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何が我々に「させていただく」と言わせてしまうのか?

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*この記事は、「実践ライティング特別講座」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

「実践ライティング特別講座」文章を書く前にするべき7つのこと

記事:イシイミチコ(実践ライティング特別講座)
 
 
「させていただく」という言葉が気になってならない。
 
そんなことまで「させていただく」必要があるのか?
「します」「いたします」で十分なのに、なぜ「させていただく」と言うのか?
 
今、世の中で広く使われている言い回しだか、必要以上の敬語、丁寧語ではなかろうか?
 
年齢60代後半。図書館勤続40年。日々図書館で接する本や雑誌で使われている言葉に社会、経済、世相の変化があらわれているのを興味深く見て来た。昭和ど真ん中から現在まで、言葉はずいぶん変わって来た。
 
長年、言葉の移り変わりを見て来て思うのは、言葉は世につれて変わるもので、自分が正しいと思っている言葉遣いが正しいと主張できるものではない、ということである。
 
しかし。
今、「させていただく」だけはどうも気になってならないのだ。
すでに広く一般化している中で私自身、使わずにはいられなくなっているのだが、どうも違和感がぬぐえない。
 
このもやもやした違和感を解決すべく、インターネットでこの言葉について検索してみた。
すると、この言葉を論ずる記事が多数出て来た。ほとんどが言葉遣いとしてのおかしさを主張する内容である。
これは今、旬のトピックと言えるようだ。
『「させていただく」の語用論-人はなぜ使いたくなるのか』という学術書も今年、発行されている(ひつじ書房刊)。著者は言語学者の椎名美智さんである。
 
ネット記事をいくつか読んでみて、違和感の源はすぐにわかった。
文化庁のサイトに「敬語おもしろ相談室」というコーナーがあり、その中に「させていただく」について明快な説明があった。
 
『基本的には,自分側が行うことを,ア)相手側又は第三者の許可を受けて行い,イ)そのことで恩恵を受けるという事実や気持ちのある場合に使われます。したがって,ア),イ)の条件をどの程度満たすかによって,「発表させていただく」など,「…(さ)せていただく」を用いた表現には,適切な場合と,余り適切だとは言えない場合とがあります』
 
これを読んで、もやもやがスッキリして来た。その2つの条件から外れた使い方が多いから気になっていたのだな、と納得がいった。
この、「相手の許可を受けている」と「それによって恩恵を受ける」という2つの条件は、もともと2007年の文化審議会答申『敬語の指針』で発表されたもので、インターネットのいろいろなサイトでも提示されている。
 
文化庁の上記の説明には、さらに次のような補足が加えられている。
『なお,ア),イ)の条件を実際には満たしていなくても,満たしているかのように見立てて使う用法があり,それが「…(さ)せていただく」の使用域を広げています。』
 
つまり、適切とは言えない用法も幅広く使われていることを容認しているのだ。
幅広く使われて聞き慣れていくうちに、必ずしも適切でなくても慣習的な用法として定着しているのが現状のようだ。言葉は世につれて変化するものだから、それでいいと思う。
 
言葉の用法としての違和感に関しては納得できた。
しかし、なぜ、そういう用法が広まったのか、という疑問は残る。
 
1つの回答が上述の『「させていただく」の語用論-人はなぜ使いたくなるのか』という本にあった。
敬語には「敬意漸減」という現象がつきもので、今まで使われて来た「いたす」などの言葉に感じられる敬意が減少して行き、それにとって代わる言葉として「させていただく」が使われるようになって行ったというのである。
たしかに、「させていただく」の多用に疑問を抱いている私でも、「いたします」では素っ気なく感じてしまうことが増えている。私の場合、「させていただく」が幅を利かせてきたのを受けて、自分自身の語感に変化が生まれたわけだが。しかし、「いたします」の「敬語」感が私のなかでも減少しているのは事実である。
 
