チーム天狼院

【「冷静」と「冷めてる」、勘違いしていませんか?】第一印象で「怖い」「冷めてる」ってよく言われるのが結構ショックなので改善します《川代ノート》


冷静

昔から、第一印象が悪いタイプだ。

クラス替えのたびにびびられるのは基本である。「さきのこと最初めっちゃ怖い子かと思ってたわ!」と言われるのにはもう慣れた。つり目と口角の下がり気味な口と人見知りのおかげか、「怖い子、ギャル」と思われるのはいつものことであった。実際に話してみるとそれほどでもないということがわかるので、
「さきって意外とやさしいんだね」とよく言われた。「意外と」は余計じゃ、なんて思いつつ、ひそかに、「冷たい子」と思われがちなのがコンプレックスだった。

二度と忘れられない出来事がある。中学二年のときだ。
私はちっともうまくなかったけれどテニス部に所属していて、そのときはちょうど合宿の真っ最中だった。
顧問の先生は三人つきそってきていて、休憩中に顧問二人と部員何人かでおしゃべりをしていたときのことだった。
「川代さんってさあ、なんていうか、冷めてるよねー」
唐突に、顧問の一人にこう言われた。
「冷めてる」と言われたのはそれが初めてではなかったし、そう見られがちなのだということは自覚していたけれど、まさか教師に言われるとは思ってもみなかった。
そのときは気が動転して「え、そうですか?」と返すしかできなかったのだが、そのあとも
「うん、なんかねえ、やっぱり冷めてるよね」と言われ、それ以来しばらくその教師とは口をききたくなかったものだ。

言われたことのない人は分からないと思うが、「冷めてる」とか「冷たい」と言われるのは相当堪えるものだ。アイデンティティの形成しきっていない思春期だったらなおさらだ。トリュフォーの映画ばりに「へん、大人はわかってくれないもんさ」とすませられればよかったのだが、小心者で繊細な私は「私、冷めてるのかな・・・」と内心ずいぶんと落ち込んだものである。今振り返ってみても、いい大人が、しかも教育者が、いたいけな13歳の少女に面と向かって「冷めてるよね」はないだろ、と思うのだけれど、実際私は生意気で冷めた発言をしていたのかもしれない。いわゆる中二病だったし。

そんなわけで、ずっと「冷めてる」ように見られる自分がコンプレックスだった私は、就職活動ではずいぶんと注意深く面接に臨まなければならなかった。第一印象が命と言われる面接で「冷めてる」と思われたらおしまいだ、ということで、会社に入る10メートルくらい前から口角を上げ、「真顔が笑ってる人」という自分を演出していた。面接が始まってから終わるまで全力の笑顔を作り、顔の筋肉がよく強張ってしまったものだ。

だから第一印象にはずいぶん苦労してきて、「自分は冷めてるんじゃないか」という悩みに苛まれてきた私ではあるが、はっきり申し上げて、私は「冷めて」なんかいないのである。そりゃもちろん「冷めている」部分はあるし、興味のないものに冷めた見方をしてしまうことはあるが、基本的に世の中すべてを冷めた目で見ているということはない。むしろ内側のところでは暑苦しいくらいだと自負している。

九州の血が入っている親に育てられたせいか、義理人情にはうるさいし、少年ジャンプの基本原則「友情・努力・勝利」なんてフレーズを聞いたら血がうずいてしまうくらいだ。一時期は松岡修三と結婚したいと思っていたこともあった。スポーツ漫画や青春映画では誰よりも早く泣いてしまうし、行事では抑えていてもテンションがあがってしまうし、とにかく「熱い」ことにかけてはなかなかのもんだと思う。

熱いからこそ気を付けていることがある。
「冷静」でいることだ。熱くなってしまうと、ついつい周りが見えなくなって、自分だけで突き進んでしまうことがある。周囲に耳を傾けず、主観的な意見だけに頼るようになってしまうと、その場で最適な判断が出来ない。だからこそ熱くなってはいても、「冷静」でいることを欠いてはならない。

心の熱さをキープするための冷静さだ。それが無くなってしまっては、「ただの暑苦しいウザイやつ」になってしまう。熱さも冷静さも、どちらも同じくらい重要で必要だ。

という考えが、物心つく頃からぼんやりとあったような気がする。だからこそ、部活にしろ行事にしろ、みんなが熱くなっているときほど冷静でいるようにつとめ、客観的な意見を述べるようにしていたのだが。

そんな態度は、傍から見れば「冷めている」ということなのかもしれない、と思った。
なるべく熱くなっていることを表に出さない。話し合いが白熱してしまっているときは、誰かが俯瞰の視点から物事を見るようにしなくてはならない。そういう冷静さというのは、熱さと真逆のようであるけれど、必ず必要なのだ。

「冷めている」ことと「冷静」なのは違う。私は決して冷めた人間なわけではない。冷静さというのはチームにおいても、個人の人生にとっても必須事項である。何か大きな目標を達成しようとしているときはなおさらだ。だから常に冷静でいようと努めていただけなのだが、「冷めている」と思われてしまうことは実に多い。悲しいことだけれど、傍から見れば、「冷めている」も「冷静」も言葉が少し違うだけで大差はないのかもしれなかった。

そのあと私はなんとなく、冷静でいることにあまり拘らなくなってしまった。「冷めている」と言われてしまうくらいなら、もともと熱い人間を演じたほうがずっと楽だと思うようになってしまったのだ。「冷めてる」ってなんだろう、どうしてあんなこと言われたんだろう・・・そんな思いがぐるぐると頭の中をかけめぐり、結局は自分のコンプレックスになってしまった。

けれど今になって思うと、やっぱり「冷静さ」を欠いてはならない、と思う。集中しすぎないこと。いわば俯瞰力というやつか、ものごとの判断にはどうしても感情よりも理性の方が頼りになる。感情が理性を上回ってしまうようになると、ヒステリーを起こしたり、自分本位になったり、せっかくの感受性が悪い方向へ行ってしまう。自分の感情をきちんと感情として楽しむためにも、やはり冷静さは必要なのだ。誰にでも。どんな場面でも。

そろそろコンプレックスをなくしていく頃だ、と最近思う。
私の多すぎるコンプレックスも、自分で振り返って認めれば、少し気を付けるだけで楽になれそうなものばかりだ。「冷めている」と言われてしまうことも。それを「冷静じゃなくなればいい」とひねくれてネガティブにとらえてしまっては、せっかくの向上のチャンスも失われる。けれど「自分の明るい部分や熱い部分を出していくチャンスだ」と考えれば、コンプレックスも長所になるかもしれない。どんなことも希望やチャンスに変えられる力が、今はほしい。

けれどこれだけは言っておきたい。私は冷めてなんかはいない。むしろ暑苦しいくらい真剣である。どうでもいいことにまで真剣である。でなければ、「冷めている」のと「冷静」の違いについて、一記事ぶんもあつく語ったりなんかはしないのだ。

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2014-07-01 | Posted in チーム天狼院, 記事

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