居酒屋で、天使のふりした悪魔に遭った。
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記事:石村 英美子(ライティング・ゼミ)
「これがピザかぁ!」
演劇公演の打ち上げの席だった。手伝いに行った私も宴席に招かれていた。斜め前に座った一見やんちゃそうな青年が、満面の笑顔でこう言った。ピザ!? どういうこと? 隣の男の子が話を続ける。
「はい、タバスコ。これかけて食え」
「タバスコ。はい」
「いや、かけすぎって」
「あ、はい。……辛い! ピザ辛い!」
「違う違う、だからタバスコかけすぎって」
「あ、でも……美味しい。ピザ美味しい」
「そうやろ?」
「オレ、ピザ好きです」
「だからそう言ったやん」
「ピザ。覚えとこ」
なんだ? 何プレイだ。その20代前半とおぼしき青年は、目の前に運ばれてくる料理について、いちいち反応した。隣の男の子も「羽根つき鉄板餃子」「地鶏の炭火焼」といちいち解説している。ピザ青年らはとても楽しそうだが、私には意味が分からない。
「この子ね、記憶喪失なの」
幹事の女の子が教えてくれた。は? 記憶喪失? 私は誰ここは何処のアレ? だから本当にピザ知らなかったの? 思った事がつい声に出た。しまったと思ったが、彼はてらいもなく応えた。
「はい。でもオレ、元からピザ好きだって教えてもらったんで、今日食べてみたらやっぱり好きでした」
「だからそう言ったやんって」
「でも時々ウソ教えるじゃないですか」
「そうやったかなぁ」
「もう! あんたまた高橋にウソ言ったと!?」
幹事の女の子が、ウソつきくんを小突いた。ウソつきくんは、えへへと笑った。ピザ青年・高橋くんもみんな笑顔だ。なにこれ撮影? 違和感があるくらいの親和的空気。アウェーの私にはなんだかむず痒い。
聞けば、高橋くんはとても難しい病気を患い、成功率僅か数パーセントの大手術をしたそうだ。京都の病院の有名な先生が執刀し、10時間以上の難手術は成功、無事に生還したが、麻酔の後遺症で記憶を失ってしまったのだという。
まじか。ギャグでもネタでもないのか。ようやく飲み込めてきた私は、失礼かとは思いつつ、色々質問してしまう。そもそも、日本語は覚えてる。じゃあ、何を覚えてて、何を忘れてしまっているのか。
「いやぁ。全部です。自分が何で入院してるのかも知らなくて教えてもらったし、両親のことも分からなかったです。自分が何の仕事してるのかも、お芝居やってたのも知らなかったです」
親は忘れても、親という概念は分かるのか。仕事の概念もあるのか。ちなみに職場に行ってみたら、何も覚えてなかったが、やったら「出来た」そうだ。「頭じゃなくて体が覚えてたんでしょうね」と言う。ますます不思議だ。不躾な私の問いかけにひと通り真面目に答えると、高橋くんはZippoライターを取り出し、慣れた手つきでマルボロに火を点けた。
「煙草、吸うんだね」
「はい。退院して自分の部屋に行ってみたら、マルボロ3カートン、買い置きがあったんです。あぁオレ煙草吸うのかぁ、って思って。試しに吸ってみたら、吸えました」
「そりゃそうでしょうよ。そのままやめちゃえば良かったのに、煙草」
「うーん。でも、何でも前と同じにした方がいいかなって」
高橋くんは、何事も以前と同じようにしようと決めているそうだ。だから劇団主宰と名乗る人物から「そろそろ出てこい」と電話がかかって来た時も素直に稽古場に現れ「知らない人たち」に歓迎され現在に至る。
記憶喪失がどのように現れるかは人によるそうだが、どうやら高橋くんの場合、エピソード記憶は失われているものの、その他の常識は全く損なわれてないようだった。何ら問題なく受け答えをしている。それどころか、以前より人当たりが良くなったのだという。
