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チーム天狼院

あなたが失恋したときも、わたしがまた失恋したときも、きっと世界中の表現者がその想いをすくってくれる。《三宅のはんなり京だより》



はじめまして、えーと京都在住でありつつ「遠隔インターンシップ」中の、京都大学文学部三宅香帆と申します。

 

のっけから「失恋」って何でそんなしょっぱいんだ、とツッコミを受けそうだけれども、

私が天狼院で三浦さんや川代さんと「失恋ってなんなんだ」みたいな話をしたとき、「それ記事にしようよ!」と三浦さんにキラキラした目で言われたのがことの始まりでして。

ひじょーに個人的な話を交えつつ、「失恋」について書いてみようかと思います。

 

 

「失恋」というコンテンツがある。

失恋をテーマにした文学、絵画、音楽、映画、漫画………この世のあらゆる「芸術」において、「失恋モノ」はあふれるように存在する。

 

片思いが成就せず終わったり、付き合って別れたり、相手に新たな好きな人ができたり。形は様々でも、みんな「好きな人が私を好きになってくれない」ことをず―――っと嘆き悲しんでいる。

そんな、世の中に異性はいくらでもいるのに。その人に好きになってもらえなかったからって、あなたがダメなわけじゃなくて、ただ合わなかったってだけなのに。

 

私はずっと不思議だった。

「何で世界の文学には失恋モノが多いのか」。

むかーしむかしの叙情詩に始まり、源氏物語も、シェイクスピアも、ゲーテも、みーんな「失恋」を嘆き悲しんでいる。

もちろん世界名作文学全集だけじゃなくて、

私が友達との関係に苦しんでいる時も、将来について悩んでいる時も、

相変わらず、コンビニではラブソングが流れ、月9ではすれちがう男女が写され、本屋には「失恋したあなたへ」という帯が並んでいた。

 

恋愛はたしかに大変だし失恋もつらいと思うけど、

それよりも部活や勉強や将来のことのが悩むんだけどな~~~。

こないだまで私はそう思っていた。

失恋に苦しむ友達を見て、「私は冷静に恋愛する方なのかもな」とか自己分析していた。

 

だけど、と今思う。

 

ごめんよみんなーーーーーわかるよーーーーー!!!!

、と。

 

私は彼氏がいたこともあったのだけど、正直「恋愛にのめりこむ」タイプではなかった。というより「時間とられるし恋愛めんどくさいなー」くらいに思っていた。

だって恋愛よりもしたいことは他にある。本ももっと読みたいし、勉強もしたいし、友達と喋るのも好きだし、スキマ時間もTwitterやテレビや雑誌を見てたら暇な時なんてない。

淋しい時とか慰めてほしい時もあるから彼氏はほしいけど、他の時間を削る程になっちゃやだなぁーとかなんとか思いながら、友達と「リア充いいよねぇ」なんて言いつつパフェを食べていた。

 

だけど、去年、

「な、なんでこんなにってか何なん自分おいおいおい!!!」とツッコミたくなるような恋をした。

そしてそのまま、相手に他に好きな人がいることを知るという「失恋」を体験したのだ。

 

 

私はこの時、自分で自分にとても驚いた。

恋した瞬間、失恋した瞬間、

景色が、変わったから。

 

今までの私が一気に壊れる。

受験とか部活とかバイトとかで鍛えたと思っていた自分がだめになる。

自分の今まで培ってきた自信が一気になくなる。

 

好きになってからというもの、

lineが既読になっているのに返事が来ないことをわざわざ何度も確認したり、

相手に借りたCDをやたらリピートしてみたり、

インターネットの検索窓に色々な言葉を打ち込んでみたり、

「あれ???私なにやっとんのってか時間の無駄すぎることばっかやっててどうしたん、そんな人やっけわたし????」と思うことばかりするようになった。

 

