走馬灯に左右される人生 ―キメツとフロイトから思うこと―
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記事:平井理心(ライティング・ゼミ4月コース)
友人の話である。職場で使用しているパソコン用マウスを最新に買い換えたそうだ。トラックボールがついていて、親指でぐりぐりすると、画面のカーソルが動く。従来のマウスのように画面に合わせて上下左右にマウスを動かさなくてもよい代物だった。人間工学に基づきデザインされている。右手をマウスの上にのせて、指を動かすだけでパソコン画面上のカーソルを自由自在に操れる。使い勝手がとても良い。しかし、慌てているときは、今まで通りにマウスを握って、上下左右に動かしてしまうとのことだ。
そうなのだ。人は慌てているとき、さらに言えば、危機が迫っているとき、科学に裏付けられた効率性や有効性よりもこれまでの経験が凌駕する。
私は、病院で医療安全の部署に所属する臨床心理士である。いわゆる「医療事故」が起こったときに、その原因を分析し、同じ事故が起こらないように、再発防止策を策定する。このような仕事に関わっていると、危機現場にいる人々の行動や心理状態を目の当たりにする。
救急に携わる医療者は、相当の訓練を受けている。患者さんの状態が急変し、命の危機の状態になっても、冷静に声を掛け合い、チームワークを駆使し、患者さんの命を助けている。先日、震度5程度の地震が起こったときも、「非常時」となったが、すぐに対策本部が設置され、情報収集のうえ冷静な対応が成されていた。
一方で、このような冷静な行動がとれる医療者であっても、患者さんから予期せぬ暴言や暴力を受けたときは、固まってしまう。目の前の患者さんは、助けるべき人である。そんな患者さんから急に「うっせーなぁ、鬼怒川に流すぞ!」と怒鳴られたら、どう対応したらよいかわからない。本来なら、ここはユーモアで「鬼怒川より利根川が近いですかね」と返したいところだが、このような訓練はされていない。
危機が迫っているときは、効率性や有効性よりも経験が優先される。
大人気漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴、集英社)(以下、キメツ)には、「走馬灯」という設定がある。キメツは大正時代を舞台とし、家族を鬼に殺され、妹を鬼にされた主人公・が、妹を人間に戻すために仲間と共に鬼退治をする物語である。鬼との闘いで命を奪われそうになる刹那、炭治郎は走馬灯をみた。
人は死の直前に、今までの経験や記憶の中から、迫りくる死を回避する方法を探すことがあるらしい。その走馬灯から、炭治郎は、起死回生の技を鬼に振るい生き延びる。一方、鬼も走馬灯をみるが、犯罪ばかりを繰り返した走馬灯には絶体絶命のピンチを救う策はなく、炭治郎に滅殺された。
少し話は逸れるが、精神分析の創始者であるジークムント・フロイト(1856-1939)は、無意識の存在とその影響力を明らかにした。例えば、何かの拍子に本音がぽろっと出てしまうことを「錯語行為」と名付けた。
2021年、国際オリンピック委員会のバッハ会長が訪日した際、「日本の人々」と言うべき場面で「中国の人々」と言い間違えた。錯語行為である。これまでの経験やそれに伴う思考が心の奥底にあり、無意識に大事な場面で発言してしまった。さて、バッハ会長の経験とはいかなるものか。
みなさんも、こういう経験はないだろうか。恋人と一緒にいるとき、ここぞというシーンで元彼/元彼女の名前を言ってしまったとか。職場にて同僚を自分の夫/妻の名前で、思わず呼んでしまったとか。いずれも、心の奥底にいる自分にとってのキーパーソンの名前なのであろう。
このように、人間は大事な局面では、効率的・有効的には行動できない。自らのこれまでの経験に基づいた行動になる。「頭でわかっていても、手や口が勝手に動いてしまった」という状態だ。このように私たちを動かす無意識の経験は、自らが学んだ結果であり、自分の記憶にしっかり残っている大切なものなのだ。このような記憶が走馬灯に映し出されるのであろう。
然れば、私たちの人生は走馬灯に左右されるのかもしれない。それは、情報として「知っている」というものではなく、経験して「やったことがある」ものである。キメツでも走馬灯にでてくるのは、幼少期からの実体験であった。
そう思うと、多くの経験をし、失敗をし、成功をし、走馬灯に数多くの選択肢が映り出すようにしておきたい。そうすれば、さまざまなピンチの場に応じた最適解を導きだしてくれそうな気がする。
後輩の中には、短い時間で自分の専門性を極めたいという理由で「これは私の仕事ではありません」「こういう仕事はしたくありません」「こういうムダなことはやりません」と、主張する人もいる。効率性を大事にしているのだろう。もしかしたら、みなさんもこのような発言を耳にするのではないだろうか?
私は心の中で「そんなことばっかり言っていたら、走馬灯のパーツが増えないよ」と、つぶやく。声に出すと、「昭和か!」もしくは「大正か!」と突っ込まれそうだ。さらにはパワハラと言われそうで、なかなか面と向かって言えない。柱として……もとい先輩として不甲斐ない。あぁ~、心のつぶやきより、後輩の口調のほうが私の走馬灯に出てきそうだ。
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