかった。「人に認められたい」と思うことこそ、人間にとって最大の罪だと思った。自分の本当にやりたいことなんかよりも、人にどう見られるかということをモチベーションに毎日を生きるなんて、浅薄な人間のやることだ。私はそんな薄っぺらい人間なんかじゃない。私は私のための人生を生きる。他人の目なんか気にしない。
できた人間になりたかった。達観している人になりたかった。そのほうがかっこいいと思ったからだ。
だから、承認欲求を早く無くしたくて無くしたくて、仕方がなかった。
「承認欲求がない人間の方が、人としてすばらしいと思ってもらえる」という、その考え方こそが、ひどく承認欲求に囚われた思考回路の結果だとは微塵も気がつかずに、私はどうすれば自分が人に認められたいと思わなくなるかということばかりを考えていた。

いろいろな本も読んだ。自己啓発書や、中国古典や諸子百家の本も読んだ。「嫌われる勇気」だってもちろん読んだ。はっとさせられた。どの本を読んでも、自分に足りないものがたくさん書いてあった。私に今必要なものはこれだ、と何度も思った。でも結局のところ、具体的にどうすれば承認欲求をなくせるかなんてわからなかった。

具体的な方法がわからない。解決策もない。こんなの治療法が確立されていない難病と同じだ、と思った。どんな薬を処方して、どんなリハビリをして、どんな生活をすれば治るのか、全くわからないのだ。誰も理解していないのだ。その専門の先生もいない。むしろ、専門家すらその病気にかかっている可能性だってある。この病気の問題は、かかっている本人でも気がつかない場合が多いということだった。現に私もそうだった。私だってはじめのうちは「まさか私が承認欲求なんかに悩まされる人間であるわけがない」と、微塵も疑っていなかったのだ。

誰も治せない。でも患者は大勢いる。その証拠に、「ありのままに生きましょう」とか「承認欲求はくだらない」という主旨の本はいくらでも見つかった。きっとみんながこの問題に悩まされているからこそこういう本がたくさん売れるんだろうと思った。でも、気がついた。こんなに多くの本が出ているのに、その中の誰も、この感情をなくす方法は見つけられていないのだ。これだけの人がいるのに、いまだに、誰も。

私も思いつく限りのことは試した。本当の自分を他人に吐露する。とにかく明るく考える。人の目なんか気にする必要はないと思い込む。でも無理だった。気にしてしまうものは気にしてしまうのだ。プライドを捨てる方法も腐るほど考えた。やっぱり無理だった。だってプライドも承認欲求も全部感情だ。それは「悲しいと思わないようにする」とか「喜ばない」とか「驚かされてもびっくりしない」とか、それくらいの難題と同じなのだ。承認欲求やプライドは、私の心の中に硬くこびりついていて、剥がそうとして剥がれるものではなかった。ページをめくり、「私だってありのままに生きられるもんなら生きたいよ」とため息をついてページを閉じ、それでも次の本こそは私を救ってくれるんじゃないかと期待して、本屋に足を運んだ。でもやっぱり方法は見つからなかった。

たとえば自分の感情を買い取ってくれる店がどこかにあればいいのに、と私は思った。どんなに安くてもいい。1円でもいい。いや、むしろタダでもいい。この面倒くさい感情を引き取ってくれる誰かが存在しないだろうか、と。

そう思って、毎日を生きた。

就活をして、大学を卒業した。承認欲求をなくしたい。ずっと変わらない、その課題だけは抱えたまま、「まだ子供ね」と言ってもらえる大学生から、「もう大人だなあ」と言われる社会人になった。なんだか信じられなかった。自分が想像する「大人」というのは、こんなに自分のことで悩んだり葛藤したりはしないもんだと思っていた。

何度か、「悩みとかあるの?」と聞かれたときに、その悩みをふと吐露したこともある。けれど「承認欲求なんか捨てなよ」「そんなもんはいらないよ」「無駄なものだ」「いらない」と言う人がほとんどだった。

