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チーム天狼院

私はずっと自分にはとりえがないと思っていた。《川代ノート》


ずっと自分には取り柄がないと思っていた。

一人っ子だったけど、年の近いいとこが4人。祖父母の家には、行事のたびに親戚が集まり、いとこ5人で一つの兄弟のような感覚だった。おじいちゃんとおばあちゃんが、大きなお父さんとお母さんで、大家族でいるみたいで楽しかった。

おじいちゃんは元警察官のお偉いさんで、体育会系で厳しく、スポーツが大好きで、孫たちの大会や試合などには大盛り上がり。
いとこのうちひとりは、チアダンス部の世界大会で優勝、ひとりは、バレー部の試合でエース。ひとりは、テニスを10年近く続けていて、ひとりは、サッカーも武道もできて、毎週のように試合に出ている。

けれど、私には何もなかった。もともと運動神経が悪く、持久走ではいつもビリで、体育でいい成績をとったことが一度もない。子供の頃は人見知りでおとなしくて、家でいつも絵を描いているようなタイプだった。
中学で入ったテニス部では、あまりに体力がなくて3年でやめた。高校では茶道部に入り、運動することは一切なくなった。
私だけ、祖父母を大会や試合に呼べたことが一度もなかったことが、本当に情けなかった。しかも、運動ができないだけでなく、成績は学年ビリだったこともあった。評定1をとったこともあるし、特別面接にも何回か呼ばれた。
家の手伝いもろくにせず、友達と遊び呆けるだけの中学時代。他のいとこと比較して、劣等感に苛まれ、周りの人間を僻む癖がついた。

何の取り柄もない自分に、嫌気がさしていたけれど、気付かないふりをした。

そんな自分の弱さから逃げていたまま、苦も無くエスカレーター式で高校に入学した。
このままなんとなくそれなりの大学に行ければいいや、と将来のことはそれほど考えていなかった、高校一年の夏の、進路面談。
母が担任の先生と二人で話す二者面談。帰ってきた母は、とてつもなく暗い顔をしていた。

「どうしたの?怒られた?」

思わずそう聞くと、

「さき、このままじゃ大学いけないって」。母が泣きそうな顔で言った。

いわく、面談に入るなり、世間話も前振りもなく、いきなり

お嬢さん、大学行きたいって言ってますか?
う~ん、このままじゃ無理でしょうねえ。
(成績表を見て)うん、やっぱり無理でしょうねえ。
はっきり言ってわたし、お嬢さんは寝てるイメージしかありません。
いくら家で勉強しても、授業寝てたら意味ありませんから。

と言われてしまい、褒められることも一切なく、「大学行きたいなら頑張るようにお伝えください」と、ものの5分で面談が終了したそうだ。

その先生は学校でも「厳しい」と有名だったのだが、まさかここまで言われると思っていなかった私たちは呆然とし、しばらくリビングで動けなかったのを覚えている。

「変わろう」。そう母が言ったのが転機だった。

高校1年の今の段階で言ってもらってよかったじゃないの。自分が変わるチャンスを貰えたんだから。目を覚ましてもらったのよ。お母さんも頑張るから、一緒に頑張ろう。

それからは苦労の日々だった。まずは生活習慣を変えるところから始めた。毎日ケータイをダラダラいじったりして、深夜2時、3時に寝るのが当たり前だった私が、早寝早起きの生活に変えていくのに1ヶ月はかかった。母は「勉強しろ」とは一切言わなかったけれど、毎日夜の10時になると、私が本当に寝るまで「寝ろ!」とうるさく言い続け、無理やり電気を消して私が寝ざるを得ない環境をつくった。

けれど毎日10時には寝れるようになると、自然と朝早く目が覚める。余裕が出来て、朝にすっきりした頭で勉強するようになった。授業で寝てしまうこともなくなった。
しだいに成績は徐々にだけれど、上がっていった。成績が上がると勉強するのが楽しくなり、もっと上を目指すようになった。

「早稲田大学」。

その高い壁を上る可能性が、ほんの少しだけれど見えてきたのが、高校2年の冬だった。
真剣に進路を決める頃だ。そのときには学校の成績は以前よりもだいぶ上がっていたけれど、学校の勉強と受験の勉強はまた違う。
相談すると、周囲の人間は皆、早稲田はさすがにかなり厳しいと思う、と言った。しかも英語が苦手なのに、国際系の学部を目指していた。無謀だった。

