運転手さんの優しさに
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記事:池田マチコ(ライティング・ゼミ集中コース)
年末の深夜。
胃のあたりが差し込むような激痛に襲われた。
手足から血の気が引いてゆく感覚。
痛みで脂汗が出る。
どうしてか、身体中が赤く腫れ、かゆい。
少し寝れば良くなるだろうと、ベッドでじっと耐えていた。
1時間経過。
痛みは増してゆく。
体はエビのように丸くなり、自然とうめき声が出る。
夫が異変に気がついた。
「今すぐ病院に行こう。様子がおかしい」
「たかだかこの程度の痛みで病院に行っていられない」
かなりの痛みであったが、まだ会話ができる状態であったので、病院には行かず胃薬を飲むことにした。
30分後。
熱が38度を超えていた。
おかしい。
体の痒みも増している。
食あたりだろうか。
だとしたら、とにかく出すことを優先したら良い。
夫に水を持ってきてもらい、グビグビと飲み干す。
あとは出てくるのを待てば良い。
布団の中で唸っている。
しかしおかしい。
食あたりならば、吐き気があるのではないか。
何が起きたか分からず、痛みが引く気配もない。
「ダメだ。もう救急車を呼ぼう。手遅れになる」
夫が心配して私の顔を覗き込む。
「いや。救急車はもっと重症の人が乗るべきだよ。私はまだ会話ができるから、タクシーがいい。タクシーを呼んで。そして、かかりつけの病院に今から行くと連絡して」
夫が手配している間、私は、腰を曲げたまま床を擦るように歩き、リュックに下着やメガネ、歯ブラシ、P Cや仕事道具一式を詰め込んだ。
この痛みは入院になるだろう。
しばらく家に帰れなくなる。
職場にも行けそうにない。
寒さでガタガタ震える体に、厚手のコートを上からかけて、ソファーにうずくまりタクシーの到着を待っていた。
どんどん意識が薄れてゆく。
これはまずいかもしれない。
夫の携帯が鳴る。
タクシーが到着したようだ。
夫に支えられて玄関を出る。
黒塗りのタクシー。
運転手さんが外で立って待っている。
「すみません。妻が体調を崩してしまって。T病院までお願いします」
運転手さんはすぐに異常事態を察してくれた。
「かしこまりました」
自宅からT病院までは、車で20分程度の距離にある。
痛みがどんどん増してくる。
意識が朦朧としてきた。
夫が何か話しかけているが、よく聞き取れない。
私は記憶にないが、その時「痛い、痛い」と繰り返していたらしい。
ただ、その最中に感じたことがある。
車が信号で止まる感覚がなかったのだ。
大きなカーブがあるはずの道でも、一直線に走っているようなスムーズさ。
路面に凹凸があれば、衝撃で痛みが強くなるのを危惧していたが、それも一切感じられなかった。
この運転手さんはいつもと違うルートを通っているのかもしれない。
最短距離を通らないと、短気な夫が怒り出すのではないか。
痛みの中、うっすらと心配していた。
病院の急患入り口に到着した時、既に夜中の1時を過ぎていた。
警備員さんがタクシーに駆け寄り「ダメ! そこに止めないでください!」と大きな声をあげた。
ああ、短気な夫が怒ってしまう。
「今そんなこと言ってる場合じゃ無いんです! お客さんがこんなに苦しんでるんですよ! 早く診察室に連れて行ってあげてください!」
その大きな声は、夫の声ではなかった。
タクシーの運転手さんの声だ。
これほど親身に思ってくれる運転手さんに出会えたことが嬉しくなった。
タクシーのドアが開き、ヨレヨレと外に出た。
運転手さんに向かってお礼を伝えたつもりだが、その後の記憶がない。
次の日。
病院のベッドの上で目が覚めた。
夫が心配そうに顔を覗き込んでいる。
「大丈夫?」
腕には点滴の管が入れられている。
痛みは感じない。
「うん。大丈夫そう。心配かけてごめんね」
「まずは本当によかった」
「ところで、運転手さんにお礼言ってくれた?」
夫が、はっと目を大きくした。
「実は……」
話によると、運転手さんは最短ルートをとても丁寧に運転をしてくれていたそうだ。さらに、動揺していたのか、メーターを倒すことを忘れており、病院の手前でそれに気がついたそうだ。
夫が、自宅からの距離の料金をお支払いさせてほしいと伝えたが、運転手さんはそれを断ったそうだ。
「メーターを倒し忘れたのは私です。こちらのことは気になさらず、今は奥様の体調のことだけ考えて、すぐに診察に行ってください」
「そんなことがあったのね……」
私が逆の立場であった時、この運転手さんのような対応ができただろうか。丁寧な運転も料金も、全て見ず知らずの乗客の命を最優先に考えてくれていた行動だ。そのおかげで、私は大事に至らず、数週間の入院で、無事退院することができた。
「運転手さんに、お礼を伝えてほしいな」
夫にお願いすると
「もう、会社に連絡したよ。素晴らしい運転手さんのおかげで、妻は入院しましたが、無事ですって」
見ず知らずの私の命を大事に思ってくれた人がいたことを、忘れることはないだろう。
***
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