「むかつくあいつを見返したい」というモチベーションは、不純なのだろうか?《川代ノート》
もしかして、もしかすると、このままじゃまずいんじゃないかと、ちょっと危機感を抱いている。
私の身近にいる人なら知っていることだけれど、私は怨念を食べて生きている。怨念をエネルギーに変えて行動している。つまり、私のモチベーションは、誰かへの嫉妬であり、恨みであり、焦燥感なのだ。あるいはそれはまずいことなんじゃないかと、最近思い始めている。
今思うと、何をするにも「あいつを見返したい」という負の感情がモチベーションだった。高校生の頃、テストで100点取った時のモチベーションは一番仲の良かった子が志望校A判定をとっていたのに嫉妬したからだし、大学生のとき、50キロから43キロのダイエットに成功したときに頑張れたのは、そのとき付き合っていた彼氏を見返したいと思ったからだった。
「あいつをなんとかしてやりたい」とか「ぎゃふんと言わせたい」とか、とにかく私は常に何くそ根性で生きてきたような人間だ。逆に、誰かの役に立ちたいとか誰かを幸せにしたいというモチベーションで動いた記憶がまったくない。
今までは、別にそれでも良いと思っていた。それで私の人生は成立していたし、とくに問題もなかったからだ。誰かに「あんたその性格直した方がいいよ」と言われたこともなかったし、親から「そんな暗い理由でがんばる人間に育てた覚えはない!」と泣かれたこともなかった。それで不備のない人生だった。
けれども最近になって、もしかしたらそれだけではこれから、生きていけないのかもしれないと思うようになった。
先日のことだ。
「川代も今、迷走してるんですけど」
この間のイベントのとき、三浦さんがそう言った。小説家養成ゼミだっただろうか。要するに、私が書き手としてどんな方向性に向かっていくのか、迷走しているということだった。
そうか、私は迷走しているのか、と思った。自分ではそれほど迷走しているつもりはなかった。書くのが好き。面白い。子供の頃から勉強も運動も苦手だし、性格的にも器用に立ち回れるタイプではないけれど、それでも唯一書くことは得意な方だった。これならできるかも、と思った。だから続けている。いずれはやっぱり、小説を書きたい。
書くのが好きだから、小説を書いてみたい、と思うのは自然なルートだと思っていたし、このまま順調に頑張っていればいつかはこれだ、という道が開けるだろうと、根拠もなくそう思っていた。だから、迷走している、と言われてハッとした。それほど今自分がしている行動に対して、疑いを持っていなかったけれど、そうだ。
私は、何を目的として、何がしたくて、小説を書きたいと思っているのだろうか?
私は漠然と小説家になりたいと、当然のように口にしているけれど、言われてみれば。
言われてみれば、私のモチベーションって?
書いてどうするつもりなんだろう。
小説家になって、どうするつもりなんだろう。
今、自分のことが本気でわからない状況に直面している。
まるで就活生のようにもやもやと、自己分析を繰り返しては、「うーん、わからない」という結論に至る。
そもそも、私が書くことにハマったのは、たまたまだった。
就活をしているとき、天狼院にたどり着いた。三浦さんに、天狼院のブログで記事を書いてみないかと言われた。もともと書くのは好きだったから、書いてみたら、ハマった。得意なことが見つかったと思った。
そうだ。私は何も「自分にはこれがある」と言えるものがなかったのだ。大学で入った音楽サークルも中途半端、友達作りも中途半端なら、恋愛も中途半端。別にそこまでどっぷり恋愛体質というわけでもない。社会貢献をしたいという気持ちもそれほどないし、そもそも「誰かのために」とかの気持ちがわいたことがない。こんなことをWEBで言ってしまって大丈夫なのかと思わないでもないのだが、ボランティアとかをする人がどうしてボランティアをしたいと思うのかがわからないのだ。最低だと、ひどい人間性だと言われても構わない。私はこれを言いたい。