じゃあ、と私は思った。

じゃあ、あんたには承認欲求はないのかよ。あんたは、長年付き合ってきた感情を今すぐに捨てろと言われたら捨てられる人間なのかよ。
感情って、そんなに簡単に割り切れるもんなのかよ、と。

「人からどう思われるかとか、関係ないでしょ。そんなことより自分がどうしたいかじゃないの?」

承認欲求に振り回されている私を見て、そう言ってくる大人たちに何度も出会ってきた。それは知り合ったばかりのおじさんだったり、先輩だったり、自分より少し仕事ができる同期だったりした。

そう言う、あんたはどうなんだよ。
あんただって、自分がどう見られるか、気にしてるだろ。
今だって、ほら、そうやって私に偉そうに説教して、私がその意見に屈服して、「たしかに、そうですね。捨てられるようにがんばってみます!」って素直に言ってくれるように望んでいるのは、あんたが承認欲求に囚われているからじゃないのか。私に「相談に乗ってくれ」と頼まれたわけでもないのに、そうやって説教してくるのは、あんたが「こいつを救ってやった! 悩みを解決してやった!」っていう満足感を得たいからじゃないのか?

内心、悪態をつきながらも、私はもちろんそんな本音は隠して、「たしかに、そうかもしれないですね」と返事した。するとやっぱり彼らは、「うん、そうだよそうだよ」と嬉しそうにした。

誰にだってあるのにな、と私は思った。

誰にだってある。誰だって持っている。誰だって人の目を気にする。誰だって認められたいと思っている。

なのにみんな、それを認めたがらない。承認欲求がある事実を無視しようとする。自分には承認欲求がないと思い込み、そして、承認欲求があるやつはだめだと言う。人間のクズみたいに言う。

そういうことにひどく、違和感を覚えた。

誰にだってあるよ。「自分には承認欲求はない!」って、主張する人ほど、そういうのを意識しちゃってるんだよ。

私に説教してくる人みんなに、内心で噛み付いていた。
私だけがこれに振り回されているんじゃないかという不安にいつも苛まれていたから、他の人が人の目を気にしている部分を探した。必死になって探した。

どうすればいいんだろう、といつも不安だった。
どうしたらなくすことができるんだろう。
どうしたら私は、いつになったら私は、自分で自分を認められる、素晴らしい人間になれるんだろう。

でも、ずっとそんなことばかり考えていても、もちろん、私の承認欲求がなくなるわけじゃない。減らせるわけじゃない。むしろ、考えれば考えるほど、増えるような気がした。自分が今どんな感情でいるのか、今どういう欲求からこの行動をとっているのか、考えれば考えるほど、自分の承認欲求やマイナスの感情を見つけることになった。

ああ、もう、どういうことなの。
どうすればいいの。

いくら考えても考えても、具体的な方法は見つからなかった。きっと誰も見つけていないのだ。見つけられないのだ。
おそらく承認欲求をなくす方法を確立している人は、今のところどこにもいないのだ。これだけたくさんの人が生きている世界で、誰も見つけられていないのに、私が見つけられるわけがなかった。無謀なことだった。

それなら、もういいや、と私は思った。

もうなんか、いいや。
とりあえず、隅に置いておこう。

それは「逃げ」だとも言える方法だった。もう、考えない。目に触れないようにする。自分が人に認められたいと思う場面に出くわしても、無視する。いちいち「こんな自分っていやだな」とは考えない。
頭を、空っぽにする。

それが一番いい方法のような気がした。根本的な解決にはならないけれど、自分のことで悩む時間は減る。
ちょうどその方法を思いついた頃、仕事が忙しくなって、自分のことを考える時間が減ったから、都合がよかった。なんだか失恋した女みたいだな、と思った。忘れるために仕事に没頭しようとするなんて。

