新人研修と家庭訪問
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:川越多江(ライティング・ゼミ日曜コース)
会社の新人研修で教わった。
「まず目標を明確にしましょう」
「するべきことをリストアップして、優先順位をつけましょう」
「時にはスケジュールの修正も必要です」
「わからない時にはアドバイスを求めましょう」
「誰かの役に立っている実感がやりがいになります」
熱心にメモを取りながら、何かに似ていると思った。
相手の立場に立って考え、準備をし、それを実践する。
その結果、喜んでもらえると満足感が広がる。
「何だったかなー?」
と講師の話を聞きながら、ぼんやり考えていた。
それはまだ、私がおかっぱ頭だった頃。
「いらっしゃいませ」
そう言いながらお茶を出すのは恥ずかしかった。
ついさっきまで、大きな口を開けて笑う姿を見ていた相手に対してである。
我が家では家庭訪問の日にお茶を出すのは、子どもの役目だった。
受け持たれている子が、自分の担任の先生にお茶を出すのである。
兄弟に頼むわけにはいかない。
だから、それは小学1年生から始まる。
台所のテーブルには必要なものが揃えられていた。
やかんの中には、母があらかじめ沸かしておいてくれたお湯が入っている。
お茶の葉が入っている急須に、お湯をそそぐ。
お客様用の茶器に急須を、ゆっくり傾ける。
「半分よりちょっと上までね」
お茶をつぐ目安を教えてもらっていても、いつも茶器の縁より少し下になった。
しかし、一番の難関はここからだ。
お盆に乗せた湯のみをお客様のところまで運ばなければならない。
目的地は、台所と隣り合わせの部屋。
普段なら七歩歩けば移動できるほどの短い距離。
「茶たくと湯のみを、別々に乗せれば大丈夫」
練習の時の母の声がよみがえる。
しかし、本番では簡単に忘れてしまった。
カタカタと、茶たくと湯のみが当たる音がするが仕方がない。
そろりそろりと歩きながら、先生が座っている位置を目で確認する。
座卓の端にゆっくりお盆をおろして、
「いらっしゃいませ」
恥ずかしさをこらえて、挨拶をする。
茶たくに乗せたままの湯のみを、両手でゆっくり先生の前に置く。
「どうぞ」
それから空になったお盆を持って、静かに台所へ退場する。
「はぁー」
台所で安心のため息をつくと、隣の部屋には丸聞こえだ。
先生の優しい笑い声が聞こえる。
「お茶とってもおいしかった。ありがとう」
見送る時に声をかけてもらうと、先生がますます大好きになった。
これが我が家の、年1回の子ども達への重要任務だった。
そしてこれは学年が上がるごとに、難易度も上がっていった。
2年生では、お茶の葉の量は自分で決めた。
3年生では、お湯で急須と湯のみを温めてから、お茶を入れた。
4年生では、自分でお湯を沸かし、おしぼりも用意した。
5年生のその日は暑かった。
「今日は冷たいお茶をお出ししましょう」
私も半そでTシャツで過ごしていた。
誰だって冷たいお茶が飲みたいだろうと思った。
「だから、お願いね」
「えー!」
母の言葉に驚いた。
アドバイスなしに、私がお願いされるのですか?
冷たいお茶って、冷蔵庫の麦茶でいいの?
氷は入れるの?
どのコップを使えばいい?
やっぱりコースターだよね?
何を聞いても母はニコニコしているばかりである。
「ピンポーン」
こういう時はあっという間に、その時間がくるものだ。
冷や汗びっしょりで冷茶を出したはずだが、その時の記憶はあまりない。
6年生になると、母はまったく何も言わなかった。
「先生は何時にお見えになるの?」
と聞いただけだった。
私は自分の順番と予定時間を、学級通信で確かめた。
天気はうす曇りで少し風が冷たいので、温かいお茶にしようと思った。
うまく手順通り進むように、必要なものを台所のテーブルに出して並べた。
「今日はうすいピンクのシャツだったよ」
教室で見た先生のシャツと同じ色の花柄の湯のみにしたかった。
とっておきのお客様用茶器を棚の奥から出したのを見て、母は微笑んだ。
「先生を迎えに行ってくる」
家の近くの大きな通りに出ると、近づいてくる先生の姿が見えた。
「おいしいお茶をごちそうさま。かわいいお湯のみだったわ」
通りまで見送った私に、先生がそう言った。
気づいてもらえて、それはそれはうれしかった。
この家庭訪問のお茶の用意は、中学生になっても続いた。
もうハラハラドキドキすることも、なくなっていた。
そして、母はもはや時間すら聞かなかった。
そうなのだ!
仮説を立てて準備し実践する思考サイクルは、この時身についたものだ。
実際にその後も、あらゆる場面で役に立ってくれていた。
社会人一年生生活は、どうやら不安ばかりでもなさそうだ。
いつか母に、家庭訪問のお茶出しの真意を聞いてみよう。
お茶菓子を添えながら。
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