失恋した後は、本を読んだり勉強したり友達と喋ったりしているあいだも、ことあるごとにその人の顔が浮かんだ。確実に集中力が落ちている自分がいた。

浮かばれない恋をしてるなんて、自分がみじめな気分になった。なんでこんなにカッコ悪くてどろどろした私になってんだろ、と。

 

学校の勉強も本の知識も自分の対人スキルもなんにも役に立たなかった。というか役に立たせられる自分になれなかった。

成績が悪ければ勉強すればいいし、友達と喧嘩したら謝ればいいと思ってた。

だけど失恋しても、他の人を好きになるとか、何かで気を紛らわすとか、なんにもできなかったのだ。

 

当時は「何で彼を好きになっちゃったんだろう」と本当に思った。

恋なんて、失恋なんて、時間を無駄にしてるとしか思えなかった。

 

だけど、と今は思う。

だけど、「あなたを好きになってよかった」と、今は、思えるのだ。

 

なぜか。

私は「失恋」という経験を通して、自分も、世界も、前より好きになれたからだ。

 

その事の始まりは、とある少女漫画を読み返したときだった。

昔読んだことがあって、まぁ普通の失恋モノだと思っていた少女漫画。

でも、失恋した後、その漫画を読み返したとき、

主人公の気持ちが、痛いくらい突き刺さってきた。

昔は読み飛ばしていた台詞が、ひどく心に刺さるようになっていたのだ。

そしてそこから、あらゆる「失恋モノ」が、私に急に鮮明に響くようになったのだ。

 

失恋する前と後では、

月9のドラマも、百人一首も、少女漫画も、ラブソングも、まるで色が変わったみたいに、全然違った。

「以前分からなかった、この主人公が泣く意味を、今の私は分かる」と驚いた。

「あなたにあえてほんとうによかった」と歌うラブソングは昔から知っていたけれど、その歌に人々が涙する意味をはじめて知った。

 

そこで、世界中の人々が、昔も今も「失恋」を題材として取り上げる意味が、やっとわかったのだ。

 

「ああ、今までの自分の価値観が壊れること、理屈が通らない、オール100%の『感情』で、理屈づけた自分をも壊されることなんて、『失恋』以外にないからなんだ」

と肌で感じたのだった。

 

ここからは私の勝手な解釈なのだけど、

そもそもの話、

文学や絵画や音楽といった「芸術」は、人の「感情」に訴えるのだと思う。

 

自分の体験や、架空の人物を含めた誰かの体験に基づいて、送り手は受け手に、何かを伝えようとする。何かを共有しようとする。それが表現するということだ。

そして芸術の場合、その「何か」は「感情」であることが多い。それで数式や論理を伝えようとする人は、そもそも「芸術」を使わないからだ。

例えば自然や町並みの美しさに感動したとき、その感動をキャンパスに表そうとするし、

例えば事故に遭って苦しい想いをしたとき、その苦しみを曲にしようとする。

もちろん絵画や音楽が「何かの教えを伝える」ことを目的とした時代もあるけれど、それですら絵画や音楽を使って分かりやすく「神々しさ」や「偉大さ」を伝えようとしたのだろう。

 

そうなった時、「失恋」ほど、ありふれているのに、理屈の一切通用しない「感情」100%のコンテンツはないのだと思う。

好きな人が好きになってくれない、と言ったところで、失恋したことのない人には伝わらない。解説できない。この辛さを味わった人にしかわからない、と思ってしまう。

やめた方がいいって理屈では分かってるけど諦められないとか、こんなに言葉を尽くしても伝わらないとか、感情だけが、がんがんと揺さぶられる。

だから、芸術にのせる。表現する。

理屈では言えないから、せめて。

だってこんなに大きな変化が自分にあったんだから。

その感情を、芸術家は、表現せずにはいられないのだろう。

 

 