「承認欲求ってさ、もう、なくすのは無理じゃん」

つい最近、仕事で話していた女性が、そう言っていた。私よりも年上の人だった。

「なんていうか、承認欲求をなくすというよりは、『考えなくなる』っていう道しかないっていうか」

「ああ、ですよね。『なくす』っていう言い方は、なんか、違うような気がしますよね」

何気なく、そんな会話をした。
とくに意識していたわけでもなく、自然にその言葉が、私の口からも出てきた。

考えなくなる。

「なくす」でもなく、「減らす」でもなく、「考えなくなる」。

そこで、ハッとした。

私、いつから、承認欲求のこと、考えてない?
いつから、悩まないようになった?

思い出せない。

思えば、私はしばらく、承認欲求のことについて、考えなくなっていた。悩まされることもなかった。でもだからといって別に、私の心の中から承認欲求がなくなったのかといえば、そうではない。今でも人に認められたいという強い欲求はあるし、人と自分を比べて落ち込むこともある。

けれど、「承認欲求がある自分自身」について、考えること自体は、ひどく少なくなった。

ああ、そうか。
そういうことだったのか。

あのとき大人たちが言っていた、「人の目なんか気にしなくていい」「承認欲求なんかくだらない」と言っていた人たちだって、承認欲求をなくすことができるようになったわけじゃないのだ。ただ「承認欲求について考えないようにする」という方法をとれるようになっただけなのだ。

なるほどな、と私は思った。

なくす、でもなく、減らす、でもない。
考えない。
視界に入れない。
気にしない。

それがきっと、この世で多くの人がとっている、方法なのだ。
そして多くの人たちは、私が悩んで悩んで行き着いたように、「考えないようにするのが一番いい」という結論に行き着いたのだ。

なぜならそれが、一番効率がいいからだ。
気にしないことが一番、生きていく上では、楽だからだ。

それが「大人になる」ということなのかもしれない、と私は思った。

大人になる。

学生の頃とは違い、自立して自分で生活しなければならない。社会の一部として働く。一つの目標を持って、それを達成するために働く。毎日毎日、動く。そうしなければ生き残っていけない。
自分に課された仕事をこなすために、どうすればいいか考える。どんな努力をすれば、どんな行動をすれば、どんな方法をとれば、目標を達成できる? どうすれば生活していける? どうすれば面白いことができる? どうすればお金が稼げる? どうすれば幸せになれる?

そんなことを考えていると、もはや自分について悩む時間なんてない。そんな暇はない。そんなことを考えている暇があったらもっと仕事を効率よくやる方法を考えたほうがいいと思うようになる。

自然と、思考がそういう方向に切り替わっていく。どうすれば効率がいいか、どうすれば一度の時間でより多くのことを成し遂げられるか。どんな時間の使い方をすれば、最も自分が成長できるのか。

自分の考え方の軸が、そういった方向にシフトしていく。

だから、気がつくと、承認欲求なんかで悩んだりすることが、とてもとても少なくなる。大学生の頃のように、時間が有り余っているわけではないから、自分が今このままでいいのかなとか、そういうことを考えることも少なくなる。

効率のいい生き方を、大人になるにつれて、身につけていく。

ああ、私はまさに今、大人になりかけている段階なんだなあ、と、その女性の言葉を聞いて、私は思った。

23歳。
社会人、二年目。

まだまだ社会人としては全然だめで、できないことも多くて、必死になって毎日働いても、それでも自分のだめなところばかり見つかる。もっともっと頑張らなきゃと思うのに、もっともっとやらなくちゃと思うのに、空回りばかりしているような気がする。自分が周りの足を引っ張っているような気がする。どんどん自信がなくなっていく。

そんなことで悩んで居ると、もはや、承認欲求のことなんかで悩んで居る暇がない。仕事のことで頭がいっぱいになるからだ。もはや自分の生き方や性格なんてどうでもいいような気がしてくる。

