悲しすぎると泣けないと知っていたら、自分を憎むことなどなかったのに
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記事:染宮愛子さま(ライティング・ゼミ)
その日、父の運転はかつてないほど荒かった。二車線なのに道のド真ん中を突っ切る状態、しかも時速80キロをゆうに超えている。普段は法定速度を守ろうとするほどに安全運転第一の父からは想像できないむちゃくちゃな運転に、家族は「自分たちもおじいちゃんの後を追わされるんじゃないか」とヒヤヒヤものだった。午前0時を回った真夜中、車通りの少ない畑に囲まれた道でなかったら、本当に危なかったかもしれない。
誰も父の暴走運転を責められなかった。
「昨日、会いに行ったときは元気だったのに」
搾り出すような父の声。父にとって、初めての肉親の死。
父が本気で動揺する姿を見る、初めての経験だった。
祖父が亡くなったのは、私が大学合格を伝えた3日後だ。模試の判定結果Dからの奇跡の逆転劇に、家族も学校も大騒ぎ。おじいちゃんも思い入れのある大学だったらしく、そりゃあもう、飛び上がらんばかりに喜んでくれた。そのときも少し風邪気味だったとはいえ元気で、まだまだ生きているだろうと無条件に信じていた。それが3日後に、文字通りポックリ、だ。
死因は誤嚥性肺炎――お年寄りの死因トップ3に入る原因。あっという間に病状が悪化してしまうのだという。実際、祖父も医療ミスを疑いたくなるほどに突然だった。
祖父がいた病院で、祖父がどんな姿をしていたかはあまり覚えていない。
覚えているのは、霊安室に案内され、妹が私の肩で大号泣したこと、母も父も、後から駆けつけた叔父も叔母も従兄弟もみんな泣いていたこと。
そして。
私が、泣けなかったこと、だ。
泣けないことが申し訳なくて、情けなくて、荷物を取りに車に戻り。3月の肌寒い空気に浸され、星が散らばる夜空を見上げた。
口からは、呪いの様に言葉がこぼれた。
「これが、現実だ」
それは、私が私に絶望した瞬間だった。私に人を愛する力はないと、決めつけた瞬間だった。
祖父に認知症の明らかな症状が出始めたのは、中学校1年のころだ。少し酒癖が悪くなったかな? 程度だったのが、ご飯を食べたかは忘れる、小さいことで怒鳴り散らす、暴れる、夜遅くに一人で外に出て迷子になる……典型的なアルツハイマー型認知症となった。中学3年のころには、自分で下の世話もできなくなり、母がことあるごとに廊下の掃除をしていた。私は私で、食事をしたら全速力で二階に上がり、自室に引きこもった。階下からはいつも祖父の怒鳴り声と、なだめる祖母と母の声。中学生という思春期真っ盛りの私には、その光景は文字通りの地獄だった。
「おじいちゃんが、どうして」
私は初めての内孫で、祖父には最大限の愛情を注いでもらった。父が仕事で忙しく、なかなか家に帰らなかったこともあり、ほとんど父親代わりだった。『大きくなったら、おじいちゃんと結婚する!』を真顔で言うような、仲むつまじい祖父と孫。小学校4年ぐらいまでは、私の定位置は祖父のひざの上。ぱたぱたと足を動かしながら、祖父に後ろから頭を撫でてもらうのが、この上ない幸せだった。
だからこそ、受け入れられなかった。
魂が崩壊していく『認知症』を。
認知症が進行していくにつれ、祖父は昔の優しい姿とは似ても似つかなくなっていった。見た目は一緒だが、悪霊にでも取り付かれたんじゃないかというぐらいに怒鳴る。何が怒りのスイッチなのか、誰にも分からない、本人もどうしてこうなったのか分からない。いわゆる徘徊……本人も訳が分からぬままに外に出てしまうことも激増し、母は一睡もできない日々が続いた。家族に手を上げなかったのは不幸中の幸いだろう。
「おじいちゃんなんか、きらいだ」
背中に、足に残る肌の感触、体温の感触。戦争の話や映画館の支配人時代の話を面白おかしく、満面の笑みで聞かせてくれた声。ほんの数年前に当たり前だったことが、悪い夢だったかのように変わっていく現実。発作のように怒る祖父からは、日本語なのに意味が分からない怒りの言葉が飛び出す。私が見ていないところでは、食器を投げたこともあったという。
当時、アルツハイマーには治療薬などはなく、手の打ちようがなかった。誰にも、本人も、どうすることもできず、ただ翻弄され続ける毎日。1日1日が、ひたすらに長かった。結果的には特養老人ホームへの入居がかなったのだが、それまでの約3年間、家族全員が認知症という敵に振り回され続けた。
その日々を超え――
私は、最愛の祖父の死に、泣けない孫となった。
祖父が亡くなったとき、私の心はブラックホールのようだった。ぽっかりと空いた空間。悲しいとか、苦しいとか、もっとしてあげられることがあったとか、そんな言葉は一切浮かんでこない。心がすりガラスに覆われたようにもやがかっていて、止まっている。自分が何を感じているのか、自分でも分からなかった。
ただ、周りのように泣けなかった自分は、クズだと思った。
誰よりも愛されておきながら、誰よりも淡白な反応しかできない自分。
「私は人間のクズだ。あれほど愛してくれたおじいちゃんに、応えられなかった」
そして、私は自分を憎むことを選んだ。自分を最低最悪とし、絶望することを決めた。
その思いを抱えて、実に18年以上生きてきたのだが――
つい先日。
この話を聞いた知り合いが、さらりと私の勘違いを指摘してくれたのだ。
「あのね。本当に悲しいときって、泣けないもんだよ」
「……そうなんですか?」
「私もお母さんが亡くなったとき、泣けなかったもん、悲しすぎて」
『悲しすぎると泣けない』。
……それは、私にとって文字通りの想定外、考えたこともない発想。
クズだから泣けなかったのではなく、悲しすぎたから涙が出なかっただけなのか。もし、そうだとしたならば、私は、あの時もちゃんと、おじいちゃんを好きだったのか。
もし、そうだったなら。
私は、私に絶望しなくても、私をクズだと罵り続けなくてもいいのか――
物事の解釈は人それぞれだ。知り合いの言ったことが正しいかどうかなんて分からない。
ただ、私が自分を憎んでいた理由に『勘違い』という可能性が生まれた。
『悲しすぎて泣けない』が、答えだったとすれば――それは、私とおじいちゃんの間に、愛情があったことの最高の証拠になるじゃないか。
今となっては、誰にも答えはわからない。どう後付しようが、自由だ。
だから、私は『悲しすぎて泣けなかった説』を信じることにしている。
きっと、本当は分かっているのだろう。
私は、今も昔もこれからも、おじいちゃんを大好きな、小さな孫のままなのだと。
***
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