言葉の木から彫刻家が削り出したメッセージ《週刊READING LIFE Vol.168 座右の銘》
2022/05/09/公開
記事:宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
子どものころの記憶は不思議だ。
運動会だとか音楽会だとか、七五三だとか夏休みだとか、さまざまな行事やイベント、節目節目の出来事そのものの記憶が、わたしにはほとんどない。
その不思議さは、自分が親になって子どものイベントに関わるようになり、さまざまなイベントを楽しむ子どもたちの姿をみてきたことで、より一層増した。
自分もおそらく、子どものころにいろんなイベントを楽しんだはずだ。にもかかわらず、どうしてその記憶がほとんどないのだろうか。
決して、子どものころに楽しい思い出がないわけではない。
子どものころは楽しかったなという漠然とした感情は、自分の心にフィルムのようにべったりと張り付いている。
けれどもいったい、何が楽しかったのか。
ほとんど記憶がない。
大人になっても記憶に残るものは、必ずしも楽しいという感情とは関係がないのかもしれない。
そんなわたしの記憶の中にも、やけにはっきりと姿かたちが見えるものがある。
それは筆で書かれた一枚の書だ。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
その書は、小学生のときに通っていた塾の教室の真正面に飾られていた。
中学受験のため、わたしは塾に通っていた。
べつに受験がしたいと自分で思ったわけではなかった。
通った塾の経営者は、わたしの父親。
子どもながらに、塾長の息子が中学受験をしないわけにはいかんのだろうな、と思っていた。
そんな気持ちで塾に通っていたわたしは、ぼんやりとただ教室の前だけを見つめていることも多かったのかもしれない。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
この言葉はいつも、わたしの目に映っていた。
中学受験。
たしかに今しかできないことだわな。
どんなに父親が一生懸命になったところで、試験を受けるのは自分。
自分がやらないとだめなことだわな。
その言葉をいつも眺めているうちに、なんとなく、勉強しなきゃいけないな、と思っていた。
中学生になると、塾で嫌というほど見続けてきたその言葉を、勉強せずに遊ぶ理由に使うようになった。
父親のきびしい監視下のもとでの中学受験を経験したため、中学のころは遊ぶことに飢えていた。
勉強はもう嫌というほどした。
また大学受験のため勉強しなければならないだろう。
いま遊ばねばいつできる
わしが遊ばねばたれが遊ぶ
だが、小学生のときのような感覚で帰り道に遊ぶようなことはできなかった。
同級生のほとんどは電車やバス通い。しかも、わたしとは帰る方向が反対である人が多かった。
それに、放課後に塾や習い事をしている人も多かった。
だから、帰り道に気楽に遊ぶことはできなかった。
結局、ひとりゲームセンターで遊ぶか、神保町の古本屋で立ち読みしたりして、放課後を過ごしていた。
それはそれで、いまふり返れば有意義な時間であったとは思う。
しかし当時のわたしは、中学受験のために小学校のクラスメイトと遊べなかったことをはげしく悔いた。
たいぶのちになって調べて知ったことだが、この言葉は岡山県出身の彫刻家、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の言葉であった。
平櫛田中は、近代日本彫刻を代表する彫刻家。
明治に生まれ、1979年に没するまでの107年の生涯を彫刻に捧げた人物だという。
平櫛田中が彫刻を始めた時期は、ちょうど西洋の彫刻技術が日本に伝わってきた時期。
日本伝統の木彫に西洋の技法をとりいれながら、自身の表現を模索し、多くの木彫像を制作したという。
代表作のひとつとして有名なのが『鏡獅子』だ。
国立劇場ロビーに飾られているこの木彫像を、わたしは一度、目にしたことがある。
高さ二メートルもある巨大なもので大迫力だ。
また、美しい色彩が施されているからか木像とは思ない生々しさが感じられる。
六代目尾上菊五郎をモデルにして制作された作品だそうで、まさに歌舞伎役者の動と静が伝わってくる感動的な作品だ。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
この言葉は、平櫛田中が口癖のように用いていたものであった。
死ぬまで木彫による自分の表現を探し続ける強い執念が、この言葉の背景にはあるに違いない。
この言葉の出処を知ったとき、わたしは恥ずかしさを感じた。
なぜなら、偉大な彫刻家の執念などつゆ知らず、自分の都合の良いように軽はずみに使ってきたから。
それに、いまやらねばならぬ、自分がやらねばならぬ、と強く思える出来事が、自分にはないように感じていたからだ。
日々を過ごしているとさまざまな出来事や情報が目にはいってくる。
選択肢がたくさんありすぎて、考えれば考えるほど、自分のやるべきことがわからなくなるのだ。
それ以来わたしは、この言葉を思い浮かべないようにして過ごしてきた。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
この言葉を、ふたたび思い浮かべたのは、つい一年ほど前だ。
下半身不随になり、脊髄の腫瘍を取り除く手術を受けたあと、歩行機能を取り戻すためのリハビリを始めたときだった。
最近では、手術等の治療のあと、早い段階でリハビリを始めて、回復や後遺症の軽減に努めたほうが良いとされている。
わたしの場合も、手術の4日後にはリハビリが始まった。
初日はベッドから足をおろして座るだけのリハビリだった。数分間座っているだけで疲労感はあるし、頭が痛くなってくる。
その二日後にはもう、胴体にコルセットを巻いて立ち上がりの動作をすることになった。怖さもあるし、傷口の痛みもあるし、足になかなか力が入らない。理学療法士の方に支えてもらって、ようやく立ち上がれる程度だった。
支えてもらいながらでも立ち上がれることに、安心感や嬉しさはあった。
しかし同時に、元のように歩ける状態がはるか遠くに感じられた。
これからどれだけリハビリをするんだろう?