きっと、それでいいのだと、私は思っていた。
それが、大人になることだと。
感情に折り合いをつけられるようになり、理性で感情をコントロールできるようになり、あまり嫌なことがあっても顔に出さないようになり、悩んで居ることがあっても、自分だけでなんとかしようと思うようになり、人に迷惑をかけないようにしようと思うようになり……。

そうやって、自分のことを考える時間が、どんどん少なくなっていく。
自分ってどんな人間なんだろうとか、自分ってこれからどうしていきたいんだろうとか考える時間が、仕事でどうしていけばいいんだろうとか、結婚はどうしようとか、これから家族を作るならお金貯めなきゃいけないとか、そういう社会でどう生きていくかとか、そういう社会や他人との関わり方について考える時間になる。

それが大人になる、ということなのかもしれない。

「考えなくなるっていう、道しかない」

あの人の言葉が、いつまでもリフレインしていた。

考えなくなる。
考えなくなる。
心の中に入るのに、片隅に、誇りをかぶったまま、思い出されることがなくなる。

承認欲求を、なくしたい。

なくすことはできないにせよ、私はそのことで悩むことはなくなっていた。それは、私がずっとずっと、求めていたことだった。

大人になりたい、と思っていたはずだった。
承認欲求をなくしたいと思っていたはずだった。
感情に振り回されず、自分の目標達成のために行動できる、前向きな人間になりたいと思っていたはずだった。

なのに、いざ、自分の心が、感情に占拠されなくなると、とても、怖いと思った。

悩んだり、悲しんだり、焦ったり、自分なんかダメだと思ったり、周りの同期に負けたくないと思ったり、自分のことばかり考えたり、承認欲求に悩まされたりしなくなることは、実は、とても寂しいことなんじゃないかと、思った。

どんどん、自分と向き合う時間がなくなっていく。自分のことについて、考えなくなる。

大人になるうえでは、必要なことかもしれない。大人として、楽に生きていくには、大事なことかもしれない。

でも、それは同時に、ひどく怖いことだと、私は思った。

私が、大人になるうえで、今一番怖いのは、年をとることでも、体力が減っていくことでも、責任が重くなることでもなく、感情がなくなっていくことだと思った。
自分の感情を察知する能力が減っていくことこそが、一番恐ろしいと思った。

怒らなくなる。泣かなくなる。悩まなくなる。

年をとればとるほど、「大人の対応」がうまくなっていく。

それは、はたから見れば、「できた人間」に近づいている証拠かもしれない。人間として成長しているように見えるかもしれない。

でも、私にとっては、ひどく恐ろしいことだと思った。
どうしてだろう? わからない。

ただ、怖いのだ。ひどく怖いのだ。
ただ、子供の頃は、とても強く感動できていたことが、大人になると、どんどん感動できなくなるような気がして、怖い。
子供の頃は、泣いたり笑ったり、素直にできていたことが、大人になるにつれて、素直にできなくなっていく。それが恥ずかしいことだと思うようになる。

このままだと、いつか、本当に感情を失ってしまうんじゃないかと思うと、怖い。
綺麗な空を見ても、綺麗だと思えなくなったり、ひどいことをされても、怒ることができなくなったり、大切な人を失っても、悲しいと思えなくなったりするのは、とても怖いことだ。

ほら、こうして文章を書いている今も、「怖い」という感情が、大人になるにつれて、毎日毎日経つにつれて、どんどん減っていくのがわかる。

自分が、社会に合わせて、生きやすい方向に合わせていっているのがわかる。
人間が動物として、環境に順応していくのと同じように、私も今、大人として社会で順応して生きていけるように、変化しつつあるような気がする。

