2歳の娘のへたくそな言葉が、母の世界を変えてくれた
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記事:K子(ライティング・ゼミ2月コース)
やってしまった。
少し痺れた自分の右手と、表情をなくした娘の顔を交互に何度も見た。
私はその日、娘を初めて叩いてしまった。
去年の4月。
第二子を出産して数週間たった頃だった。
その日、私は本当に参っていた。
ずっと機嫌が悪く、おむつを替えても授乳をしても泣き続ける赤ちゃんを1日中抱っこしていた。
食事は取れず、トイレにも行けず、昨晩の睡眠時間はたったの2時間だった。
自分の時計に従って何一つやりたいことがやれず、ため息が止まらない日中だった。
疲れ切った夕方に、赤ちゃんが産まれる直前に2歳になったばかりの娘が夫と共に保育園から帰宅した。
娘は靴を脱ぐなり、家中を走り回った。
そして「おなかへった! おなかへった!」と、たどたどしい日本語で晩ごはんを急かしてきた。
まだ泣き続ける3キロの重りを片腕に抱いたまま、私は可能な限りのスピードで晩御飯を食卓に並べた。
それなのに、娘は晩御飯を全く食べようとしなかった。
「白いご飯が嫌なの?」
「ねぇ、アンパンマンのふりかけ、かける?」
赤ちゃんの泣き声にかき消されないように、大声で娘に尋ねた。
しかし娘は、母のご機嫌取りに構わず早々に食卓から飛び出して行ってしまった。
そして再び部屋中を走り回る娘の手が、窓ガラスにぺたっとくっついたのだ。
一度だけでなく、何度も何度もくっついた。
窓ガラスは手形だらけになった。
食卓に残された、手つかずの晩御飯。
数秒前まで、ぴかぴかだった窓ガラス。
それは昼間に赤ちゃんが寝てくれた1時間、つまり私の時計で自由に動けた唯一の1時間で出来た、たったふたつの家事だった。
私は抱いていた赤ちゃんをソファに置いた。
そして気づけば、楽しそうに窓ガラスを触り続ける娘の頭を平手で叩いていた。
鈍い音がした。
そんなに強く、叩くつもりなんてなかった。
しまった、と思った。
泣くかな、と身構えた。
でも娘は泣かなかった。
ただただ目を丸くして私を見て、静かにその場に立ち尽くしていた。
平手を打った右手が、痺れて痛かった。
そのまま娘とまともに話すことも無いまま、夜になった。
2人で寝室に入り、いつものようにベッドに横になった。
なんだか、気まずい。
そう思って私は、静かな部屋で思い切ってつぶやいてみた。
「さっき、叩いてごめんね」
隣で寝転がる、小さな娘の背中を見つめた。
少しして、背を向けたままの娘から小さな声が聞こえた。
「いいよ」
そして、まだたどたどしい、覚えたての日本語が続いた。
「またあした、あそぼうね」
娘が振り向いた。
そこにはいつも通り、思い切り歯を出して笑う娘の顔があった。
私は、涙が止まらなかった。
涙にはふたつの理由があった。
まずは、後悔の涙だ。
2歳を過ぎて、娘は沢山のことができるようになった。
でも半年前は、話せなかった。
1年前は、歩けなかった。
2年前は、何も出来なかった。
そんな娘に毎日伝えていたことがあった。
『何もできなくてもいいよ。ここにいるだけでいいよ。また明日、ママと遊ぼうね』
何もできなくても愛しているはずの娘を、私はどうして叩いてしまったんだろう。
そして、心から安心した涙だ。
赤ちゃんが産まれてから、私は自分が何のために存在しているのか分からなくなっていた。
産休に入る前は、仕事をしていた。
管理職として責任のある業務をこなしていた。
しかし赤ちゃんを出産してからは、何もしていない。
残された母親という唯一の役割ですら、二人目のはずなのに全然うまくいかない。
私のプライドが音を立てて崩れていたのだ。
こんな私に娘は、「いいよ」と言ってくれた。
『いいよ。ここにいるだけでいいよ』
それは2年前、産まれてまだ何もできない娘に私が伝えていたのと同じ言葉だった。
うまくできない母を、慕ってくれる娘。
叩いたのに、また明日遊ぼうねと約束してくれる娘。
産まれたときからずっと伝えていた『どんなあなたでも愛している』というメッセージを、娘から返してもらった気がした。
翌朝、リビング横の和室でいつも通り赤ちゃんの泣き声で目を覚ました。
相変わらずの睡眠不足で、身体は重いままだ。
それでも、昨日までより世界が明るく見えた。
寝室で目を覚まし、リビングに近づいてくる娘の足音が聞こえた。
がちゃっとドアが開くと、寝起きすぐとは思えないようないい笑顔の娘が立っていた。
今日もこの子達の母親として、ここに生きていられて良かった。
そう思って、「おはよう」と言って笑えた朝だった。
私が何も上手くできず、自分の存在価値と居場所を見失っているとき、救ってくれたのは2歳の娘の言葉だった。
覚えたての日本語でも、どんなにへたでたどたどしい言葉でも、愛する人からの愛のこもった言葉には世界を変える力がある。
あなたは今日、愛する人にどんな言葉をかけますか?
***
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