アフリカの子供たちを救いたいとか、力になりたいとか、そういう気持ちが私には理解できない。
いや、わかる。わかる。頭ではわかっている。困っている人たちは世界中にたくさんいる。貧困問題、環境問題、人種差別、戦争。私は日本という平和な国で、平和に生活できているのだということはわかる。だから、自分よりもずっと大変な環境で生活をしている人たちを助けてあげたい、と思う人がいるのだろうということは、一応想像はつくのだ。頭では。理性では。
けれども、本当に友達をなくす覚悟で言うが、共感ができないのだ。「わかる! 困っている人たちを助けたいと思う気持ちめっちゃわかる!」とならない。たとえば私は、失恋をして死ぬほど落ち込んでいる友達に対して「わかる〜。本当わかる。失恋って信じられないくらい辛いよね……」と共感の言葉をかけてあげることはできる。でも、「誰かを助けてあげたい」とか「優しくしたい」という気持ちに対して「わかる!」とはならないのだ。
実は、ここで始めて告白するけれど、それが自分の大きなコンプレックスの一つだったりする。優しくない。思いやりがない。他人を助けたいと思わない。あるいは、私は自分のことしか考えていないのかもしれない。すべての愛情が自分に注がれていて、他人に向けようとは思えないのかもしれない。
私は、誰かに優しくしたいと思わない。
親切にしたいとも思わない。
頭で「人に優しくするのは良いこと」と認識しているからこそ、優しくしよう、と意識して行動し、結果的に「いいことをした!」という達成感がやってきてはじめて「優しくして良かった」と思う。けれどもそれは本当にその人に優しくしたいとか愛情を注ぎたいと思って行動しているわけではなくて、単純に「優しくしている自分が好き」とか「優しくしないとか人としてどうなん?」という謎の倫理観や「人から感謝されて、優しい人と認識されると嬉しい」という承認欲求だったりする。
だから、何の疑いもなく純粋な気持ちで人助けをしている人を見ると本気ですごいなと思うし、同時に「なんで?」という疑問が止まらなくなってしまうのだ。「なんで? なんでそんな風に優しくできるの? その優しくしているモチベーションは何? 何のための行動? 認められるため? 優しい自分が好きだから? それともナチュラルに優しくしちゃうの?」と、ずっとぐるぐる、考え続けてしまうのだ。
どうしてだろう。どうしてなんだろう。
「人に優しくしたい」と思えないことが、私は本当に寂しい。
「こうしたら喜ぶだろうな」とか「こうしてあげたい」とか、そういう純粋な気持ちが湧き起こらない自分の心臓が憎い。悔しい。辛い。
自然に誰かに優しくしている人を見ると、羨ましいと思うし、嫉ましくなる。
だから、その真似をしようとする。誰かに優しくしてみる。誰かを褒めてみる。「ありがとう」とか言われる。嬉しい。でもとくに感謝されないと、「なんでこんなことしたんだろう」とか「こんなやつに親切にするんじゃなかった」とか、そういうことを思う。
どうにかしてくれ。本気で、どうにかしてくれ。私のこの欠落した愛情を、優しさを、誰か埋めてほしい。自分のことは意識しなくても優しくできるのに、甘すぎるくらい甘いのに、他人を愛することのできない私をなんとかしてほしい。どうしたらいいんだろう。
自分が一番。自分が幸せなのが一番。自分が幸せじゃないとダメだし。それが最優先。誰かを幸せにしたいとか、そんなのわからない。
そう、常に私が行動する理由は、怨念なのだ。
誰かへの焦燥感であり、嫉妬であり、劣等感であり、恨みであり、独占欲なのだ。
たいていの人が「なければいいのに」と強く願うような感情だけをエンジンにして、私は生きている。
愛情や、優しさや、情熱とか、忠誠心とか、そういうものとは遠く離れたところに私はいる。
あいつを見返したい。
あいつを負かしてやりたい。
あいつに悔しい思いをさせてやりたい。
そんなマイナス感情が、私の中でなによりのモチベーションなのだ。
だから、書いているときも、小説を書きたいと思ったのも、マイナス感情が発端だった。