楽に生きられるようになるのは、とても怖いことだと思った。

自分の心の中から、感情がなくなっていくことや、承認欲求がなくなっていくことは、とても恐ろしいことだ、と。

私は、失いたくないと思った。

失いたくない。
失いたくない。
感情を、失いたくない。
薄れさせたくない。

だから、私は文章を書いているのかもしれないと、ふと思った。

子供の頃、悲しいことがあると大泣きして表現できていたことで、私は今、泣くことができない。人前で泣いたりできない。恥ずかしいし、涙もそれほど簡単に出てこない。
そうして徐々に、誰もができていた感情を表す表現方法を失っていくから、だから、私は書きたいと思うのかもしれないと思った。

自分の感じたことを、失いたくないから。
感じたことを、そのまま見える形に表しておきたいから。
誰かと、この感情を、共有したいから。

だから、表現したい。書きたい。書いたものを、誰かに読んでほしい。

その欲求だけで、私は書いているのかもしれない。

私は結局、まだまだ承認欲求に囚われていて、だからこそ、認めてほしいからこそ、書いているのだ。

自分の感情を、この強い強い感情たちを、自分じゃない誰かに、世界中の誰かに、みんなに、「私も同じだよ」と、「私もその感情を持っているよ」と、「それでいいんだよ」といってほしいから、認めてほしいから、私は書いているのかもしれない。

そうだ、結局私はまだ、承認欲求に、ずっとずっと囚われているんだなと、私は思った。

でも、それでいいと思った。
そのままがいいと思った。
自分の強い感情を持ったままが、いいと思った。

私は、感情を、一通り、感じることができる人生を送りたい。
今までに自分が感じたことのない感情を、体験したい。こういうことがあると、自分はこんな風に思うんだとか、こんな風に感じるんだとか、そういうことを、常に体験しながら、毎日生きていたい。

だって、その方が、色々な人と、繋がれることができるような気がするからだ。

人の気持ちがわかる人になりたい。
今、その人がどんなことを考えているのか、共感できる人になりたい。

たとえば、私にいつか子供ができても、きちんと、どうしてその子が泣いているのか、どうして怒っているのか、わかってあげられる人になりたい。その人が、どう思っていても、どんなことで悩んでいても、「それでいいよ」と言ってあげられる人になりたい。

そういう人になりたい。

だから、このままで、いい。
このままがいい。

その考え方が、「人の気持ちをわかってあげられる人の方が、人に好かれる」という、承認欲求的な思考回路のもとに、生み出された結論だとしても、私はそれがいいと、本気で思う。
おかしいだろうか。変だろうか。

変じゃないよな、と私は思う。

変なことなんて、この世界のどこにもきっと、存在しないのだ。

少し前まで、承認欲求なんかない方がいいもんだと思い込んでいた。

きっと、こいつさえいなくなれば、私は幸せになれるんだろうと、思い込んでいた。
こいつこそが、私が幸せになれないことの根本的な問題で、こいつをなくすことができれば、私の人生は全部楽しくなるんだろうと思い込んでいた。

でも、大人になって、「承認欲求について考えない」期間があって、そして、一つの結論にたどり着いた。

承認欲求がなくなれば、全部がうまくいくわけじゃない。
こいつさえいなくなれば、私が幸せになれるなんて、そんな保障はどこにもない。
結局、私がしなければならないことは、承認欲求をなくす方法を見つけることでも、なくすための努力でも、考えないようにすることでもなく、ただ、今自分の中にある感情を大切にすることだったのだ。

たとえば、承認欲求がなくなって、人の目を気にしなくなったとしても、私が自分のやりたいことをなんでもできるようになる確証もなければ、絶対に自分の目標に向かって努力ができるようになるわけでもない。
結果は、わからない。
未来は、わからない。

だから、承認欲求をなくす努力なんて、他の誰かにとっては有効だったとしても、私にとっては、無駄だったのだ。

だって、いくら努力したところで、なくなる保証もなければ、なくなって幸せになれる保証もないからだ。
そんなこともわからず、私はずっと、純粋に「承認欲求さえなくなれば絶対に未来永劫の幸せが訪れる」と信じていた。

