何気ない毎日に幸せな幽霊と耳鳴りを~激闘サラリーマンの神聖な瞬間~
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【12月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:松原 さくら(ライティング・ゼミ木曜コース)
*この記事はフィクションです。
「ヒロシ! ヒロシ!」
仕事から帰ってシャワーを浴びていたヒロシは、母に大きな声で呼ばれた。
「おかしい。そんなハズはない……」
そう自分に言い聞かせながら、シャワーを止めそっとバスルームのドアを開けて部屋を見回した。
やはり部屋は暗く冷たくシーンと静まり返っている。
「耳鳴りか。それにしてはハッキリと母の声が聞こえた……」
ヒロシは自分を落ち着かせようと、またシャワーを浴び始めた。
ヒロシの母は、故郷の大阪で父と二人暮らしをしている。ヒロシは東京に就職してからずっと一人暮らしだ。離れて暮らしている母の声が突然聞こえるハズはない。しかし、さっき余りにもハッキリと母の声が聞こえた。ヒロシは、妙な胸騒ぎが抑えられなかった。
「もしもし、母さん? 俺だけど、ヒロシ。何か変わったことはない?」
「あーヒロシ? 久しぶりやねえ。こっちは変わったことはないよ。ヒロシは?」
「こっちも大丈夫……。久しぶりに明日、実家に帰るわ」
東京で働き始めてから、ヒロシは目まぐるしく忙しい毎日を送っていた。気づけば、いつの間にか、もう3年近く実家に帰っていなかった。仕事が忙しく時間はいつも足りなかった。実家の近所に住んでいる姉夫婦が孫の世話などを両親に良く頼んでいて交流があったこともあり、特に自分が実家に帰る必要性を感じていなかった。
しかし、今回は胸騒ぎをどうしても抑えることができず、不思議といても立ってもいられなかった。ヒロシは、翌朝、大阪の実家へ久しぶりに帰った。
「ヒロシ、お帰り。お昼ごはんを食べなさい。みんな待ってたんやで」
「姉ちゃんの家族も来てるの? ひさしぶりー!」
「久しぶりやねーヒロシ。元気そうで良かったわ」
「ヒロシおじちゃん! 久しぶりー」
その日は、ヒロシが久しぶりに帰ってくると聞いて、姉夫婦とその子ども2人も実家に集まっていた。普段の週末にもかかわらず、盆と正月が一度に訪れた様なご馳走が並んでいた。
せっかくだからと、その日は皆でお墓参りに行った後、広い芝生の公園で、子どもたちと一緒にバトミントンをしたり、縄跳びをしたり、大人は疲れると交代し、暗くなるまで遊び続けた。
「ヒロシおじちゃん、来週も来るの? 今度はいつ来るの? また遊ぼうね! ばいばーい」
「ばいばーい」
姉家族が帰ると、両親とヒロシは大好きなお酒を飲みながら、昔話をした。
ヒロシが子どもの頃、たくさんイタズラした話、母が手を焼いて、父から雷を落とされた話、学校でケンカして泣いて帰ってきた時の話、同級生に刺激を受けて急に勉強を頑張り始めた話。
「それにしても、今日は急に帰ってきてくれて、ありがとうね。ヒロシ、本当に東京ではどうもないんか?」
「うん、毎日忙しくてなかなか帰って来れんかっただけや。ただ……」
ヒロシは、昨夜シャワーを浴びていた時に母の声を聞いたことを話した。現実には大阪にいる母の声が聞こえてくるハズがないと解っていたが、久しぶりに実家に帰らずにはいられなかったことも。
「なんで声が聞こえたんか解らへんけど、ヒロシが帰って来てくれたんやから、とにかく良かったわ」
いつも寡黙な父も、朗らかで元気な母も、とても喜んでいて楽しく夜が更けた。
次の日も、姉家族と合流して大勢で公園へ行った。秋晴れの青空に紅葉が映え、大人はピクニック気分だ。
両親も姉家族もご機嫌で、ヒロシも今までにない程、楽しい幸せな時間を過ごした。もっと何度も実家に帰って来るべきだったと後悔しながら、ヒロシは東京へ向かう新幹線に乗った。
翌日の月曜日、ヒロシはいつもの通り会社へ出勤し、残業を終え帰ろうとしていた。その時、珍しく実家から携帯に電話がかかった。
「ヒロシか? お父さんや! 今、お母さんが倒れてな、救急車で病院に運ばれてきたんや」
「え?」
「今どこにいるんや? また、何か解ったら電話するからな」
昨日、いつも通り元気で楽しく過ごしていた母が急に倒れるなんて、信じられなかった。
結局、母は、突然の心不全でそのまま旅立ってしまった。
ヒロシは、家に帰るなり、準備もそこそこに実家へ帰ることにした。
あの、数日前の胸騒ぎが、現実になってしまった。ヒロシは、久しく実家へ帰らなかったことを激しく後悔した。そんな自分が悔しくて身のやり場がなかった。衝動的に自分を痛めつけるような行動を起こしてしまいそうで、必死で自分を抑えた。
大阪では、姉も突然の悲しみに打ち震えていた。父は見るに堪えない程、意気消沈していた。朗らかで、皆を太陽のように照らしてくれていた母を失った事実を、誰もが受け止めきれていなかった。
バタバタと葬儀が進み、今後の父の生活を考え、母のいない家族会議を開いた。
「あの日、久しぶりに、ヒロシが帰って来てくれて、本当に良かった」
姉の言葉に父が深く頷いた。最後に家族で過ごした週末、母は本当に嬉しそうだった。
聞こえるハズがない、あの不思議な母の呼び声を聞いたから、家族との幸せな時間が過ごせた。
それは母だけでなく、父や姉やヒロシにとっても、何にも代えられない貴重な時間となった。
これまで、超能力も幽霊も信じたことはなかった。
「でも、これからは、もし母の幽霊に呼びかけられたら、また自分の胸騒ぎを信じよう」
ヒロシは、天高く抜ける秋の青空を見上げながら、誰に対するでもなく、そう呟いた。
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