けれど、どうしても早稲田に入りたいと思ったのは、おじいちゃんの顔がよぎったからだった。

私にもとりえがあるのだと、認めさせたい。自分はダメじゃないって思いたい。

おじいちゃんを見返してやりたい、そんなひねくれた意地があった。劣等感を無くして、自信をつけたかったのだ。
それからは、親に心配されながらも、早稲田を目指して勉強を始めた。塾にも行かず、独学だったので、学校の先生に毎日、放課後質問しに行った。英単語帳は20週くらいした。歴史は辞書みたいな用語集の言葉を全部暗記した。家じゅうの壁やトイレに英単語を貼り付けて、24時間勉強できるようにした。
本当に血反吐が出るかと思うほど勉強した。あまりに顔色が悪いので、親には、「勉強のしすぎで死ぬんじゃないか」と思われるほどだった。

それだけやっても、模試の判定は合格圏内には程遠い、E判定(合格率5%)。いつまでたってもE判定から抜け出せなかった。

志望校を変えようか、とも思った。

ギリギリの12月、最後の模試でもE判定だったので、先生にも厳しいと言われた。

ストレスはMAXで、体重が5キロも増えた。A判定を出しているまわりの友達を見て、気がおかしくなりそうになって、部屋で大泣きして、家族に八つ当たりした。 ペットのプードルは、ピリピリした家の空気のせいで、ふわふわの毛が生えなくなって一部が禿げてしまった。
でもそれでも諦められなかったのは、やっぱりおじいちゃんのことが心にあったからだった。どうしても「ダメな私」というイメージを払拭したかった。

第一志望の入試当日。受かるためなら神頼みでもなんでもするというつもりでいたので、神社に行って厄払いもお祈りもしたし、お守りもたくさん買ったし、パワーストーンもつくった。でもそれだけでは足りないと思って、朝、マンションの5階のベランダから出て、大声で太陽に向かって吠えた。

「お願いします!!早稲田大学に合格させて下さい!!」

近所じゅうに響き渡る大声で、母は恥ずかしくてたまらなかったらしいが、当時の私は必死だった。本当に、合格のためならなんでもするくらいのつもりだったのだ。 最後の試験がおわって、すべての受験生活が終了し、キャンパスを出て大隈重信の銅像が見えたとき、自然と涙が出た。

本当にこれ以上はなかった、と思った。

自信がなくて、取り柄がない自分が、これだけ限界まで努力出来たんだとわかっただけで満足だった。これで早稲田に入れなくても構わないと思った。 最後に大隈重信の銅像に、一人静かにお祈りして帰った。 心の中で、 ここまで頑張らせてくれて、ありがとう。 と挨拶してから帰った。

だから、第一志望に合格できたときは、本当に嬉しかった。

しかも、他の学部はすべて不合格。第一志望だけみごとに合格したのだ。奇跡としか言いようがなかった。 親から合格を知らされたとき、私は祖師ヶ谷大蔵の駅で大泣きしていた。
まわりの人はジロジロ見てきたけれど、どうでもいいくらい嬉しかった。
こんなに嬉しいことってあるんだ、と思った。
合格の報告を知ったおじいちゃんは、心底喜んでくれた。

さき、よくやったね。出来る子だって、じいちゃん、わかってたよ。

そう言われて、肩の力がすっと抜けた。意地をはって、見返したい、認めさせたいと思って反抗心があったけれど、結局私はおじいちゃんのこの喜んだ顔が見たくて頑張ってきたのだと、合格してやっと気付いたのだ。
私はおじいちゃんが大好きだった。厳しいなかにも優しさと愛情があることを知っていた。大好きなおじいちゃんを喜ばせたい、そんな思いで頑張ってきたのだった。

あと1年で、私はその思い出深い早稲田大学を卒業する。あれだけ頑張って、奇跡と呼べるほどの経験をしたけれど、そのぶん充実した大学生活がおくれてきた自信はないし、この選択が正しかったのかもわからないけれど。
でも、人はどんなにダメでも、出来なくても、取り柄がなくても。努力さえすれば絶対に変われると、それだけは自信を持って言える。 そして、そういう努力というのは、誰かが必ず見てくれているものなのだ。

 

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2014-06-10 | Posted in チーム天狼院, 記事

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