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かつて靴がすり減っていくのが好きだった母より、娘へ。


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:大江 沙知子(ライティング・ゼミ特講)

 
 
ある日、玄関に見慣れないピンクの靴があった。早速、3歳の娘に問う。
 
「ねえ、その靴、どうしたの?」
「ん? 前のがボロくなったから買ってもらった」
 
私は思わず眉をひそめる。ボロくなったって……前のだって、まだ履けるじゃない。サイズだってまだ大きいくらいだし、買い替える必要はないのに。
 
おそらく、義実家に遊びに行った娘が、いつもの靴に飽きて、駄々をこねたのだろう。この頃、娘が何かにつけて「買って買って」と言うので頭が痛い。
 
『もっと物を大切にしてほしいのになぁ』
 
そこには、もちろんお金がもったいないとか、作った人に申し訳ないという気持ちもある。しかし、特に靴に関しては、それ以上に大切にしてほしいものがあるのだ。
 
 
私は子どもの頃、履いている靴がすり減っていくのが好きだった。当時は一足の靴を毎日履いていて、少しずつ靴底の角がとれ、丸みを帯びていくのを見ては満足を覚えたものだ。遠足や運動会の日なんかは、特に減りが大きくて嬉しかった。それは、私自身がその日一日、たくさん歩いた証だったから。
 
「いっぱい歩いたね。今日も頑張ったね」
 
そんなふうに、靴に褒められる気がした。靴底の減り具合は、私が頑張った時間に比例していた。
 
 
また、子どもの頃の私は、よく靴を洗った。雨でぐしょぐしょに濡れた日や、転んで泥だらけになった日には、家の前にしゃがみこみ、バケツの水を真っ黒に染めながら、ごしごしとブラシで何度も靴をこすった。正直、靴を洗うのは面倒に思う時もあった。でも、キレイに乾いた靴にひもを通してもう一度履くのが気持ちよくて、やっぱり自分から靴を洗った。
 
靴を洗うと、ちょっと不思議な感覚になる。それはまるで、雨でぐしょぐしょになった気持ちや、転んで擦りむいた心を、まるごと洗うような感じだ。もちろん、しつこい泥汚れは落としきれないこともあったけれど、少しくらいシミが残っても、それはそれでいい。だって、生きていれば、嫌だった気持ちや失敗した苦々しさを抱えたまま、また新たに歩き出すものだから。
 
 
そんな私にとって、母から新しい靴を買ってもらうのは特別なイベントだった。靴屋に連れていってもらうと、棚にたくさん並ぶピカピカの靴を隅から隅まで眺めて歩く。
 
『今度はちょっとだけ、お姉さんのデザインにしようかな』
 
なんてウキウキと考えるのは楽しいし、お気に入りの一足が見つかった時ほど嬉しいことはなかった。そして、前よりも少しだけ大きなサイズが刻印された、真新しい靴を手にする瞬間――それは、ひとまわり大きくなった自分を認めてもらう瞬間でもあった。靴が大きくなるのは、自分の器が大きくなるのと同じことだった。
 
 
こうして私は、靴をすり減らし、よく洗い、1センチ刻みで大きな器に乗り換えながら、大人になった。
 
 
『靴のサイズを大きくしたのは、一体いつが最後だったのだろう』
 
いつしか、母から靴を買ってもらうことはなくなっていた。社会人になると、靴がすり減らないようにと数足を使いまわすようになった。いつの間にか靴を洗うこともなくなり、底がすり減ったりひどく汚れたりしたら、新しい靴を買うようになった。
 
また大人になった私は、転ぶのを恥ずかしいと思うようになっていた。道を歩く時はもちろん、仕事でも私生活でも失敗しないようにと手を回し、失敗したら目を背け、素知らぬ顔をしてまた歩き出す。汚れた靴ですら、洗うことなく新しく買い替えるのだ。自分の失敗を素直に認め、正すことは一層難しい。
 
足の成長が止まると、人間の成長も止まるのだろうか。
靴という器を大きくする必要がなくなる頃、人間の器の大きさも決まるのかもしれない。
 
 
こうして思い返すと、まるで、靴は私たちの生き様を映し出すようだ。
私たちは、すり減っていく時間の中で、何度も転びながら、器をひとつずつ大きく替えていく。けれど、きっと多くの人にとって、そうやって全力で駆ける日々はずっとは続かないのだ。いつの間にか私たちは転倒を恐れるようになるし、転んだ日にはまるで何もなかったかのように、新しい靴を買って取り繕おうとする。
 
本当は、自分の人生を買い替えることなんてできないのにね。
 
 
私はふと思い立って、娘がもう履けなくなった靴を数えてみた。靴箱の中に7足、きちんと洗ってとってある。まだ底が柔らかくてふわふわの、小さなファーストシューズ。それから、公園をヨチヨチと歩くのが楽しくなってきた頃の花柄のスニーカー。泥汚れが落としきれていないこの靴は、水たまりに入るのに夢中だった頃のものだ。数々の思い出を蘇らせる靴たち――娘が脱ぎ捨ててきた器は、その時娘が体験した時間の中で、そのままに残っていた。
 
靴を洗っても、楽しかった記憶が流れ去ることはないのかもしれない。
 
 
娘もいつかは、自分で靴を買うようになるだろう。足の大きさが変わらなくなる頃には、好みのデザインの靴をいくつも買い揃えて使いまわすのかもしれない。
 
だけど、娘よ、そんなことは君はまだ知らないでほしい。
飽きたら靴を買い替えればいいなんて、今は思わないでほしい。
 
だって、君が転ぶのを恐れずに全力で走れるのは今だけだから。
だから、君が履くその靴がボロになるまですり減らして、汚れたら洗って、いっぱいに走ってほしい。
 
そうやって、君という器をどんどん大きくしていってほしい。
 
小さなピンクの靴を眺めながら、母はそう願っている。

 
 
 
 
***
 
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