【ほとんどの人間は、自分の意思よりも他人の評価を尊重する】承認欲求という拠り所を失った今、私は何を頼りに生きればいいのか《川代ノート》
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ほとんどの人間は、自分の意思よりも他人の評価を尊重する。
この事実に気が付いたのは、就職活動のときだったでしょうか。
大学ではいわゆる「大企業病」と呼ばれる就活生が、他人より少しでも「認められる」企業に就職しようと、悪戦苦闘していました。
就活生に人気の企業ランキング上位に食い込んでいる会社。
日本の代表企業で、歴史があり、親にも安心してもらえるネームバリューのある会社。
まわりの就活生から尊敬のまなざしで見られる、少数精鋭の外資系企業。
最近勢いがあり、新入社員の内から多くの仕事を任せてもらえるベンチャー企業。
「就職難易度」「ネームバリュー」「社会貢献度」など、ものさしは色々あるけれど、周りから「すごい」と認めてもらえる会社かどうか、ということは無意識的にせよ、意識的にせよ、「大企業病」就活生たちの重要な要素であることに違いありません。
もちろん社会的に認められやすい会社を目指す学生すべてが「すごい」と言われたいと思っているわけではありませんし、「せっかくなら大きな会社に就職してより多くの人の役に立って社会貢献をしたい」「安定したお給料がほしい」「将来のために経験をつみたい」などの目標はあるでしょう。
けれど案外、そういった意識というのは承認欲求に気付いていないがゆえの無意識的な「言い訳」である可能性があります。
多くの人、とくにこれまでの人生で成功してきた人やいわゆる「高スペック」な人ほど、「自分は誰よりも高尚な人間である」と思い込みたいという願望があります。その承認欲求の程度の差こそあれ、自分は価値がある人間だと思いたいのは誰にでも共通する事項です。
この「承認欲求」というのは、二つのタイプがあります。
承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。
劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間は自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間や被害妄想に囚われている人間の中には、幻想の他者を造り出してしまうために、自分が他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。
(Wikipediaより)
この二つは複雑に絡み合っていて、単純に分けられるものでもありません。
「他人から認められたい」:これはリアルな自分の周りの人間、家族、友人、同僚、上司。誰でもです。他人からすごいと思われたい、尊敬されたい、褒められたい、など、「他人からどう見られているか」ということに固執してしまう人は、とにかく競争心が強い。
誰よりも尊敬されたい
↓
誰よりも自分は上だと認識されたい
↓
何においても一番がいい
こんな感じ。
だから何に関しても人に張り合ってしまうし、いくら仲の良い友人であっても相手を見下した態度をとってしまうのです、無意識に。
誰かがバイトを頑張った話をすれば、いや自分の方が稼いでるしと対抗し、
誰かが旅行にたくさん行った話をすれば、いや自分の方が珍しい国に行って貴重な経験をしたと主張し、
誰かが本が好きでよく読むんだーという話をすれば、いや自分だってその本は全部読んでいると上から目線でコメントする。
とにかく自分という存在が「特別」じゃないと気が済まないんですね。ユニークで、誰とも違う個性があって、「あなたがいてくれないと駄目」と、みんなに必要とされるムードメーカーあるいは人気者でなければいけない、という不安感。
そしてこういう人間は、自己承認においても面倒な仕組みに追い込まれてしまっている。
「理想の自分像」と「現実の自分」のギャップが、あまりに大きいのです。
上に説明してある、「理想が高すぎて本当の自分が認められないジレンマ」がある場合と、逆に「自分を過大評価してしまう」場合、これは矛盾しているようでいて、両立するのです。
単純に、「みんなから愛されたい」という欲求が強いばかりに、「理想の自分像」を高くしすぎてしまうのは、現実の自分もちゃんと認識できていれば単純に、そのギャップに苦しむだけです。でもこれは自分に承認欲求があることをきちんと認められている場合。
「自分が承認欲求があることすら認められない」ときは、質が悪い。あまりにプライドが高すぎて「人から認めてほしい自分」のことを受け入れられないのです。自分は完璧な人間で人格者である、と思わなければ気が済まないので本当の自分を見ることが出来ない。だから「理想の自分像」が「本当の自分」だと勘違いしてしまうのです。
そうなると承認欲求から解放されるのは難しいばかりか、他人からはずいぶん傲慢で高飛車な人間に見えるはずです。結局はそうやって自分の悪い部分を受け入れられないことがますます「理想の自分像」から本当の自分を遠ざけてしまうのに、気付かずに無意識に他人に嘘をついてしまう。見栄を張って、自分は本来の姿よりも尊敬されるべき存在だし、しかも君たちの誰よりも尊敬されるべき存在なのだ、という態度をとる癖がついてしまう。悪いループに陥っていくばかり。
優しくて、
頭がよくて、
知識もあって、
人望があって、
仕事が出来て、
見た目もイケてて、
エトセトラ、エトセトラ・・・
勝手に妄想の「みんな」を作り出して、いつのまにか目に見えない「みんな」にどうしたら認めてもらえるかということが中心に意思決定をしてしまうのです。気が付かないうちに。別に本当の「みんな」は自分にそこまで注目しているはずもないのに、勝手に意識してその妄想のために努力している。本当はいない「みんな」に認められるための意思決定をする。自分本来の意思よりも。ずっと自分のしっぽを追いかけてぐるぐる回っている犬と同じ。
結局こういう承認欲求の根源は、「愛されたい」という寂しさです。愛への渇望です。