しかし、「させていただく」もまた、「敬意漸減」現象から逃れられないという。その兆候はすでに現れていて、もはや「させていただく」だけでは物足りなくなり、「させていただきますね」、「させていただいてもよろしいでしょうか」、「させていただいてございます」というような言い方が出現しているそうである。
「させていただく」に上塗りするようなまわりくどい表現こそ、私が「させていただく」の多用に違和感を抱く大きな要因なのだが、そのくどい上塗り表現も「させていただく」の「敬意漸減」の結果なのだ。
 
なお、そういう上塗り表現ではなく、本来の用法からは外れるけれども広く使われ、容認されている「させていただく」は「新丁重語」であるとも言われているそうだ(「『させていただく』の用語論」による)。あまり神経質にならず、「新丁重語」はサラっと使ってもよいかも知れない。
 
さて、このように言葉そのものがもつ宿命のようなものによって、言葉は人に選ばれ、変化し、廃れても行く。「させていただく」もまた然り。
これは言わば言語学的解釈である。
 
それでは、人が敬語、謙譲語、丁寧語を使うのはどういう心理からであろうか。
相手への敬意やへりくだる気持ち、相手を尊重する気持ちから使われているはずである。しかし、それが真意だとは限らない。
 
今の時代、人の思惑に対する臆病ともいえる警戒心から形式的に敬語や謙譲語が多用されているのではないだろうか。
 
そういう心理を生じさせた時代背景として、コンプライアンスと、目標管理による業績評価の2点を挙げたい。
 
「させていただく」という言葉を歴史的に見てみると、諸説あるようだが、今のように多用される状況の始まりは約30年前とするのが妥当と思われる。
上述の本によれば、「させていただく」の使用は、1990年代から拡大が始まったとされており、現在、一世代(約30年)を経たところ、だそうである。同書では、現代日本語における「させていただく」の先行研究を紹介しているが、そのほとんどが1990年代後半以降に発表されたもので、そのまた半数以上が2010年代である。
 
これはコンプライアンスと、目標管理による業績評価システムが広まった過程とかなりリンクしていることが、下記の記事からもわかる。
 
・法令順守の意味である「コンプライアンス」の記事件数が増え始めるのは1997年頃からで、現在は年間記事数3千件が続いており、企業の不祥事や不正防止に対するコンプライアンス意識が以前よりずっと高まっている(G-Search 2019年7月4日より)
 
・MBO(目標管理制度)が多くの日本企業に導入され始めたのは、バブル経済崩壊後の1990年代。日本企業が、年功序列型の雇用制度から成果主義人事に舵を切った時代で、年俸制の導入や評価制度としてのMBO導入が進んだ(組織づくりベース 2018年9月19日より)
 
目標管理については、最近は効果が疑問視されて来ているようだが、「させていただく」の多用化の過程とほぼ同時期に導入が進んだことはたしかである。
 
それでは、コンプライアンスや目標管理による業績評価システムが「させていただく」とどう関係があるのか?
 
現在、我々に要求されているコンプライアンスというのは、法律や規則の理念を理解した上でのことではなく、表面的な○×で判断されるような安易なものになっていると言えないだろうか。それは「コンプラ」と略して語られる軽さに現れている気がする。
 
目標管理による業績評価システムも、掲げた目標に対してカタチを取り繕ったような業績になってしまうという弊害が否定できない。また、あらかじめ達成可能な低めの目標にしてしまうという現象も生じやすい。
 
いずれにしても、この2つの事象がカタチだけ恰好をつければよい、という安易な思考を生み出して来たひとつの大きな要因であると思えてならない。
 
そして、それは言葉の使い方にも反映されていると思うのだ。
「させていただく」について言えば、そのように付け加えれば、敬語なり謙譲語なり丁重な言葉になる、という安易な考えから、本来の使い方を越えて多用されるようになったのではないだろうか。
 
