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メディアグランプリ

忘れ得ないボットン便所とピィちゃん


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:吉田けい(ライティング・ゼミ 超通信コース)
 
 
子供の頃、汲み取り式トイレの家に住んでいた。
ちょっと汚い話なので、苦手な方は注意されたし。
 
広い敷地に縁側がある平屋の木造家屋だった。部屋はすべて畳敷き、玄関と台所は土間で、昭和も終わろうという時代に、昭和のど真ん中を集めて保存したような家だった。その極めつけにして象徴が汲み取り式トイレだ。トイレなんて洋風の言葉はどうにもしっくりしない、便所といった方が風情が伝わるだろうか。出したものが落ちる音をくっつけてボットン便所、そんな風に呼ばれていた。
 
ボットン便所はもともとは和式便所だったそうなのだが、和式便所の上にかぶせると洋式トイレになるものをつけていたので、木戸を開けるとボットン洋式便所が出迎える。1人でトイレに行けるようになった4歳、普通に座ればそのまま尻からスポンと落ちてしまうので、逆向きにまたがって用を足していた。
 
「トイレにおもちゃ持ってっちゃダメだよ!」
 
母は私によくそう言っていた。当時の私はお気に入りのぬいぐるみやおもちゃをどこにでも持ち歩いていたからだ。家の中で置き場所が分からなくなって探し回るなんてしょっちゅうだし、外出でも一緒に連れていくといって聞かず、どこかに置き忘れて慌てて戻るようなこともあった。だから母は出来る限り外出の時におもちゃを持たないように説得してきた。出先で置き忘れたことに気が付かなければ、お気に入りのぬいぐるみと今生の別れになってしまう。4歳児にもそのロジックは理解しやすく、て、私はしぶしぶそれに応じていた。
 
でも、なんでトイレもだめなんだろう?
 
「トイレはおうちのなかだから、へいきだよ!」
 
そんな風に口答えをしては、母を振り切ってトイレにおもちゃを持ち込んでいた。その頃のお気に入りは、縁日で手に入れた黄色いヒヨコのぬいぐるみのピィちゃんだ。小さくってふわふわで、眺めているだけで幸せな気持ちになる。用を足す間、トイレットペーパーホルダーの下あたりにちょこんと置かれたピィちゃんは、健気に私を待ってくれているようで、面倒くさいトイレも頑張れるような気がした。
 
ある朝、保育園登園の支度を済ませた私は、いつものようにピィちゃんを連れてトイレに向かった。ふと思いついて、トイレの座り方をいつもと逆にしてみることにした。母や父や他の大人がしているように、便座の蓋側に背を向けて腰かけるスタイルで用を足してみたくなったのである。
 
「……座れた」
 
服を着たまま座ってみると、お尻は便座にハマらずに座ることが出来た。トイレの仕方を習った時よりも成長したのだ。手を離しても落ちない、これならこのまま用を足せる。足と足をぴったりつけて用を足すなんて、なんだかとってもお姉さんっぽくて素敵。
 
お姉さんだから、この膝の上にピィちゃんを乗せても大丈夫なんじゃないかな。
 
「…………」
 
ピィちゃんを乗せてお姉さんっぽくトイレに座る私。今こうして字面にするとアホ極まりないのだが、4歳の子供には至極魅力的な所作のように思えた。ペーパーホルダーの下で待っていたピィちゃんを膝の上に乗せると、いつもより近いつぶらな瞳が、私のトイレを応援してくれているようだ。ああ、素敵、なんて可愛いのピィちゃん。私は高揚した気分そのままに、パンツを脱いで便座に座り直し、ピィちゃんと共に用を足した。用を足したら紙で拭かなければいけない。いつものようにホルダーからトイレットペーパーをちぎり取り、股を拭くべく手を差し入れて──
 
ひゅっと、膝の上から、ピィちゃんが消えた。
 
「……えっ」
 
数秒硬直してトイレを覗き込む。覗き込んだ先は2メートルあるかないかの溜池になっていて、いつも薄暗くて汚くて臭くて、その一番上に大好きなピィちゃんがいるはずだ。どこだ、ピィちゃん。そう思った矢先、にわかに溜池の中が明るくなった。溜池横の汲み取り口が開いたのだ。そこから鼠色のホースが差し込まれ、中をぐるぐるとかき回していく。
 
「…………えっ、えっ、わ、ま」
 
汲み取り車が来てたんだ! なんてタイミングなの!
 
