たられば人間、開眼す
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記事:野口桃花(ライティング・ゼミ集中コース)
もし、違う選択肢を選んでいたら。あの時、ああしていれば。
誰しも一度くらいはそう思ったことがあるのではないだろうか。
私は一度どころではなく、常日頃そう思っている。もともとファンタジーやフィクションが好きなこともあり、「もし〜〜だったら……」なんて夢想はもはや得意技の域だ。
たらればを口にする人は言い訳ばかりしている、と思われるかもしれないが、長所と短所は紙一重と言うように、たられば人間にも良いところはある。「取らぬ狸の皮算用」なんて言葉があるが、それは捉え方を変えれば、より良い未来に思いを馳せることができるということだ。もし宝くじが当たったら何を買おう。あの時ああしていれば、ケーキに舌鼓を打つ今の自分はいなかったんじゃないか。この通り、たらればをポジティブに使うことができれば、日々の中に小さな夢を見て、楽しく生きることができるだろう。
ただしそれは、たられば人間の特性を上手く使うことができるという前提あっての話だ。先ほども言ったように長所と短所は紙一重、使いようによって人はどうにでもなる。
これから語るのは、とあるたられば人間が開眼するまでの話だ。
とあるたられば人間は夢を見た。より良い未来を思い描いた。
といっても、そんなに大層なものではない。このたられば人間は、いわゆるオタクだ。漫画やゲームが好きで、それらの本編では語られない事柄を夢想するのが楽しくてたまらない人間だ。
はじめのうちは夢想するだけで楽しくて仕方がなかったたられば人間だが、そのうち夢想するだけでは物足りなくなり、それを書き記す側に回るようになった。書いてみると、もっと楽しかった。何より、自分の頭の中にしかなかった幻を書き記せば、それが文字としてこの世に生まれてくるところなんて、話を綴った張本人でありながら心が震えた。何かが生まれてくることの尊さを、身をもって知った。幻が現実になる奇跡を知り、遅筆ながらも様々な話を綴った。綴るたびに、達成感が全身に染み渡った。自分の綴ったものを本にしてみた時は、出来上がった本(B6用紙20ページにも満たないものだ)を思わず抱きしめたほどだった。
しかし、たられば人間は青かった。青さゆえに、向こう見ずな考えに至った。
「話を書くことができるなら、絵も描けるようになったら、きっともっと楽しいのではないだろうか」と。
好物に好物をかけ合わせたら更においしくなるだろう理論だ。たられば人間は早速研鑽に励み、努力を怠らなかった。慣れないことだったが、より良い未来を目指してせっせと線を引いた。
果たして、たられば人間が見た夢が現実になることはなかった。
頑張り屋ゆえに努力こそできたが、頑張りすぎて、先に身体が拒否反応を起こしてしまった。描かなくてはと思うのに、鉛筆が握れない。頑張らなくてはと思うほど、クロッキー帳が開けない。ここまで追い詰められて、たられば人間は自分の青さを省みた。夢を見ることは自由だが、それが叶うことはごく稀なのだということを、20代半ばにしてようやく思い知った。
絵の練習に使われていた多くのものは、押し入れの中で眠ることになった。
挫折して久しいある日、たられば人間は美容院へ行った。
そこで、開眼の師に出会うことになる。
髪を切りながら、美容師は言った。
「自分、最近ギターを始めたんです」
美容師が照れ笑う。挫折したたられば人間には、美容師の笑みが少しだけ眩しく感じられた。
「おお、ギター。アコギですか?」
「アコギとエレキ、両方ですね。アコギは中学生の時に憧れてたんですけど、指が届かないわ弦を抑える指も痛いわで、その時は諦めました」
なんだか意外に感じられた。美容師という職はなりたいものになれた人間が就くものだというイメージがあったから、そんな眩しい人も何かを諦めることがあったのだという事実に、少しだけ驚いた。
「昔諦めたことをまたやれるのって、すごいですよ」
ぽつりと本音が零れた。本音なものだから、挫折ゆえのひがみや羨ましさが声色ににじんでしまって、たられば人間は冷や汗をかいた。初対面の人に何を言っているんだと、自分の頬をつねってやりたくなった。
うーん、と美容師が唸る。数拍おいて、美容師は落ち着いた声色で語り始めた。
「最初にやりたいって思った時から随分時間は経っちゃいましたけど、今始められてよかったって思うんですよ。昔やりたくて今もやりたいことは、きっと爺さんになってもやりたいことだから」
だから、今始められるってことは、きっとラッキーなんですよ。
美容師の声は穏やかなものだったが、たられば人間の視界は一瞬にして晴れ渡った。視界が晴れるどころか、第三の目が開眼した気がした。
何かを始めるのを渋っているとき、知人たちは決まって「いつやるの? 今でしょ」やら、「今やらなきゃ絶対後悔するって」などと自分を急かす。確かに彼らの言うことも一理あるが、後悔するからやるというのはなんだか後ろ向きな理由な気がして、気が乗らなかった。
けれど、美容師は違った。今やりたいことは老いてもやりたいことだから、今やっておいたらこの先もっと楽しい、と言うのだ。
それは、かつてのたられば人間の青さの肯定だった。特性をポジティブな方向に発動して失敗した人間を、それでもいいと励ます優しい音色だった。
帰宅するなり、私は押し入れを開けた。
あの日しまい込んだ本と鉛筆に手を伸ばし、線を引く。「描けたらきっと楽しい」と、より良い未来を夢想して。
***
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