言われてみれば、もし高橋くんがこんなににこやかでなければ結構コワモテかもしれない。推測だが、以前はやはりちょっとやんちゃだったのではないだろうか。長年剃り続けたであろう眉が、それを物語っている。
それにしても、周りの人々の高橋くん人気がすごい。まるで親戚の集まりの中の赤ん坊のようだ。そう、彼はみんなの赤ん坊なのだ。親戚たちは無垢な赤ん坊に、梅酒は甘いことや柚子胡椒は付けすぎると辛いことを教え、それを楽しんでいる。時々ウソも教えて、からかったりもする。
「高橋ぃ!!」
少し酒の回った様子の先輩が、高橋くんを呼ぶ。
「高橋ぃ!! 俺は、俺は嬉しい! おかえり高橋!」
皆が一斉に高橋くんを見た。彼は大きく息を吸ってこう言った。
「ありがとうございます。……でも泣きませんからね!」
なんだよー! とヤジが飛んだ。笑いながらのブーイングが起きた。
何事かと尋ねると、高橋くんが復帰してすぐ、「おかえり」「戻ってきてくれて良かった」と歓迎され、彼は感激して泣いてしまったのだそうだ。それがあまりにも愉快だったので、皆が何度も繰り返すのだという。しばらくの間、彼はすぐ泣いてしまったようだが、曰く「だいぶ慣れてきた」そうだ。
「わかってるんですよ。みんなオレを泣かそうとして何回も言うんでしょ? もう泣きませんからね!」
うそだぁ。そんなことあるのだろうか。記憶がないとはいえ、大の男が優しい言葉をかけられた位で泣いちゃうなんて。それも記憶にない、いわば他人からの言葉で。
でも彼は記憶喪失行以降、引くほど素直なのだという。
ならば、本当なのか試してみることにした。私は高橋くんに、わざと小さめな声でこう言った。
「まぁ、みんな面白がって言ってるみたいに聞こえるけど……本当にそう思ってるから、何度でも言いたいんだよ」
高橋くんはそれを聞いて一瞬堪えたようだったが、わっ! と顔を覆って泣いてしまった。満座、大爆笑だった。また泣いたー! と、みんな笑ったが、そのほとんどは涙目だった。私を含めて。
どうしよう。
私は常日頃から性悪説を採用している。
秋茄子を嫁に食わさないのは「体を冷やすから」ではなく「こんな美味いもん嫁に食わすか!」の方がしっくりくるし、子供が天使だなんていうのは、あいつらをぶん殴らないようにする為の呪文だくらいに思っている。人に褒められても何か裏があると思い、そういうスタンスで生きている。だって人間とは本来そういうものだ。
なのに。
斜め前に座っていた赤ん坊のような青年、高橋くんが目の前で見せた姿は、私の基本前提を覆してしまう。だってこれが本当なら、人の根本は「善」だという事になってしまうじゃないか。見るな! そんなまっすぐな目で私を見るな!! そして彼はだめ押しのようにこう言った。
「そうですよね。みんなが心配してくれてたのに、変な風に言っちゃってすいません。何か、ありがとうございます」
やめろー!!!
これ以上はやめて下さい。私の愚劣さを突き付けないで下さい。私は、本当に泣くのか試しただけなんだ。他の連中だってそうだぞ? ほとんどはからかってただけだぞ? お礼とか言うなよ!
宴会が終わり、歩いて帰る道すがら。
私はこう思う事にした。
あれは、私を落ち込ませるために魔界から遣わされた悪魔の化身だったのだと。私のようになった人間には、あのような純粋さは「毒」に等しい。悪魔のもくろみ通り、私は毒気に当てられ、足取りは重かった。
「私も元はあんなだったのだろうか。というより、人は元々、ああなんだろうか……」
そう思って空を見上げると、月が出ていた。少し滲んでいたが、綺麗な月だった。
月の光が、私を柔らかく洗ってくれているようだった。
***
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