「幸せ」とは、人によって、違う形をしていて、私がすべきだったのは、承認欲求をなくす努力をすることじゃなくて、私にとっての「幸せ」とは何なのかを考えることだった。

そういうことだ。

私にとっては。

私にとっては、単純に、ただ、承認欲求があった方が幸せだ、と。

その方が、面白い人生になる、と。

そういう結論だった。

それだけだった。

この事実に、どうして今まで気がつかなかったんだろう。
どうしてずっと、目をそらし続けていたんだろう。

いや、でも、この歳で気がつけたんだから、ラッキーだと思うべきかもしれない、と私は思った。

「承認欲求をなくしたいんだよ、こんな自分嫌なんだよ」

私は、自分が立派な「大人」になったときのことを想像する。
私にはわりと大きな子供がいて、自分のことで悩んでいて、まさに、自分の感情と戦っているところだ。
自分が今どうすればいいのか、どうしてこれほど人の目を気にしてしまうのか、悩んでいる。苦しんでいる。そういう「若者」が目の前に現れたとき、私はどう答えるべきだろう。どんな言葉が一番ベストなんだろう。

「なくさなくていいよ」と言うだろうか。

「なくすことなんかできない」と、現実を正直に言うだろうか。

それとも、あの頃の大人のように、「承認欲求があるやつなんかバカだ」と、「嫌な大人」になりきるだろうか。

いや、どれもなんだか、しっくりこないな。

何て言うだろう。
何て言えば、一番伝わるだろう。
私は、自分で答えを見つける前に、何て言って欲しかったんだろう。

どう言ってもらえれば、一番、安心できたんだろう。

そしてしばらく考えて、ああ、きっと、こう答えるだろうな、と私は思う。

「その感情を、大事にすればいい」と。

「『承認欲求をなくしたい』と、強く強く思っている、今の感情を。自分への嫌悪感とか、悩みとか、苦しい気持ちとか、そういうのを全部、大切にすればいい」、と。

きっと、そう強く強く、思えるのは、今だけだから。
自分のことで悩めるのは、今だけなんだから。
恥ずかしい思いをしたり、自分のことを嫌いになったり、焦ったり、怒ったり、イライラしたりできるのは、今しかないんだ。

自分の心が強く震えるのを実感できるのは、今だけなんだ。

きっと大人になればなるほど、年をとればとるほど、その感情の揺れが起こることは、なくなっていくんだ。

感動したり、泣いたり、衝撃を受けたりできるのは、今だけなんだ。

そういう、「承認欲求をなくしたい」という苦しい気持ちが、どんどん薄れていったり、そもそもそういうことについて考えなくなったりすることは、大人になるうえで必要なことであるのと同時に、とても、怖いことなんだ。

私は今、そうして、感情がいなくなっていきそうなのを実感していて、とても、怖いと思っているんだ。今はむしろ必死で、承認欲求にしがみついているくらいなんだ。

だから。

「精一杯、自分のことを考えろ」と、私は言うだろう。

「自分のことだけを考えろ」と、「大人になれば自然と、周りのことを考えられるようになるから」と。

そんな風に言える日はいつか、訪れるのだろうか。
子供に対して、そんな風に、私が言ってほしかったことを言えるほど、私はかっこいい大人になっていられるだろうか。第一、大人になった私は、今の私が思っていることに、賛同してくれるだろうか。
そもそも、この言葉で、きちんと伝わるのだろうか。

わからない。
わからないけど、忘れたくない。

私は記憶力が悪いから、そういういつかの日のために、私は書く。ここに、残しておく。

タイムカプセルを埋めるような気持ちで、いつか大人になった私が迷ったときに、ここに立ち戻ってこれるように。

きっと、私は大人になっても、悩んだり、苦しんだり、怒ったり、焦ったりしているだろうから。
その頃の私が、きちんと安心して前を向けるように、私はこの言葉を、未来の自分に送る。

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2016-09-06 | Posted in チーム天狼院, 川代ノート, 記事

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