僕の学校のプリンセス天功
記事:たか(ライティング・ゼミ)
僕の高校に”テンコー”と呼ばれる先生がいた。
名前の由来は二代目引田天功もとい、プリンセス天功。
プリンセス天功といえば、年齢不詳、黒髪ストレートにパッツン前髪、目の周りに濃いアイメイクが特徴的な、日本を代表するイリュージョニストの一人。今の10代の人は知らないかもしれないけど、ド派手な脱出ショーや人体切断マジックが持ち味で、中学生くらいの頃テレビの前でかじりついてその華麗な奇術に釘付けになったものだ。
先生が”テンコー”と呼ばれていた理由は、その見た目がプリンセス天功そっくりだったから。黒髪ストレートにパッツン前髪、目の周りは真っ黒のアイメイク。服装はいっつも黒を基調として、細い銀のラインが入ったジャケットやベストに、紫色のシャツ、黒のハーフパンツに、銀のラメ入りのスニーカー。残念ながら実際のプリンセス天功に比べると少し横幅は広かったけれど。見た目のインパクトがすごすぎて、中学生の頃から”テンコー”の存在は知っていた。しかし、すごいのは見た目だけではなく、授業も同様だった。
テンコーの授業はすごく厳しくて、大変だと。
僕が高校生の頃は、3つのタイプのクラスがあった。そのうち1つが「特進コース」と呼ばれる難関国公立を目指すクラス。テンコーは特進コースの現代文しか担当しない、難関大学対策のプロフェッショナルだった。僕の学校は中高一貫で、生徒の9割以上がそのまま同じ高校に上がるのだが、僕は仲がいい友達が皆特進コースに行く、という理由だけで必死に勉強して特進コースに進んだ。
4月、初めての現代文の授業。当然先生はテンコー。
間近で見るテンコーは思ってた通り、他の先生が纏っていないオーラがあった。
「よーし、今日は最初の授業だから、お前たちのこと先生に教えてくれ!」
ハリのあるいい声が教室に響いた。テンコーと言えども初回の授業はあまり他の先生と変わらないんだなと思っていたのもつかの間、みんなのテーブルにプリントが配られた。否、それはプリントではなかった。
「それじゃあ、今からチャイムが鳴るまで実力試験だ。開始!」
教室に、マジかよ、という空気が流れた。8割以上のクラスメイトがそう思ったに違いない。厳しいという噂は本当だったのだ、と。その日はなんとかテストを乗り切ったのだが、テンコーの授業は毎回毎回大変だった。大変だった記憶しかない。さすがは、難関国公立クラス、といったところだろうか、テンコーが出してくるテストは文章も問題も難しいし、僕が嫌いな記述式回答も沢山あった。また、毎回授業の最初に行われる漢字テストでは、指定された範囲に乗っている漢字の反対語や類義語、注釈からも問題を出してくる。これを3年間続けるのか! と思うと途中で鬱にでもなりそうだった。
2年生に上がり、テンコーの授業に耐性がついてきた頃、突如テンコーが学校からいなくなった。代わりの先生によると体調を崩し入院しているということだった。呪いにでもかけないとぶっ倒れないようなテンコーの人間らしさを垣間見た瞬間だった。不謹慎ながら、当時の僕はテンコーの授業がなくなったことにちょっと喜びを感じていた。代わりの先生の授業はテンコーに比べると楽だったし、面白かった。しかし、1ヶ月も経つとテンコーの厳しい授業が懐かしくなってきた。テンコーの授業は厳しかったけれど、確実に自分の実力が伸びてることを感じていたし、テンコーの出す難しい問題を解けたときの快感もあった。そろそろ戻ってこないかな、と思っていた矢先、本当にテンコーが戻ってきた。ちょっとやつれたように見えたけど、前と変わらないハリのある声が響きわたる授業が帰ってきた。
