僕の天使、それは35キロのくそじじぃだ。
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:浦部光俊(ライティング・ゼミ特講)
「彼女も僕のもとを去っていくのか……」
遠のいていく彼女の背中を見ながら、僕はそうつぶやいた。
最初の彼女との出会いは全くの偶然だった。
初めてのフルマラソン。僕は不安と興奮の中スタートを切った。緊張のせいか、おなかの調子が少し変だなと思い始めたのは、5キロ過ぎ。まだまだ時間に余裕があったので、僕は思い切ってトイレに行くことした。
いざトイレに向かってみると、思っていたよりもたくさんの人が並んでいる。「失敗したな」 そう思いつつも、今更戻ることもできない。仕方ない、トイレを待つ人たちの列に加わった。
「初めてのフルマラソン 目標は完走です」 僕の前に並んでいる20代半ばの女性の背中にはそう書かれていた。まったくの他人だが、僕はなにか親近感をもってしまった。と、同時に、「このくらいの女性よりは早く走れるんじゃないか」 そんな優越感を持ったのも事実だ。
トイレをでるとちょうど彼女も再び走り始めたところ。僕の中で勝手な妄想が広がる。
「引っ張って行ってあげるか」 思ったよりもトイレで時間を取ってしまったため、僕たちの周りには他のランナーは少なかった。言葉を交わすことはなかったけれど、僕の中で責任感のようなものが芽生え始めていた。僕は彼女の前に出るとさっそうと走り始めた。
しかし、僕のそんな優越感・責任感は長くは続かなかった。10キロを過ぎると僕の足が悲鳴を上げ始める。次第に落ちていく僕のペース。「まずい、まずい」 そんな僕の心を見透かしたかのように、軽やかに僕の脇を走り抜けていく彼女。なんとか彼女についていこうと、自分に叱咤激励をするも、次第に遠ざかる彼女の背中。
「こんはずじゃなかった」 という思い。だけど、もう一度「俺はこんなもんじゃない」と信じたい。気持ちの整理がつかないまま僕は一人旅を続けていた。そんな僕の目の前にもう一人の彼女が現れたのは25キロ過ぎたころだった。
「とっても楽しい思い出だったわ」 彼女は、一緒に走っていた男性にそう告げていた。遠目にはよくわからないが、彼女の眼にはうっすらした涙があるように見えた。どうやら一緒にフルマラソンを走る約束をしたらしい。
「でももう私は限界。先に行って」
「なに言ってるんだよ。最後まで一緒に走ろうよ」
「だめよ。私と一緒にいたら、あなたまで失格になってしまうわ」
「わかった。じゃあゴールで待っているから」
なんて会話が本当にあったのかどうかはわからないが、少なくとも僕にはそう見えた。確かに僕らの位置は、途中に設定してある関門通過タイムぎりぎり。このままではレース途中で強制終了されてしまう。一緒にいる男性まで失格させるのは申し訳ない、私を置いてあなたは先に行って、彼女の目に光るもの(実際はただの汗かもしれないが)がそう言っていた。
独り健気に走り続ける彼女が僕の目には、天使に見えた。僕の心の中の使命感に再び火が付いた。「よし、なんとしても彼女をゴールさせてやる」 そう誓った僕は、スッと彼女の斜め前に出た。言葉はいらない。俺についてこい、背中が物語ってくれるはずだ。
が、またしても、至福の時間は長くは続かなかった。足に力が入らなくなってきた。「きっと彼女も頑張っているはず」 ペースを上げろ、さっきみたいな思いは二度とごめんだ。気合を入れなおして顔を上げた時だった。なんと、さっき先に行ったはずの男性が彼女を待っている。
「がんばろう、がんばろう、俺も一緒に走るよ」 その声を聴いた瞬間、僕の脇を一つの影がさっそうと走り抜けていった。彼女だ。彼のもとに走りよる。見つめあう二人。もう一度、やりなおそう、僕には、二人の目がそう語っているかのように見えた。
「また一人か……」 軽やかに走り去る二人。残された僕には二人をもう力は残っていなかった。「もうマラソンなんてしない」 心が折れる寸前だった。足は止まり始めていた。
「おーい、なにやってんだ。35キロの関門、間に合わねぇーぞ!」
34キロ過ぎ、突然の野太い声が飛び込んできた。
「うるせえな、もうどうだっていいんだよ。」
「ダッシュ、ダッシュ! 根性見せろ」 自転車に乗った60歳過ぎのおやじが話しかけてくる。どうやらボランティアで選手に残り時間、残り距離を教えているらしい。
「ここまで走ってきたんだろ。あとちょっと、あとちょっと。ダッシュしろ」
「34キロも走った後にダッシュなんてできるか」
「このくそじじぃ。死ね」 本気でそう思った。と、同時に僕の闘争心がよみがえってきた。こんなじじぃの目の前でリタイアなんてしてたまるか。「黙ってろ、走ってやるよ、見てろ」 僕は関門に向けて力を振り絞った。
2019年12月X日、僕は初のフルマラソンを完走した。身も心をボロボロになったけど完走した。走り終えた今思う。僕を最後まで導いてくれた天使は、5キロの彼女でもない。25キロの彼女でもない。35キロのくそじじぃだ。心から伝えたい、ありがとうございました。あなたのおかげですと。
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