通勤電車でのもめごと
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記事:伊江竜一(ライティング・ゼミ12月コース)
電車の中ではイラついた乗客同士のいざこざに遭遇することがある。
そんな時には非常に気になるのだが、巻き込まれないように目線をそらして、たまたまそちらを見ている客を装うのが関の山だ。できれば巻き込まれたくない、だけど見てみたい。変な葛藤が沸き起こる。
地下鉄車内で不良が煙草を吸っているのに出くわしたことがある。正義感にかられて注意でもしようもんなら、あとで何をされるかもわからない。逆恨みによる暴力が怖くて誰も注意できないし、見ることもできない。同じ車両の乗客は皆、彼らが透明人間で誰の視界にも入っていないかのようにふるまった。
さて、今から15年ほど前の通勤電車でのことである。中央林間から、渋谷、大手町へとつながる田園都市線は東急電鉄の底引き網漁船だ。
中央林間で網を下し各駅で乗客をかき集め、パンパンになったところで渋谷駅の甲板に人をぶちまける。15年前当時は沿線の人口の急増に対して、列車の本数は現在ほど多くなく、毎朝車内は苦しくなるほどの満員電車であった。
7時22分発桜新町発の各駅停車は急行ほどの状態ではないものの、用賀、三軒茶屋、池尻大橋と渋谷に近づくにつれ窮屈になる。とても新聞が読めるような状況ではなく、つり革を命綱のように握りしめて渋谷駅に到着してドアが開くと、ようやく我慢の10分間が終わる。
昨夜はちょっと飲みすぎた。深酒による鼻づまりで寝不足だ。ただでさえ苦しい車内であるのに、不眠によるだるさが苦しさを増している。とどめの池尻大橋を過ぎて社内がパンパンになり、しばらくしたときにコトが始まった。
「何やってんだ、おらっ。動くな、おらっ」という怒声が背後で響く
「まじかよ、朝から喧嘩かよ、勘弁してくれよ、逃げ場ないんだから、とばっちりくらいたくないよ」という朝からイヤーな気持ちになって、「お願いだからやり返したり、殴る蹴るなど始まらないでくれ」と祈っていた。
むやみに振り向いて、こわい奴と目を合わせたくないのもあったが、満員で動きが取れず振り返ることもできない。
怒声の主は野太い声からすると、がっしりとした、首の太い輩が足でも踏まれて怒っているのではないかと勝手に想像する。
「大人げないな、満員電車なんだから我慢しろよ、悪気ないんだから」と心の中でつぶやくのが精いっぱいだが、おそらく満員電車の車内では誰もが同じ気持ちになっていたはずだ。
心配をよそに、その後はエスカレートした様子もなく、怒鳴り声は収まった。
「よかった、もめごとはエスカレートしないようだ」
もめごとが収まったことに安心し、いつも通りの満員の苦しさに気を奪われていたころ、渋谷のホームに電車が入った。山手線への乗り換えである。
電車が止まりドアが開くまさにその時である。
「すみません。降りるので道を開けてください。」またあの野太い声だ。
「まじかよ、また始まるのかよ、表にでてから喧嘩を始めるつもりかよ」
いつもはドアが開くと魚ではち切れそうな漁網を船の上で開くときのように、満員の乗客が一斉に車両の外に吐き出される。しかし、今日はやや皆落ち着いている。誰もが喧嘩に巻き込まれたくないのだろう。
普段よりわずかだが時間がかかって駅のホームへ押し出されると、そこでは小柄な男性が丸い太い地下鉄の柱に両手を広げて押し付けられていた。
その脇では、うつむいた女子高生があまり背は高くない別の背広の男性から「大丈夫でしたか」と声をかけられている。
「痴漢逮捕だ」瞬時に怒鳴り声の理由も状況も理解した。
警察らしき人は2名、押し付けられた男性は30歳くらいだろうか、ネクタイをしているのでサラリーマンと思われる。やや縮れた髪の毛と、おとなしそうな目つきだが主張のある眉毛がいまでも脳裏に焼き付いている。不安にかられ、おびえているようにも見えた。
おそらく彼は常習犯で、警察に複数の相談があり、張り込んでいたのだろう。まさか、たまたま私服の警官が満員電車で2名もいるはずがない。
一体これからどうなるのだろう、取り調べをうけて、迷惑防止条例で現行犯逮捕されるのだろうか。会社にも警察から連絡が入るのだろうか。そうなったら社内で噂が広まって、継続して勤務するのもつらい。
あれだけの人が現場にいたのだから、かなり多くの人が顔を見たはずだし、同じ路線の同じ時間帯ではいつも同じ顔ぶれで、暗黙の顔見知りが多いはずだ。
自分だったらこの路線に住むことは一生できない。二度と田園都市線に乗りたくない。
しかし数日後の夜、帰宅時間の渋谷駅で「彼」を見かけた。
「いるじゃん」まだ引越ししないで、普通に働いているようだ。
僕みたいに顔を覚えている人は沢山いるんだろうな。この後の人生を彼はいかに生きるのか。常習となっていたのなら、一種の病気かもしれないが、更生して同じ過ちをしないようになってほしい。
あれから15年くらい経つが、その後は彼の姿を見ていない。
***
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