そして、受け手側――読者、鑑賞者――もまた、同じなのだ。

失恋して辛いとき、たいていの友達は「忘れて次の人にいきなよ」とか「気を紛らわすことをした方がいいよ」とか言ってくれる。

もちろん、その反応は正しいのだろうし、理屈ではそうすべきなのだと思う。

だけど、その理屈が通らないのが、「失恋」だ。

したらいいこととかそんなことわかってるけど、けど、けど、つらいもんはつらい。

 

そう思ったときにきっとある部分で救ってくれるのが、「芸術」なのだと思う。

小説や歌詞を読んでいて、はっと「なんでこの作者は私の感情を知ってるんだろう」って思う時がある。そしてその時、私は少しだけ、そのつらさが薄まるのだ。

自分のつらい気持ちを言葉にされたり、苦しい感覚を絵にされたり、痛い部分を曲に乗せられたりしただけで、人はたぶん、救われる時がある。同じ感情を表現してもらえるだけで、その感情を浄化してもらえたような気になる。

解決策でも打開案でもないのだけど、

まるで金魚すくいでとある金魚をすくってもらったかのように。自分のつらい感情を拾い上げて認めてもらった気分になるのだ。

そうやって失恋した人は、「失恋モノ」を読んだり見たり聴いたりして、涙を流すのだろう。

 

だからきっと、そんなふうに、人は、「失恋」というコンテンツを、表現し続け、涙し続けるのだと思う。

 

人を好きになることは、きっと人間が人間である限り変わらなくて、失恋もきっとなくならない。

だとすれば、昔から今に至るまで芸術に「失恋モノ」があふれる訳が、私にはわかったのだった。

 

私が今までわからないことはたくさんあったけれど、

苦手な数学も物理も、原理をちゃんと解説した参考書を読んだら理解できた。

友達との諍いも、親の反対意見も、理由を聞けば納得した。

この世には、解説されても説明されてもわからないことがあるなんて、思ってなかった。

 

だけど、世の中には、たくさんたくさん、経験してみないとわからないことがある。

 

というかむしろ世の中は経験してみないとわからないものだらけなのだ。

 

私は二十歳にしてやーっとそれに気づいた。遅い方かもしれない。というより高校生の時だって「まぁそりゃ経験しないと分かんないよね」なんて適当に言っていた。だけど、これこそ説明じゃなくて、経験しないとわからないのだ。

 

世界中の「失恋モノ」を、より味わえるようになったこと。

「経験しないとわかんない」ことを知れたこと。

とりあえずこの二つだけでも、私は、「あなたを好きになってよかった」って思える。

もし失恋していなかったら、私はこのことを知らない。

それだけでも失恋した意味はあった。結果がだめでも、無駄なんかじゃなかった。

 

こんなこと書きながら、こんなの失恋に酔ってる二十歳の女子大生の呟きだし、あとから見たら恥ずかしさで死にそうになるのだろうなぁと思うのだけど、

だけどそれでも、この文章をてらいなく書けるようになった私は前より、自分をいいと思えるのだ。

 

恋はめんどくさい。

失恋はしたくない。

 

だけどそれでも、

恋をして、振り回されて、自分の価値観が壊れて、

その上でまたつくってく自分の方が、私は私を好きになれる。世界を好きになれる。

と、思う。

 

頑固な私が自分の枠を広げるには、それくらいおっきな衝撃がなきゃだめなのだ。

 

私はちゃんと傷ついて、大きな人間になりたい。

できるだけたくさんの人の感情を、想像できる、受け入れられる自分になりたい。

私が好きになれる私になりたい。

 

傷ついたときには、世界のあらゆる表現者の声を聞けばいい。あるいは自分で表現したらいい。

きっとそうやって世界は回っているのだと私は思う。

 

あなたが失恋したときも、わたしがまた失恋したときも、きっと世界中の表現者がその想いをすくってくれる。

そう思えた瞬間、私は、世界中の「失恋モノ」を、好きになったのだった。

 

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2014-08-18 | Posted in チーム天狼院, 記事

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