いったいいつまで続けるんだろう?
先がまったく見えない不安で、胸がいっぱいになった。
そんなとき、思い出したのが平櫛田中の言葉だった。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
リハビリはまさに、この言葉通りのものだった。
全く下半身の動かないまさにいま、リハビリをやらなければ、一生動かないままだ。
そして、動かない身体は、医師のものでも理学療法士のものでもなく、わたしのものだ。
選択肢は〈やる〉の一択。
とても単純だった。
単純だと思ったのは、一度、人生をあきらめたからだったに違いない。
下半身が動かなくなり、医師からは「車いすの生活を覚悟してください」と言われたわたしは、一度、いままでの人生のさまざまなことをあきらめた。
これからは、人の助けを借りて生きていくしかない。
仕事、趣味、スポーツ。自分のやりたいようにはもうできないだろう。
そんなふうに考えていた。
そんなまっさらな頭でいたわたしに提示された選択肢だったから、〈単純だ〉と感じることができたと思うのだ。
その単純さはまるで、子どものころにもどったような感覚だった。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
その言葉を励みにリハビリを続けることで、わたしは歩けるまで回復した。
同時に、気がついた。
一本の木材を削っていくことで姿をあらわす木彫像のように、自分が好きなこと、大事なこと、大切なものは、自分のまわりのあらゆることを削り、自分を単純に見つめることでみつかるものだ。
このことを、歩行機能と人生の望みを一時的に失ったことで気がついたのだった。
単純に物事を見つめるようになると、とても気になるようになったことがある。
相手の言葉尻をとらえ、相手を責めるような姿だ。
相手に物事を正確に伝えるため、言葉の使い方は大切だ。
受け手が誤って理解しないよう、書き手は言葉の使い方に最大限の注意をはらわなければならない。
それでも表現が不十分であったり、言葉の使い方を誤る場合もあるだろう。
そこを指摘して、相手を否定する姿をしばしば目にする。
それは、聞き手、受け手はどう受け取っても自由という姿勢に見える。しかし、相手とのコミュニケーションが取れているようには見えない。
言葉の受け手にも、相手を受け入れる寛容さが必要ではないだろうか?
そう疑問に感じてきた。
なぜなら、コミュニケーションにおいて互いに交わすべきものは言葉そのものではないと思うからだ。
交わされるべきものは何か。
それは、互いが伝えたいと考えている出来事、気持ち、思いだ。
その内容が正確に伝わることはもちろん大切だ。
だが、言葉にこだわり、言葉を文字通り受け取ったまさにその瞬間、言葉の使い方だけにこだわり、相手の伝えたいことは受け取らずに否定してしまっては、人とのつながりは失われてしまう。
「いまやらねばいつできる」
いま、相手の伝えたいこと、気持ち、思いを受け取らずに、いつ受け取れるのだろうか?
「わしがやらねばたれがやる」
受け手が相手を受け入れずに、いったい誰が受け入れるのだろうか?
思わず相手を非難してしまったり、否定してしまうことは誰しもあるだろう。
だが一度、一息つくとともに考えてみてはどうだろうか。
「はたして、相手を否定することは、いまやらないとできないことだろうか?」
否定することは、受け入れることで相手とつながりができてからでもできる。
しかし、受け入れることは相手とつながったその瞬間にしかできないではないか。
だから、相手と向かい合った〈いま〉しかできないことは、否定するより、受け入れることのほうではないだろうか、とわたしは思う。
とはいえ、受け入れることは決して簡単なことではない。
平櫛田中は、『鏡獅子』を制作するにあたり、途中中断しながら20年以上もの歳月を要した。
「いまやらねばいつできる」と言った田中が、なぜそのような長い時間をかけて制作したのか。その理由はいろいろあったであろうが、それらのひとつに、尾上菊五郎が背負う歌舞伎の伝統と国民的ヒーローの魅力を十分に受け入れるための時間だったのではないだろうか、とわたしは想像する。
田中が言う「いまやらねば」の〈いま〉は、その言葉から通常イメージされるような短い時間ではなく、自分の思いが続く限りの期間なのかもしれない。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
この言葉は、思い続けずにどうやって相手や物事を受け入れるのか、と問うているようにも聞こえる。
その場ではおもわず相手を否定しまうこともあるだろう。
物事を放り出してしまうこともあるだろう。
けれども、そこであきらめずに人や物事との関わりあいを続けていくことで、人とのつながりが深まり、物事を深く追求できるのではないだろうか。
いまやらねばいつできる
わしがやらねばたれがやる
この言葉は、彫刻家である平櫛田中の生き方そのものなのだろう。
また、この言葉は、彫刻そのものでもある。
なぜなら、この言葉を知ってから35年もの間に、わたしはこの言葉を違う面でとらえ、さまざまな意味を見つけることができたからだ。
それは、見る面を変えることで表情や雰囲気が変わる彫刻と同じだ。
いったいこんどはどんな意味が見つかるだろうか?
そんな楽しみ方が、わたしの座右の銘には、ある。
□ライターズプロフィール
宮地輝光(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)
千葉県生まれ東京育ち。現役理工系大学教員。博士(工学)。生物物理化学と生物工学が専門で、酸化還元反応を分析・応用する研究者。省エネルギー・高収率な天然ガス利用バイオ技術や、人工光合成や健康長寿、安全性の高い化学物質の分子デザインなどを研究。人間と地球環境との間に生じる”ストレス“を低減する物質環境をつくりだすことをめざしている。
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