私は混乱のままに絶叫したが、目の前で溜池がぐるぐるかき回されるのが止まることはなかった。声を聞きつけた母がトイレまでやってくる。ピィちゃんが、ピィちゃんが、と泣き叫ぶ娘とかき回される溜池を見て全てを察したことだろう。母がその後どのような行動をしたのか覚えていないが、汲み取り作業が中断されることはなく、溜池の中は空っぽになってしまった。どこかの縁にピィちゃんがひっかかっていないかと何度も覗いたが、何度見ても変わらず空っぽなままだった。私は絶望して泣くしかできなかった。
 
ピィちゃんがおちちゃった。おかあさんにおこられる。
 
泣きじゃくる私のところに、母がやってくる。
 
子供は一度泣くとなかなか自分では止めることが出来ない。母の顔からは、怒っているのか、呆れているのか、読み取ることが出来なくて怖い。いつまでも泣くな、自分が悪いんでしょ、と怒られるに違いない。覚悟を決めるとまた涙が溢れてくる。ぐすぐす泣きじゃくり続ける私に、母はゆっくりと首を振った。
 
「今日は、保育園、お休みにしよう」
 
母はそう言うと、私の制服を脱がせ、普段着を着せた。保育園バスの送迎場に向かう時間になっても家を出なかった。呆然とする私を膝の上に乗せると、白雪姫の絵本を持ってきて、ゆっくりと読み聞かせをした。
 
私は混乱した。母は絵本の読み聞かせなど滅多にしない。そもそも風邪を引いてもいないのに保育園を休んでしまってもよかったのだろうか。だが、それを母に尋ねてしまうと保育園に行かなければいけなくなるような気がして言い出せなかった。白雪姫を読んで、テレビを見て、母が作った昼食を食べた頃になって、ようやくしゃくりあげているのも収まった。母から話を聞いているはずの父も兄も、不思議なほどピィちゃんのことを話題にしなかった。
 
ピィちゃん、私のせいで汲み取り車に吸い込まれてしまったピィちゃん。
ごめんね、私のせいで、ごめんね。
 
翌日、沈んだ気分ではあったが、私は保育園に登園することが出来た。先生も友達もピィちゃんのことは知らないようだった。休んだ理由を聞かれたらどうしようと怖かったので、ほっとしたのを覚えている。そうして時間が過ぎるにつれ、新しいお気に入りのぬいぐるみができて、ピィちゃんの記憶は風化していった。
 
それでも、大人になり子供が生まれた今でも、ピィちゃんのことを思い出す。
 
息子が大泣きしている様子を見ると、あの時絶叫した自分と、永遠に喪われたピィちゃんが脳裏に浮かぶのだ。あの時母は、私を頭ごなしに怒るでなく、慰めの言葉で追い打ちをかけるでなく、ただ本を読み、その後はそっとしておいてくれた。世界の全てが硬直したようなあの時間は、小さな私がピィちゃん喪失を受け入れるには必要なプロセスだったのだ。
 
だから目の前で泣いている息子にも、あの時間が必要なのかもしれない。
 
泣いている息子を見ると、ピィちゃんのふわふわな羽毛とともに、そんなことを思わずにいられない。きっと息子に限らずすべての人が、悲しみを受け入れるために静かに一人きりになる瞬間が必要なのだ。
 
 
 
 
***
 
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2021-08-04 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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