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人妻の恋 ―『源氏物語』空蝉巻より―


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記事:川上さくら(ライティング・ゼミ日曜コース)
 
 
そのひとは、突然やってきた。
 
そのひとに家に帰れない理由ができたということで、私の夫が「今夜お泊りください」と招待したのだ。なんでも、社会的にお断りできない立場の方だそうで、私もおもてなしに精を出した。家にあるだけのお酒を出し、おつまみを作り、お客様たちが酔いながら歌う賑やかな声を別室で聞いていた。
 
私は、夫のことをあまり好きではない。私よりはるかに年上だし、くそ真面目で、女性を喜ばせる言葉もプレゼントも贈ってくれない。職場での様子は詳しく知らないが、出世はあまり期待できないらしい。今の都会勤めから、地方に飛ばされそうだという話も聞いた。今夜のお客様のおもてなしでも、きっと目上の方にぺこぺこ頭を下げているだけに違いない。
 
私との結婚を決めたのも、家庭を切り盛りできる女性が欲しかっただけなのだ。
夫にとって、私は二番目の妻である。前妻は、男の子をひとり残して亡くなってしまい、今は私が育てている。いや、育てている、という言い方はおかしい。なぜなら、私とその子は同世代なのだから。
 
だから、その子が私たち夫婦のことをどう思っているかも知っている。
自分と同じ年齢の女に惚れ込むなんて、スケベなオヤジだ。こんなおっさんにしか相手にされないなんて、つまらない女だ。
 
私だって、両親が生きていさえすれば、もっといい男と結婚することができたはずだ。両親は生前、「いいお嫁さんになれるように」と結婚に必要な一通りのことを教えてくれた。けれど、私の花嫁姿を見ることもなく、他界。残された私は、小さな弟との生活を考え、ちょうど縁談があった夫と結婚した。再婚だとか、年が親子ほども離れているとか、関係がなかった。小さな弟と生きていかなければならなかったのだ。
 
そのひとがやってきた、その夜。暑い夏の夜で、私はまったく寝つけずに、そのようなことに思いを巡らせていた。もし、両親が生きていれば、今日お泊まりになっている華やかな男性陣の中のどなたかと恋ができたのかもしれない。季節ごとに気を利かせたプレゼントをいただいて、心をとかすような甘い言葉をかけてもらって、コロンが香る服を着た彼に抱きしめてもらって―。
 
私も年齢相応の恋が楽しめたのかもしれない。
 
でも、現実は理想とほど遠い。そして、私はその理想をあきらめなければならない。生きていくためには仕方がないことなのだ。
 
そのときだ。寝室のドアが開いた気がした。
いや、気のせいだ。夫はお客様の近くで寝ると言っていたし、ただ寝苦しいからそう感じただけか、と思ったそのとき。
 
ずっと前から好きでした。
そのような言葉とともに、そのひとはやってきた。
まさかまさか、そんなことはあるまい。夫がいるこの家で、姿はよく見えないけれど、心地いい声と愛情たっぷりの言葉をかけてくれる、いい男が現れるなんてありえない。
頭は真っ白になり、声も出せなかった。
かろうじて絞り出した言葉は「私は取るに足らない身だけれど、軽んじられるのは嫌。私のようなレベルの女には、私のレベルなりの相手がいるから」。そうして、拒絶した。
 
私はあきらめていた。年齢相応のおしゃれも、恋も、人生も。
もちろん、恋に憧れることはあった。誰もが心ときめかすイケメンとの恋。でも、夢を見るだけ、現実との差を突きつけられるようで、つらかった。
 
そのひとが、いきなり目の前に現れて、私の体を抱き上げたとき。
「本当ならば、私だって、こんな恋愛ができたのだ」。
このような気持ちが一瞬心を横切った。
そのまま、そのひとに体をゆだねることもできたかもしれない。でも、そうしなかった。できなかった。
 
いつもは「ダサい」と心の中で見下していた夫のことが急に恋しくなった。
「はやく一人で田舎に行っちゃえばいいのに」と思っていたにもかかわらず、「ひとりにしないで」という思いがふつふつとわいてきた。
「今夜のことが夫にバレたら、どうしよう」という思いもあった。でも、それ以上に、夫を恋しく思う気持ちが強かった。
 
安心していたのだ。私を庇護してくれる夫の存在に。その包容力に。
両親が亡くなって、途方に暮れていた頃、小さな弟と一緒に引き取ってくれると言った夫。すでに子どもがいるのに、私の家族の面倒まで見てくれるという。優しいひとなのだ。
心をときめかす言葉もプレゼントもなかったけれど、私は家庭の中での役割を与えてもらった。生きがいができた。
もっとイケメンと結婚したかった、もっと華やかな生活をしたかった。そんな思いはたくさんあったけれど、きらびやかな男性が目の前に現れて「好きだよ」と言ったその瞬間、私は悟ったのだ。
「夫とともに生きなければならない」と。
 
私は、夫とともに地方へついていくことにした。
 
私のもとに忍びこんだ、そのひとの名前は「光源氏」という。
光源氏によると、私は「なよ竹の女」と呼ばれているらしい。「なよなよとして折れそうなのに、手折ろうとしても折れないなよ竹のようだ」という意味を込めているという。
 
え? 私が本当に光源氏と契りを交わしたか?
それは、秘密。紫式部ははっきりと書かなかった。
そして千年以上ものあいだ、読者が、学者が「ふたりに契りはあったのか」について論争を続けた。
わたしの本当の恋心は、光源氏とのあいだにあったことは、ずっと秘密なのだ。
 
 
 
 
***

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2020-05-29 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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