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最近、「口コミ」に踊らされてる人、増えていませんか?《三宅のはんなり京だより》


こんにちは、遠隔インターン生の三宅香帆です。

 

突然だけれども。

パフェが好きだ。

 

フランス語でParfait!(パーフェクト、完璧の意)とはよく言ったもので、

私の好きなものがぜんぶ入ってる、夢のよーな食べ物である。

だけど、私がパフェを好きなのは、それだけが理由じゃない。

というか根本的な理由は、そこにはない。

ということに最近、気づいた。

 

私がパフェを好きなのは、

パフェを食べる状況というのが、私にとって、いつも「幸せな状況」であるからだ。

幸せなことに、私はパフェを不幸な気分で食べたことがない。

パフェを食べるとき、女友達とわいわい近況報告しあったり、久しぶりの友達と会ったり、私は大抵「香帆ちゃん甘いもの好きでしょう、パフェ食べようよ」って言ってくれる人と食べている。

そんだけ私を気遣ってくれる人といるというのは幸せな状況で、おかげさまで私は不幸な気分でパフェを食べたことが一度もない。

 

ということは。

私がパフェを食べると幸せになる、というのは、

パフェの味 = 幸せ! な訳ではなく、

パフェを味わう状況 = 誰かと楽しくいる時 = 幸せ! なのではないだろうか。

 

たしかにいくら私がパフェ好きとはいえ、
例えばケーキバイキングで食べすぎて「もう甘いもん絶対いらない……」という時にパフェを出されても、きっと私は幸せな気分にならないだろう。

 

これは別にパフェに限ったことではない。

疲れた後の甘いものはおいしいし、疲れた後に飲む一杯目のビールはおいしいし、外で誰かと食べるおにぎりはおいしい。要するに、その時々の自分に合った、自分が好きだと思えるものを味わうと、人は「おいしい」と感じる。

逆に、どんなにおいしいものでも、恋人との別れ話の最中に食べてたり、食欲がないときに無理やり食べてたりすると、おいしいとは感じない。

 

これは結局、
その場の自分の気分や状況によって、味は変わる。

ということじゃないだろうか。

その時の自分によって感じる「味」が変わるだなんて、

これってものすごく主観的で「気のせい」な気がするけれど、私はそうは思わない。

 

きっと普段語られるよりももっと、「味覚」は主観的で、自分によって左右されるんじゃないだろうか。

 

「好き嫌い」は人によって違う。

それは割と周知の事実で、

きっと世の中にはパフェが苦手という人は大勢いるだろうし、
世の中にたくさん好きな人がいる「マヨネーズ」が、私は苦手だ。

人によって味の好き嫌いがあるのは当然だ。その好き嫌いに良いも悪いもない。

それはひたすらに、自分に合ってるかどうか、自分が好きと思えるかどうか、だ。

 

またその好き嫌いも、自分の中ですら、変わる。

私は昔偏食が激しく、特に「卵」がものすごく苦手だったのだけど、
今は、オムライスも、パスタの上でとろりと割れる卵も、大好きだ。

その場の自分によって、色んな原因が積み重なって、好きか嫌いか、おいしいと思えるかどうかは変わる。

 

ここで私が少し思うのが、

今、どんどんみんなが「味覚」を絶対的なものとして捉えてるんじゃないだろうか、ということだ。

「おいしいものというのは世界で決まっていて、それはいつでもどこでも誰でもおいしいと思うものだ」と思う人が増えているんじゃないだろうか。

もっと分かりやすく言うと、

今、「口コミ」が、ちょっとのさばりすぎてやしないだろうか、
と思うのだ。

 

たとえば「衣食住」でいえば、

「衣」において「モデルさんが着たら可愛いのに私が着てもビミョーな服」や「流行っていて皆が着ているのを見て可愛いと思ったけど、私が着たら何かヘンな服」があることを知らない女子はいないだろう。

「住」において「コンクリ打ちっぱなしの家はかっこいいけど、子どもがいる家族には向かない」とか「家が広すぎると一人だとちょっと持て余すし掃除が大変」という意見に頷く人は多いだろう。