テンコーが体調を崩した理由3年生になると自ずとわかった。テンコーは高校生の特進コース、全6クラスを全て担当するだけでなく、受験生である3年生の個別指導も毎日学校が閉まるまでやっていた。「この問題わからないので解説お願いします!」「この記述の添削お願いします!」という生徒のお願いは全て聞き入れていた。放課後だけでなく、昼休みや中休みの時間もテンコーは生徒一人一人のために時間を割いていた。一度テンコーの予定表を見せてもらったことがあるのだが、分刻みで予定が詰まっていた。それこそ売れっ子マジシャンのように全く空き時間がなかった。それでいて家でもテストの答え合わせ、問題作り、個別指導の添削等やることは山積みだった。ただ、僕はテンコーが辛そうな顔をしているところは一度も見たことがない。わからないところはわかるまで付き合い、納得してもらうことがモットーだったテンコーは、いつも生徒一人一人に真摯に向き合い、実力があがるためのタネをこれでもか、というほど伝授していた。
テンコーは昔舞台女優をやっていたらしい。だからというわけではないのだろうけど、当時演劇部に在籍していた僕は特別テンコーに可愛がってもらっていたように思う。どんなに僕がしつこく質問しても嫌な顔一つせず、ずっと付き合ってくれたからいつの間にか僕も遠慮がなくなって自然とテンコーと接する機会が増えただけなのかもしれないけど。特に記憶に残っているのが、ある選択問題の答えに納得できなかった僕が、授業を終わった後の休み時間もずっと質問し続けて、それでもわからなくてモヤモヤしていると、
「放課後職員室にこい! 一緒に考えるぞ!」
と言って、本当に放課後ずっと付き合ってくれたこと。あんなに先生と言い合ったは初めてだったかもしれない。
現役時代の大学受験に失敗した僕は、予備校に通いつつも、たまにテンコーの元で個別指導を受けていた。卒業生の僕にすら、現役時代と変わらぬ熱く厳しい個人指導をしてくれた。テンコーのおかげで現代文に関してだけは、圧倒的な自信を持って試験に臨むことができた。
この間、2年ぶりくらいに訳あって母校を訪れる機会があった。だいたい遊びに行ってもテンコーは忙しいことが多くて、なかなか会えないことが多いのだけれど、今回はたまたま会うことができた。テンコーと二人で話すのはそれこそ5年ぶりくらいだった。久しぶりに会ったテンコーはやっぱりちょっと老けていた。それは僕がもう生徒ではなく、同じ大人からそう見えるのか、それともただ相も変わらず体を酷使してるからだけなのか。それでも当時と同じように、そこだけは時間が止まっているかのように、黒髪ストレート、前髪パッツン、目の周りの濃いアイメイクは健在だった。
「もう演劇はやってないのか。そうか、残念だな」
「あ、でも大学ではバンドやったり、フリーペーパー作ったりしてましたよ」
「そうかー! それもお前に似合いそうだな。やっぱりお前は表現者が向いているよ」
たわいもない会話だった。5分くらいしか話さなかった。
でも僕は知っている。テンコーは本気で思っていることしか口にしない。
「表現者が向いているよ」
この言葉はまるで魔法のように僕の心に突き刺さった。今まで社会に合わせて、周りを見て自分で勝手に閉じていた扉を手品し人の心をくすぐるように、少し開いてくれた気がした。
天狼院書店のことは前から知っていた。ライティングゼミのことも知っていた。でも、受けようか正直迷っていた。だけど、自分が表現したことで誰かの心を動かしたい、という思いはずっと強く残っていた。演劇でも、バンドでも、フリーペーパーでもなくとも、何らかの形でずっと表現し続けたいと思っていた。その小さな火を、テンコーは大きくしてくれた。やってみたいな、ではなく実際にやってみないとダメなんだって思わせてくれた。もしこのタイミングでテンコーに会わなかったら、まだうじうじしていたかもしれない。ちょっと書くことにも慣れてきたから、このタイミングでテンコーのことを書きたくなった。テンコーは僕の生涯の恩師だから。
僕の恩師は年齢不詳、黒髪ストレート、パッツン前髪、前の周りは真っ黒アイメイクで、見た目はプリンセス天功。でも、先生がいつも見せてくれたのはド派手なイリュージョンではなく、こちらの心をちょっと動かしてくれるクローズアップマジックだった。
先生、本当にありがとうございます。
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