雨ニモマケズ風ニモマケズ、父と母の教え
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:高橋 共子(ライティング・ゼミ日曜コース)
「家族団らん」「家族仲良し」こんなワードにずっと憧れを抱いていた。
物心ついてからの私には、家族揃ってのごはんや、家族全員での旅行というような、いわゆる「家族団らんといったらこれ」という心温まるひと時の記憶がほぼ皆無だ。決して親に虐待を受けていたとか、両親が不仲だったわけではない。
たとえば唯一のきょうだいである姉とは6歳離れており、私がようやく姉の遊び相手としての人間レベルに到達する頃には、姉は姉で学校や近所に作り出した「お友達コミュニティ」を毎日謳歌していた。6歳差なので私が小学1年生の時、姉は中学1年生。彼女は妹がサンリオやディズニーのキャラに夢中になってそれらのシールや文房具等を収集している頃、大黒摩季の力強くかっこいい歌声に夢中で、スラムダンクを片手に子ども部屋のオーディオ機器でガンガンに「あなただけ見つめてる」を流し絶叫していた。話が合うはずもない。
父は高卒で中小の証券会社に勤務し、セールスマンとして活躍していた。真偽は定かではないが、人に羨ましがられるほどの地位や収入を得ていたという話は33年の間で100回は聞かされているため、彼にとって証券セールスの仕事は誇りだったのだろう。しかし私が生まれてからほどなく、バブル崩壊。瞬く間に父の会社は跡形もなくなり、ニート状態に。その後、なんとか転職できたものの、日中はほとんど家にいない、夜型の不規則な仕事で必死に日々の生活費や私たちの学費を稼いでくれていた。毎日毎月が自転車操業で、とてもではないが姉も私も「4年制の大学に行きたいから学費を出してほしい」などと言える空気ではなかった。
母はそんなバブル後の急転直下な家庭内不安を全身全霊でまともに受け、薬が必要なまでに精神を病んでしまっていた。もともと明るくて活発であったはずの母が、日や時間帯によって気分の波が激しく、料理や掃除などの家事もあまりこなせなくなった。薬の影響もあり、私が「ただいまー!」と家に帰っても、寝室で寝ていることが多くなっていった。友達の家に遊びに行ったとき家がきれいに片付いていて、かわいい子供部屋があって、手作りのおいしいおやつが出てきたときにはびっくりしたし心底うらやましかった。ほとんど家で会えない父、部活やバイトで時間帯の合わない姉とはさらに会話がどんどん減っていき、家族4人が揃うことはなくなっていった。
家族がこうなってしまったのは、あの頃に父に甲斐性がなかったからにちがいない。父はもしかするとそこまで私たちのことを大事に思っていないのでは。どこかで我が家に起きている不幸の全責任を父に覆いかぶせている自分がいた。
そんな私の家族観が大きく変わったのは、約1年前のことだ。母が体調を崩し、入院したのだ。2年ほど前からどことなく調子が良くなかったのは父から聞いていた。このとき母が入院するまで、仕事の忙しさを理由に実家にほとんど顔を見せていなかった私は、母を心配する一方で、すこしバツが悪かった。病院に向かう道中、「ついに来てしまったか、このときが……」と唇を噛み締めながら母の元へ向かった。
これまで何もできなかった後悔を打ち消すかのごとく、私は時間さえあれば母のお見舞いに通った。20年以上ぶりに母の手を何度も握り、肩をさすった。もともと太り気味だった母の肩は、骨が触れるまでやせ細っていた。大好きだったエルトン・ジョンやマライア・キャリーの音楽をBluetoothイヤホンで片方ずつ一緒に聴いたり、得意なお絵描きがいつでもできるよう、スケッチブックとクレヨンを差し入れた。すると4ヶ月目くらいには会話もできるまで復活した。母は私のことを認識したりしなかったり、姉と間違えて呼んだり色々あったけど、なんやかんやでこうして家族と会話できる機会が増えて嬉しそうだった。
父や姉とも何度も今後の人生のことを真剣に向き合って話した。父は頑なに「お母さんは家で面倒を見る。お父さんなら、大丈夫だ」と繰り返した。しかし、主治医も看護師も姉も私も、誰がどう見ても母の容態は「在宅&老老介護は無理ゲー」な状態であるのは明らかだった。主治医と面談をするたびに、姉と私で父を説得し、父は次第に家で介護することを諦めていった。すこし寂しそうな表情をしながら。
今思うと、普段から娘も含めた「他人に頼る」という概念が脳内辞書に存在しない超江戸っ子頑固親父の彼である。数年前から数ヶ月に1回のペースでガラケーから送られてくる「お母さんの調子がよくない。でも、心配は無用だ」のメールは、本当は重大なヘルプサインだったのかもしれない。当時そっけない返事を返すだけで何もしなかった自分を悔やんだ。
さらに父の想いを感じた出来事があった。実家から母の病院までは自転車で約20分。もうすぐ70になる父だが、なんと1日も欠かすことなく毎日自転車を漕いでお見舞いに通っていた。病室の滞在はいつも15分程度だったが、巨大台風襲来の日をのぞいて、1日もその習慣を欠かすことはなかった。そんな父の様子を見て、これまで私の中にはまったく存在しなかった種類の確信が生まれた。
「あぁ、お父さんはお母さんのこと、めちゃめちゃ愛してるんだな……」
だって、そうでなければおかしいのだ。
父は雨の日も風の日も、レインコートを着て、ヨロヨロと自転車をこいで母の元へ通っていた。謎のフィリピン人の女性との接触事故にあいながらも、「へへ、事故にあったけど何ともなかったよ。やっぱり俺は強運だな」と笑いながら、毎日毎日お見舞いに通っていた。私は当初この様子を「まぁ父も年金暮らしでたいそうな趣味もなくて暇だからな」とさも当たり前のように眺めていた。しかし、母の様子を逐一ガラケーメールで報告してきたり、母が好きだった雑誌を(母本人はほとんど読めないのに)わざわざ遠くの書店まで買いに行って差し入れする様子をみて、いつしか父の母に対する大きくて暖かい愛情を感じるようになった。
母は母で、私たち姉妹の名前を間違えることはあっても、父の名前だけは絶対に間違えなかった。父が来るときだけはいつも表情が明るくなった。母もそんな父の思いを感じ取っていたのかもしれない。
20年ほど前から父の甲斐性のなさに不満を抱き、家族の話をあまりすることのなかった私も、今年で34になる。ちょっと気づくのに時間がかかったけど、私の家族なりの「団らん」「お互いが想い合っているということ」を知ることができて良かったと、今は心からそう思っている。
そんな私も来月自分の家族をもつ。嫁入り前に、母が私に「お父さんもお母さんもお互い大切に想い合っているよ」と、気づくよう仕向けてくれたのかな、と思っている。入籍予定日は大安である母の誕生日に決めた。
今度は私が自分の家族をつくる番だ。どんな家族を作れるのか、とても楽しみである。
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