あいつへの不満をぶちまけたい。あいつ本当はらたつな! でもおおっぴらに言うことなんかできないから、小説というオブラートに包んで思いっきり吐き出してしまいたい。
そんな感じ。
人よりもひどく、負の感情が深いのだろうか。もしかして。
そんな予感はあったが、別にそれでも問題ないと思っていた。今までは。
でも、ここにきてなんだか、三浦さんの言うように、私は迷走しているのかもしれないと思うようになった。
これまでは誰かへの嫉妬や劣等感だけで持っていた。コンプレックスを解消したい。書いていたら満たされる。だから書く。それで成り立っていたのだ。
でも、今は。
今は、こうして毎日ブログを書いているのはとても楽しいけれど、ふとしたとき、私、このままどうやって生きていくんだろうと、とても不安になる。
だって、私が提供できるものなんて、何もないよ。
たいした知識もないし、まだまだこれから蓄えようとしてる途中だし。
今は自分の負の感情を吐き出して、それに共感してもらえてるけど、それがもし、なくなったら。
そう。
そうだ。
私が今書いていることは、「共感」ということが前提として成り立っているものなのだ。
「わかる!」とか、「そうだよね〜」と言ってくれる人がいてこそコンテンツとして成立しているものであり、そういう人がいなければ、もしいなくなったら。何も提供することができない。ただよくわからない感情をウワーっと吐き出しているだけの人になってしまう。
「共感」というのはものすごいパワーを持っているけれど、でも、それだけではたぶん、私はこれから書き手として生き残ってはいけないような気がする。
何かを揺さぶられたり、頭をがつんと殴られるような体験をすることがあるからこそ、文章というのは面白いのであって、共感だけでは長くは持たないだろう。
文章というのは、書き手と読み手をつなぐための一種のツールにすぎないのだ。きっと。
文章はあくまでも言葉であって、それは人間が生活をしやすいように、進化の過程で生まれたものだ。本来動物は言葉を使うことはないし、感情をジェスチャーや行動で示していたはずだ。
言葉という媒体は、一人の人間から別の人間へと、自分の思っていることや感情をうまく運ぶためのもので、言葉そのものが主役というわけではない。
ただ、言葉の並び替えや文章のちょっとしたリズム感の違いで、書き手と読み手のつながり具合は、全く違ってくる。
深く、深く、本当に深いところでまるで一心同体のようになれることもあれば、本当に浅いところで楽しむだけの文章もある。そういう文章は、ただの知識として吸収されることの方が多いけれど。
そういう体験をさせてくれる文章というのは、本当に貴重だと思う。
けれども、私はこれまでの人生の中で、何冊か、そういう本に出会った。数少ないけれど、確実に「自分はこの本を通じて、著者と繋がっている」と感じられる本を。
そういう本に出会ったときの安心感は、何にも変えられないようなものだった。
そうだ。
私は生まれて始めて村上春樹の短編「沈黙」を読んだとき、本当に衝撃を受けたのだ。
話はシンプルだった。説明するまでもないような話だ。けれども、私はそれを読んだとき、あまりのショックでしばらく動くことができなかった。
なんだこれは、と思った。なんなんだ。何が起きたんだ。
その短編は、私がこれまでにしたどの行動よりも私を救ってくれた。これは私だ、と思った。これを書いた著者と、私は確実に繋がっていると思った。私が誰に相談しても解決できなかったことを、その本は解決してくれた。母に話しても、友達に話しても、一向に霧が晴れなかったのに、その本を読んだ瞬間に、すべてが吹き飛んだ。
驚きのあまり、涙も出なかった。
そして、思った。
この本は、この世界の誰よりも、私のことを理解してくれている。
そう、私を救ったのは、「共感」だった。著者に強烈に共感するという、「この著者は自分だ」と思うほどに強く共感することによって、私は救われたのだ。私の人生は変わったのだ。私はそれを読み、言葉というものが持つものすごい力を実感したからこそ本に携わる仕事に就いたのだ。