私は、そういう安易な言葉使いをしてしまうことを批判したいのではない。
安易にカタチだけ恰好をつけるような言葉を使いたくなる心理を考えてみると、それは人間として望ましい状態ではない、そういう心理を生じさせる社会体制であってよいのだろうか、という疑問を提示したいのだ。
 
特に最近、コンプライアンスに対して過剰な反応を起こす現象が見逃せない。
不倫行為などをした有名人の吊るし上げなどは、コンプライアンスが本筋を外れて過剰な正しさ志向に走っていると言えないだろうか。正しさが度を越えた形で要求されている気がする。
他人に対する要求は、翻って自分を縛ることになり、それがまた他人の「あらさがし」になる。そういう心理が世の中に蔓延している。そんな気がしてならない。
コロナ禍における「自粛警察」も正しさへの過剰な要求と言える。
お互いに過度に正しさを要求しあう社会になっている。
 
そういう社会で人々が使う言葉は、批判や非難を恐れて丁重化するように思われる。
「させていただく」の多用はそういう背景から生まれているのではないか。
 
SNSにおける誹謗中傷も、用心深く「させていただく」と言わないではいられない社会の闇の部分、と言えるような気がする。
 
大人のそういう心理傾向は子どもにも伝わって行くだろう。「させていただく」と言う心理が支配的な社会は、子どもにとって、人を信頼できる社会、安心して生きられる社会とは言えないのではないだろうか。
 
社会を変えて行かなければならない、という議論はいつの時代にもあるが、社会を変えていくために、ふつうは社会の枠組から変えようという議論になる。社会が良くなれば、人間の心理も良い方に変わる。それにつれて言葉遣いも変わるだろう。
 
そこを逆に、言葉遣いから社会を変えるということは出来ないだろうか?
たとえば、1つの言葉をとりあげて、大人同士のグループで、あるいは大人も子どもも一緒の場で考えることによって、人と人とのつながりや、社会のありようを変えて行くというのは難しいだろうか。
 
NHKのEテレでは工夫を凝らした教育番組が多いが、丁寧語のつかいかたを一緒に考えてみよう、という番組はどうだろうか。民放でも楽しく言葉を考え直す特番バラエティなど出来ないだろうか。
 
ここで、社会の風潮にとらわれない言葉遣いをしている人物を挙げてみたい。
フワちゃんだ。
彼女はデビュー当時からずっと年上の大物芸能人などに対しても臆するでもなくタメ口を利いていた。その姿には大変インパクトがあった。
目上の人に対する名まえの呼び捨てやタメ口は当初、聞いていてあまり気持ちが良いとは言えなかった。果たして昨年は嫌いな女性芸能人の第1位になったそうだ。
しかし、彼女は売れ続けている(嫌いな芸能人=売れない芸能人ではないけれど)。
 
最近の芸能人には「よい子」な言葉遣いや発言内容が多いような気がする。これも正しさ志向の社会ならでは、だと思う。そこへ行くと、フワちゃんはいささか際どいけれども、過剰な正しさ志向に支配された世の中に一石を投じている存在だと言えるかも知れない。
 
我々も一歩踏み出して、フワちゃんを見習うというわけではないが、他者に対してあまり警戒したり、配慮したりし過ぎなくてもOK! と思えたらいい。そしてシンプルにして十分な敬語、謙譲語、丁寧語で言葉を交わし合えるようになったらいい、と思う。
 
最後に『「させていただく」の語用論』の最終章から以下の部分を紹介しておきたい。
『……敬意漸減のスパイラルは、日本語コミュニケーションの宿痾ともいえ、コミュニケーションの実質の部分の貧困化は無視できない状況になりつつある。そこには、対人配慮を意識するあまり無意識に疎外し合った末に自己疎外にさえ陥りそうになっている現代の日本人の弱体化したコミュニケーションの姿が透けて見える』
 
「させていただく」と言わずにはいられない気持ちを乗り越えるのはなかなかむずかしいが、やはり我々はこの言葉について考え直してみたほうが良いように思われる。
 
 
 
 
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