リアビューミラーをのぞいてみると
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:河原千恵子 (ライティング・ゼミ 超通信コース)
起こった時点では気づいていなかったけど、あとで振り返ると意外に重要なできごとだったと、わかることがある。
そんなできごとのひとつが、もう40年近く前、私が高校2年生だったある日の授業だ。
国語の時間だった。確か古文だったと思う。
30代後半のその男の先生の授業が、私は好きだった。
先生の、上から目線でなくて穏やかで、それでいて迎合することもない生徒との距離感や、教室の空気感が好きだった。
いつもうるさい男子たちも、その授業では協力的だった。
その日、授業を始める前に、先生は何の話からか脱線し、雑談を始めた。
自分の3歳くらいの娘さんがおねしょをしたという話だった。
私たちは先生が愛娘の話をするのを微笑ましく聞いていた。
「そのとき僕の奥さんが娘をすごく叱っているのを見て、僕は『カラマーゾフの兄弟』を思い出したんだよね」先生は言った。
19世紀のロシアの文豪ドストエフスキーの代表作の一つ「カラマーゾフの兄弟」の主人公は、アリョーシャ・カラマーゾフという心優しい修道僧見習いの青年だ。アリョーシャは長年疎遠になっていた兄イワンとゆっくり話をする機会を得る。知性的だけれど厭世的な無神論者の兄に、神の存在についての話をふられて、信仰深いアリョーシャは喜ぶ。けれど、そんなアリョーシャにイワンがある逸話を話してきかせる……
「その話には、外から見ると立派で教養もあるのに、実の娘を虐待する両親が出てくるんだ」
先生は続けた。
「その5歳の娘がトイレを失敗するんだよね。そしたら両親はさんざんその女の子を殴ったり蹴ったり、鞭打ったりしたあげくにトイレに閉じ込めるんだ。寒い冬の夜に。その娘は泣きながら神様にお祈りするんだけど、両親は一晩中、出してやらないんだ」
先生は続けた。
「そういう残酷な幼児虐待の例をいくつも話してから、イワンはアリョーシャに言うんだ。おまえの信じる神とか救いを自分は拒否するって。神によって罪人が救済され、許される世界なんて、自分は認めない。なぜなら、無垢な子どもの流した涙を償えるものなんてこの世に存在しないからだって」
罪のない子どもを虐待する人間を許すような神を、受け入れるかどうか。
子どもの涙や苦痛の上に築かれる人類の救済を受け入れるかどうか? という壮大なテーマ。
先生はそれを娘のおねしょから発想した、という話だった。
それは確か5時間目の授業で、教室の空気はまったりとしていた。
黒縁のメガネをかけた先生は教壇のいすにすわって、すこし首をかしげ、たんたんとしているけれど温かみのある口調で話していた。
その平和な午後の風景のなかで、私は静かに興奮していた。
思えば、ドストエフスキーにはもう少し前に出会っていた。
小学校高学年だったと思う。愛読していた少女マンガ誌に、ドストエフスキーの「罪と罰」を大好きな大島由美子先生がマンガ化したものが連載されていたのだ。
私はそれを読んで、どうしても原作が読みたくなり、祖母にねだって買ってもらった。
もちろん、小学生に「罪と罰」が読めるはずもなく、最初の数行を読んだだけで本棚にしまわれたのだが、それでもマンガによって私とドストエフスキーに、細い細い糸のようなかすかなつながりができていたことも、その日の先生の話に私が心動かされた原因だと思う。
何気ない授業中の雑談のなかで、先生が示してくれたのは、日常と非日常の接点だった。
一冊の文庫本のなかに、神とか存在とか生きることについての、深遠なテーマが隠されている。
私などには到底理解できない、想像もできない奥深い世界がある。
しかもその世界は、その気にさえなればいつでも手の届くところにあって、私たちに触れられるのを待っている。
そして子どものおねしょ、というような日常的な出来事からでも、その世界に想いをはせることができる……
知りたい、と私は思った。
その世界を、文学の世界を、知って、味わって、追求したい。
希求ともいえる熱い思いが、きっとそのとき生まれたのだと思う。
その後私は「カラマーゾフの兄弟」を買って読み始めた。だが、あまりの長さと複雑さと、内容の深遠さに高校生の私は早々にギブアップして、ずっと後になるまで実際には読むことができなかった。
けれど、文学への情熱は、消えることはなかった。そして私は、いつか小説家になろうと決めた。
あの日、先生が指し示してくれた方向性。文学だけでなく、美しいもの、謎深いものへの憧れ。それが今の私の書くことへの熱い思いにつながっているのは間違いない。
免許はもっているけれど、ぺーバードライバーで運転はできない。
でも人生を運転しているつもりになってバックミラーをのぞくと、今までたくさんの分かれ道があったんだなと思う。
止まってどちらへ行こうか考えた道もあったけれど、ほとんどの道は選んだことすら覚えていない。
それでも時々、確かに一本の道筋が指し示されたと思える瞬間があった。
そのサインは国語の授業だったり、誰かの何気ない一言だったり、偶然つけたテレビのなかの映像だったりした。
本当はそうしたサインはきっと、絶えず示されているのだろう。
それを私はほとんどの場合、気づかずに見過ごしているのだ。
日常に流されて、ただただやり過ごしてしまいがちな日々のなかで、時々少しだけ立ち止まってみようと思う。
毎日ひとつでも、何か心を動かされたものや、注意をひかれたものを書き留めておこう。
それは私にとってきっと、大切なサインなのだから。
通り過ぎてからバックミラーで気づくのではなく、自分の意志で方向を決めるために。
***
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