人をもっとも救うのは、有効な解決策でも具体的な行動事例でもなく、「共感」なのかもしれない。
あるいは、これは私が女性なのかもしれないけれど、「共感」の持つ力は偉大で、本当に辛いとき、死にたいと思うとき、もうここから逃げ出したいと思うとき、救ってくれるのは親からの「散歩でもしてきたら」というアドバイスでも、友人からの「悩んでないでとりあえず行動した方がいいよ」というメッセージでも、恋人からの「困ってるなら力になるよ」という優しさでもない。
「あなたは一人じゃない」と、心の底から実感させてくれる、言葉なのだ。
こんなに苦しい思いをしているのは、自分だけじゃない。このきつい感情を味わった人がいる。この気持ちを理解してくれる人がいる。一人じゃない。みんな同じ。
私以外にも、この辛さを味わって、そして、乗り越えた人がいる。
本当に本当に辛いときには、その事実さえあれば十分なのだ。
具体的な対策も理屈もいらない。親切も気遣いも必要ない。
辛いときに必要なのは、やっぱり、怨念なのだ。
嫉妬を抱く自分なんて、ダメだ。
焦りを感じて、みっともない。
こんなに認められたいと思うなんて、なんてダメな人間なんだろう。
そう思ってしまうとき、必要なのは優しさでもなんでもなく、「私はあなたと同じ」という、深いつながりなのだ。
そして、言葉というのは、人と人を、深く、本当に深く繋げられる力がある。
こうして深く、暗い感情を吐露する。
吐き出す。思い切って、告白する。
誰にも知られたくないと思うようなことを、あえて言ってしまう。
こんなやり方でいいのかなと思ったけれど、もしも「負の感情」を通して、私が誰かと繋がることができるなら、別にそれでいいや、と思うようになった。
モチベーション、ってなんだよ、と思う。
何のために書くのか。
何を求めて書くのか。
たしかに、迷走していると思う。
負の感情を持て余しているとも思う。
でも、そいつらをいないものとみなして、自分は幸せで、楽しくて、親切でと、プラスの部分ばかり見るのも、なんだか怖い。
いいのだ。
もう、なんでもいいのだ。たぶん。
いや、まだわからないけれど。
もしかしたら、ちゃんと迷走できるのだって、今だけなのかもしれないから。
迷走している今の気持ちを吐露することで、迷走している別の誰かと繋がれる可能性も、今だけなのだ。
今の気持ちは、今この瞬間だけのものだ。
プラスでもマイナスでも、どちらも大事にしていきたい。
もう二度と味わうことがないかもしれないものを、できるだけ正確に残しておく。いつでも感じ直すことができるように、真空パックみたいに封印する。
あるいはそのために、私は書いているのかもしれない。
「川代ノート」は月〜金の22時更新!
*この記事は、人生を変える「ライティング・ゼミ《平日コース》」フィードバック担当でもあるライターの川代が書いたものです。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになると、一般の方でも記事を寄稿していただき、編集部のOKが出ればWEB天狼院書店の記事として掲載することができます。
http://tenro-in.com/event/44700
❏ライタープロフィール
川代紗生(Kawashiro Saki)
東京都生まれ。早稲田大学卒。
天狼院書店 池袋駅前店店長。ライター。雑誌『READING LIFE』副編集長。WEB記事「国際教養学部という階級社会で生きるということ」をはじめ、大学時代からWEB天狼院書店で連載中のブログ「川代ノート」が人気を得る。天狼院書店スタッフとして働く傍ら、ブックライター・WEBライターとしても活動中。
メディア出演:雑誌『Hanako』/雑誌『日経おとなのOFF』/2017年1月、福岡天狼院店長時代にNHK Eテレ『人生デザインU-29』に、「書店店長・ライター」の主人公として出演。
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