だけど、「食」においては、今、「口コミ」を気にする傾向が増えているように思う。

おいしいパンケーキ。街一番のラーメン。行列のできるイタリアン。全部全部「口コミで1位」の結果じゃないんだろうか。

それは結局、今、「皆がおいしいと思うもの」「誰かがおいしいと思うもの」は「私もおいしいと思う」のが普通である、と思う人が増えている結果だと思う。

 

もちろん多くの人が「おいしい」と思える食べ物はあるだろう。

丁寧に作られていたり、素材が新鮮なものだったり。

だから口コミが100%ウソになるとは絶対に思わない。

だけど、同時に、じゃあ100%ホントかというと、絶対に違う、とも思う。

口コミで言ったらきっと「低評価」になるであろうファーストフードや牛丼も、私はバイト後にくたくたになった状態で友達と愚痴を言いながら食べれば「おいしい~~」って思うし、

どんなに「高評価」なレストランのディナーだって、私の嫌いなマヨネーズが使われてれば「うっ……」と思うかもしれないし、誰かと喧嘩しながら食べればしょっぱい味がするのだろう。

 

食べ物に対する評価は、人によって、その時の自分によって、違う。

 

もちろん他人の味覚に共感することもあるから、

「あれおいしいよねー!」と盛り上がるのはとても楽しいし、
「これおいしかったよ!食べてみて!」とそのおいしさを分かち合うことは嬉しい。

だから例えば「食ライター」が「これはこういう味で、私の好みでした!」と言ってそのおいしさを広めたいと思うのも、
ブログやツイッターで「これおいしかった!」と言いたいのも、大いにわかる。実際私も言う。

だけど今の「口コミ」評価のように、

皆の好みの集合があたかも全員の絶対評価のようになるのはどうなんだろう?と、
私は思う。

皆がおいしいって言うところに行ってみたい気持ちは私にもあるけれど、

それはあくまで皆の評価の平均値だってことを、どこかで忘れてはいないだろうか。

というより、その料理の味以前に、お腹を空かせてたり楽しい会話をしたり、
「料理をおいしく食べられる自分であること」が、おいしく料理を食べる大前提であることを、まずは忘れてないだろうか。

 

 

世の中の味わい方は、自分の主観によって、絶対的に、変わる。

それは「味」だけではなくて、

「楽しい時間はあっという間」というのは本当であることが分かっているし、

服は着る人によって印象も違えば、それを見た人の中でも印象はわかれるし、

本だって漫画だって、読者の好みや状況によって評価は違うものになる。

それこそ、「失恋して世界が変わった」というのもその一種だ。

 

だけど、「口コミ」という機能を使い続けていると、

口コミという世間の人々の評価の総合体を、まるで自分で下した評価のように感じてしまう時が来そうで。

「皆がおいしいって言ってるから」おいしいと感じるようになる日が来てしまいそうで。

私は、それが、こわい。

 

なぜか。

なぜ私は「世間の評価」と「自分の評価」を混合するのがこわいのか。

もし誰かに操作されたとき、私がそれに気がつかないからだ。

 

例えば私の大好きな「たいやき」で考えてみる。

『京都のたいやきやさんは、A店がトップ!』という口コミランキングがそこにあったら、
私はそれまでB店の方がおいしいと思っていても、「いやーランキングでA店の方が上だし」と思ってA店を選ぶようになるかもしれない。

口コミが純粋に「皆の意見の集合体」であるなら、別にそれでもいいかもしれない。

だけど、もし、裏でものすごーいお金の取引があって、口コミの評価を操作されたとしたら。

A店がお金を積んで口コミ1位になってたとしたら。

もし私が口コミの評価を、自分が下した評価と混合していれば、

私はきっと気づかずにその操作された「口コミランキング」に従って、お店を選ぶ。

お金を持ってる第一位のA店のたいやきを「おいしい」って思うようになる。

そうなると、だんだん、「本当に丁寧に作っておいしいB店」よりも「お金を積んで口コミで1位になったように見せかけたA店」をおいしいと思うように私はなってしまう。

 