つまり、プライド=承認欲求の正体は、「不安」や「孤独」や「寂しさ」なのです。幼い頃に寂しい思いをした人、親族からのプレッシャーの大きかった人、比べられることが多かった人、あるいは一人の時間が多かった人。こういう経験を多くしてきた人ほど、大人になってから承認欲求に苛まれやすい。
「自分の信念を通すだけだから、別に嫌われてもなんとも思わない」と言う人の何人が、本当に誰に嫌われてもかまわない、と思っているのでしょうか。だれだって他人から愛されたくて当然です。嫌われたって何も嬉しくもない。それよりも自分の信念を通すことの方を優先できるというのは、よっぽど達観した人じゃなければ無理でしょう。
きっとそういう人の大半は、こういう本音にきがつかないふりをしているのです。
「それだけ固い信念を持っている自分じゃないと、みんなから尊敬されない」
「完璧な人格者である自分なら、他人に嫌われようが信念を通せるはずだ」
つまり、「他人の評価を気にしない自分」という理想のイメージにとらわれて、自分の本心と向き合えずにいる。
でもそんなに簡単に他人の評価を気にしなくなれるはずがない。まして社会に出る前の最後の準備段階である大学生にとっては、社会から自分が必要とされるだけの価値があるのかとガクガクせざるを得られない。だからこそ就職活動においての「他人からちゃんと認められるだけの会社か」あるいは「他人から尊敬されるだけの仕事をさせてもらえるか」、きちんと社会の一部として役に立てるかどうかというのは死活問題。それが自分の意思決定の中心になってしまっても無理はありません。
当然です。誰だって「自分は社会から必要とされる存在である」と実感して安心したいのです。「自分という人間は必要とされていないんじゃないか」という不安を誰しも抱えている。他人から認められることではじめて、自分のアイデンティティを確認できるのです。
以前、こんなことを言われてとても驚いたことがありました。
「俺なんて、他人の評価が第一優先だけど」
私は、こいつはなんて薄っぺらいやつなんだ、とそのとき思いました。
自分がない。軸がない。他人から見られた自分はどうか、というものさしが第一優先であり、自分の意思はどうでもいい。みんなから「すごいすごい」とちやほやされればそれでいいのか、と。彼を軽蔑さえしました。
でも、就職活動を終え、天狼院で働き始め、承認欲求について書くようになり。
ようやく気が付きました。目が覚めました。
私こそ、承認欲求がすべての拠り所であったということ。
私が描いていた理想像は全て、「他人に羨ましがってもらえるか」が基準だったのです。
綺麗な服を着て、
いつも洗練されていて、
上品で、
かしこくて、
仕事も出来て、
みんなに優しくて、
誰もが好きにならずにはいられないような存在。
そういういい女になりたいと思っていました。
そうです。「他人からの評価が第一優先」だったんです。私には彼を軽蔑する資格なんてなにひとつなかった。むしろ正直に自分を認められていた彼の方がずっと人間が出来ていたと言える。
でもそれはあくまでも、「イメージ」でしかない。
そのイメージの先には、なにもないんです。
結局「みんなから憧れられるような自分」になりたいと思っていただけで、何かをなし得たいという目標なんて、なにもない。
本当に成功する人というのは、そのイメージの先に必ず目標があるのです。
それは「お金」でも「地位」でも「名声」でもなく。
結局は、自分が究極的に面白いと思えることを追求できる強い欲求。
つまり、達成欲求です。
承認欲求に振り回される人間は、その達成欲求の人たちの真似事をして、カッコつけているにすぎない。
その事実に気が付いた瞬間、絶望しました。
今までの自分の意思決定はなんだったのか。
私はこの21年間、「承認欲求」を拠り所にして生きてきたんです。自分の意思なんて、他人からの評価にかき消されて、本当に考えられたこともなかった。だって、その他人の目を気にして決断したことも、全部自分の意思で決めたことだと思い込んでいたのですから。
そして私は今、とてつもなく絶望しています。
これまで信じてきた自分のアイデンティティが、すべて崩壊しています。人生も崩壊したんです。
私が本当に何をしたいのか、何を幸せと思うのか、何を頑張りたいのか、それも全部わからない。
いったい何を頼りにして生きていけばいいのか、わからないんです。
人生ゲームでゴール直前まで進んだと思ったのに、台風でふりだしに戻されてしまったような、そんな気分。
一文無しで、物資もなく、職業もなく。
自分のことが、すっかりわからなくなってしまった。
それに、自分を信じる気持ちもなくなった。嫌いになった。承認欲求が手から離れてしまえば、自分の嫌なとこばかり目についてしまう。自己嫌悪に陥る。
賢くて、
明るくて、
社交的で、
知識人で、
みんなからの愛されキャラだったはずの理想の私は、もう今の私のなかには存在しない。
だらしなくて、
勉強不足で、
人見知りで、
のろまで、
友達が少ない、
そんな嫌な部分ばかりが気になってしまう。
はっきり言って、自分のことが嫌いです。これなら承認欲求の存在に気が付かずに、「理想の自分」を背負ったまま生きられていたら幸せだったのかもしれないと思う。
でも、崩壊してしまった山は、もう元には戻りません。
ここにきて、成長どころか、ひどい退化をしてしまったのかもしれない。
また一からすべて組み立てなければいけなくなった。
これから今までより何十倍も苦労するでしょうし、自分を好きになるにはずいぶん時間がかかるでしょう。
ですが私はこれを、進歩だと思いたい。
別の道を前に進むことを決めたのだと、そう思いたい。
もしかしたら退化してしまったのかもしれないけれど、それでこの大ぼら吹きだった自分が正直になれるなら、自分の人生においてはプラスの路線変更だったのだと。
そう覚悟を決めれば、ここからの再構築でどんな新しい自分の夢が見つかるのか、どんな本当の自分に出会えるのか、楽しみといえば、楽しみかもしれません。もちろん、怖いことには変わりないけれど。
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