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メディアグランプリ

赤+青=きれいな紫、にはならない


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:池田和秀(ライティング・ゼミ平日コース)
 
 
赤色と青色を混ぜると紫色になる。これは小学校で習う混色の基礎だ。これは絵具の扱いでは当たり前のことなのだが、人の心のことになると様子が違ってくる。
人の心は、赤色と青色を混ぜてもきれいな紫色にはならない。むしろ濁った色が出来上がってしまう。
このことを教えてくれたのは、私の知人である指揮者の方だ。この方は、日本とヨーロッパの両方で教育現場に携わってきた。その経験から感じる日本の音楽教育の姿を、こんなふうに私に話してくれた。
この方は言う。
感性の仕事である芸術では、いかに曲を感じるかというのは本人がやるべきことだ。なのに、日本ではわりとそこを教えてしまう。
そして続けて、この方の口から出てきたのが、「赤色+青色」の話だった。つまりこうだ。
日本では、本人が持っている感性が赤い感性だったとしても、「青い方が世の中に受け入れられるよ」とか「コンクールには青い方が通るよ」とか言って、先生がそれを変えようとする。赤い感性に青色が入ってくると、本人の中は紫になり、音楽家としては物すごく辛い状態になっていく。やがて、どこかで悩みが生じ、自分の中をリセットしなくてはならなくなってしまう。本当は、本人が世の中にどう出るか、どう受け入れられるかは本人の責任。そのための基礎的な力を教えてあげるのが本当の教育なんじゃないか-。
私はこの話にとても共感した。
私が知るなかにも、まさにこの部分で苦しんでいる若者がいる。その人は音楽大学で学んでいる学生なのだが、学校のレッスンで、自分が感じたままに表現すると、先生から「それ、違う」と言われて、別の弾き方をするように指示されるのだという。この学生はこう言っていた。「自分をなくさないと、それはできない。弾くのがどんどん辛くなってくる」
自分の感性を思う存分に表現したいからこそ芸術の道を志したのだろうに、それを抑え込まれてしまう。学校は何のためにあるのだろうと、私は思ってしまう。
では、今の世の中にはこんなスタイルの教育しかないのか、というと、そうではない。赤色の感性に青色を混ぜることなく、赤色を思いっきり表現してごらん、という教育も存在する。その一つの例が、北欧フィンランドの音楽教育だ。
私はかつて、フィンランドの音楽大学を訪れ、授業を見学し、教授たちに話を聞いたことがある。
きっかけは、首都ヘルシンキの音楽大学で学ぶ日本人留学生と知り合ったことだった。当時、10年間勤めていた仕事を辞め、インターバルの期間に3週間フィンランドを旅行した。その時、地元のオーケストラを聴きに出かけたコンサートホールで、その留学生と知り合ったのだ。一緒に食事をし、現地の大学の様子を聞いているうちに、「見学においでよ」という話になった。彼は指揮者の卵だった。日本の教育スタイルとまったく違った授業に興味を惹かれた私は、その後再度フィンランドを訪れ、本格的に現地の音楽大学で指揮科の授業を見せてもらうことにした。
私が見学したのは、学生たちが実際にオーケストラを指揮する授業だった。3時間の授業の中で学生たちが次々に指揮台に立ち、演奏を進めていく。教授は舞台のそでにいるのだが、ただ見ているだけで、まったく口を挟まない。これが日本だったら、学生が演奏している最中に先生はたびたび止めに入り、ダメ出しをし、指示し、やり直しをさせるのが普通だ。
フィンランドの教授には教える気概がなく、手を抜いてサボっているのか、というとそうではない。教員や大学スタッフへのインタビューでその謎が解けた。
この授業では、「学生が指揮している最中に何度も止めて指導するのではなく、学生に思い通りにやらせておく」というルールが教員に課されているのだった。
「学生には、間違いをしたり上手くできたりという経験をさせることがとても大事なのです」
「モーツァルトはどういうふうに演奏すべきかを講師が示すのではなく、学生自身にモーツァルトをどう演奏するかを決めさせ、試してみる機会を可能な限り与えるというのがクラスの方針なのです」
これらのインタビューの言葉に、この学校の教育が「何を一番大事にしているのか」が言い表されている。
それなら教師は何も教えないのか、というとそうではない。
学生たちの指揮姿はすべてビデオに撮影され、演奏が終わった後に、別室に移動して教員と学生の全員でその映像を見る。ここで教員から指導が行われるのだ。
私もその場に立ち会わせてもらった。
だが、そこで私が見たものは、教授の指摘をただ拝聴する学生の姿ではなかった。教授が「ここが悪い」と指摘しても、学生も「自分はそうは思わない」と自分の考えを主張する。そこには、教師は教える人で学生は教わる人、教師が上で学生は下、学生は教師に言われた通りにするもの、という姿は、まったくなかった。
教師が「この曲は青色だ」と言っても、自分が赤色だと感じるなら、「なぜ赤色だと思うか」を主張し、ディスカッションする。無理やり自分の中を青色にしようとして紫色になってしまう、なんてことは起きない。
ここでは、「自分で学び、自分で判断し、自分で決断できる人間をつくること」が教育の目的として大切にされている。すべての責任は自分に返ってくるため、その意味での厳しさがあるが、自分の発想と可能性を思う存分に試し、試行錯誤の中で自分が表現者として進んでいく上での核をつかみ取っていくことができる。
ひるがえって、基礎を超えた表現の部分まで「こう弾くべき」を身につけさせる教育では、「先生から教えられることを身につける」ことが上手な学生が出来上がることになる。それが過度に進んでいくと、自分で考え、工夫して、挑戦していく姿勢が消し去られてしまうのではないか。
この2つの教育の対比は、音楽家育成だけにとどまらない、さまざまな教育現場や組織での人材育成のあり方を問いかけていると感じる。なぜなら、今の時代には、これまでの枠組みを超えて創造的に発想し行動していく、そんな新しい価値を生み出す人材が、求められるようになっているからだ。私が見てきたフィンランドの教育の姿は、そういう創造的な人材を育てていくための材料を与えてくれていると思う。
 
 
 
 
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2019-07-18 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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