要するに、誰かが私を操作しようとしたとき、「世間の評価」と「自分の評価」を混合していると、知らない間にその操作に従ってしまうのだ。

 

たいやきで済んでるうちはまだいいかもしれない。

だけど、たいやきでこれが成功すれば、もっと悪いことに使う人はきっと出てくる。

自分の利権を増やすために。自分の得るお金を増やすために。

私を操作しようと思う「賢い」人々はもっといっぱい出てくる。

 

私が、食べ物に限らず、色々なところで世間の人々が「いい」って言ってる意見を、自分も「いい」と思うようになったら。

きっとマスコミやインターネットを使って、「皆を操作したい」「皆に気づかれずに自分が得をしたい」人々は、見せかけの「世間の意見」を作り上げる。

そこで作り上げられた「世間の意見」に従う私は、格好の餌食だ。

誰かが操作したいように、私の意見は操作されるんだろう。

私に不利な選択だったとしても、きっと私は不利な選択をしたことに気づかない。

「世間のみんなと同じ意見なだけだもん、私だけじゃないもん」って思うだけだ。

そして、気づいたときには、もう遅い。

気づいたときには、権力――というよりどこかの「賢い人」――に操作されまくった私がいるだけだ。

 

こわい。

そうならないために、私は今から気をつけておくしかない。

世間と自分を混合することを「こわい」と思っていないと、混合しないように気をつけておかないと、

きっと自分が変化していることに私は気がつかない。

「世間の評価と自分の評価を混合している」自分になっている、という変化に、きっと気がつかないのだ。

その変化に気づかないとき、きっと私は、
「他人に操作された」されたことにも気づかないだろう。

私はそれがこわい。

でも今から気をつけておかないと、私はそうならない自信がない。

ただひたすらに、気をつけておくしかない。

 

どうやって。どうやって気をつけたらいいんだろう。

そのために私は、その一瞬一瞬の、「今」の自分の感覚をひたすら頼りにするしかないんだと思う。

 

今の私の主観は何を欲してるんだろう?

今の私は何をいいと思うんだろう?何がしたいんだろう?何を楽しみたいんだろう?

世間や過去の自分ではない、「今の自分」はどう感じるのか。

もっともっと素直にそこを大事にするのが、実は一番大切じゃないのか、と。

素直に。偏見なく。感じることを大事にする。

 

むやみやたらに疑うのは違うし、自信過剰になるのも違うけれど。

それでも、

もっと世間を疑え。自分を信じろ。

心のどこかでそう思っておくことは、必要なことじゃないのかな、と私は思っている。

 

 

いつかもし「パフェは健康に悪い!パフェはおいしいと皆思わないはずだ!」という意見が主流になったとき、

それでも私は「いやパフェおいしいやん幸せやんちょっと待ってー!!」って言えるだろうか。

皆が「え~パフェってちょっと……」って言い出して、パフェをおいしいと皆が言わなくなったら、

パフェにまつわる幸せな思い出が生まれなくなり、私もパフェをおいしいと思わなくなるんだろうか。

 

そんな日が来ないことを祈りながら、

とりあえず私は、今この私の気持ちを大事にして、

パフェおいしいよ幸せだよーーーーって大声で言うのであった。

 

 

あ、ちなみに画像のおいしい抹茶パフェは、京都の「からふね屋珈琲店」で撮ったものです。珈琲店と銘打っておきながら、パフェがものすごい種類あるカフェです。京都には何店かあるはず。よく行く熊野店にはお世話になりすぎてるため、この場を借りてお礼を申し上げておきます……。京都にいらした折には皆さんぜひぜひ!

 

―――って言う私の言葉でさえ、あなたにとっては、、ひとつの「口コミ」にしかすぎないのだけれどね。

 
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2014-08-23 | Posted in チーム天狼院, 記事

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