劇団天狼院〜FUKUOKA〜の公演チケットで、1200キロ離れた実家に帰れるかもしれない
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:永井里枝(ライティング・ゼミ)
「あー、実家帰りたくなるー!」
その声で、私はコップを洗う手を止めた。
そうか、実家とは帰りたくなるところなのか。
自分の中の常識が世間とずれているということを改めて感じ、思わずため息が漏れた。私が実家を完全に捨てたのは、ちょうど3年前のこと。そこは決して帰りたいと思えるような場所ではなかった、少なくとも私にとっては。
その日は、いつも働いている福岡天狼院で、劇団の稽古が行なわれていた。今月後半に公演を控える「劇団天狼院〜FUKUOKA〜」の出演者が、台本の読み合わせをしているところだった。
「実家に帰りたくなる」と言ったのはスタッフの海鈴ちゃんで、そこにいるほとんどの人が同調していた。
けれど私はそれに共感することができなかった。
「帰りたいと思える実家があることが羨ましい」
そんな風に思わずにはいられなかった。
幼少期を、私は東京という大都会で過ごした。
都心から少し離れた住宅地ではあったが、少し電車に乗れば高層マンションが立ち並び、通っていた小学校には申しわけ程度の狭い校庭しかなかった。
祖母と両親、そして生まれたばかりの弟との生活は、それなりに楽しかったように思う。小学校に入るなり塾に通わされていたが、その他の習い事も好きなことは何でもさせてもらえたし、友達だって比較的多かった。しかし、そんな生活は突然終わりを迎えた。
「お母さん、栃木に帰るって言ったら、ダメ?」
小学2年の冬、母親が泣きながら聞いてきた。
「別に」
私に選択肢がないことは、わかっていた。だからできるだけ感情を込めずに言ったと思う。
こうして母は私の了承の上、離婚を決めて、私たち子供2人を連れて実家のある栃木に帰ることにしたのだ。
離婚の原因については私にはわからないし、父も仕事ばかりでほとんど話した記憶がない。だから母のその行動に異議を唱えることはしなかった。ただ、栃木に引っ越すということは、つまり転校するということ。
「転校することは、終業式まで他の子には言っちゃダメだよ」
母が言ったその言葉にだけは、どうしても納得できすにいた。
そうして、友達にきちんとしたサヨナラも告げず、逃げるように栃木へ移った。
なんでもあった東京に比べ、母の実家のある日光という街には何もなかった。
「住民の半分が修学旅行生」とネタにされるほど、歴史と観光に頼りきったところだった。
東京に住んでいた時と比べ、母は水を得た魚のように生き生きとしていた。おそらく、学生時代にはそこそこ人気があったのだろう。街の商店は母の世代の人たちが店を切り盛りしており、あちこちで声をかけられては話し込んでいた。
一方、私は当たり前のように学校でいじめられていた。
東京から転校してきた背の低い女の子が使う馴染みのない言葉は、本能のレベルで受け入れ難いものだったのだろう。それは私も至極当然のことだと思ったし、自分が逆の立場だったら同じように嫌がらせをするだろうな、とも思った。
だから誰にも相談することはなかった。この土地は肌に合わない。早くここから出なければ、という思いだけが強くなっていった。
一度だけ、東京の友達から手紙が来たことがあった。東京に住んでいた時に、一番仲良くしてくれていた男の子だった。「会いたい」とか、「好きだった」とか、そんな内容だったように思う。
私は返事も書かず、それをゴミ箱に捨てた。
思い出すのが辛かった。楽しかった東京での生活を、友達に囲まれていた日々を思い出すと、いじめられて小さくなっている今の自分が情けなくて仕方なかった。
だから捨てたのだ。
楽しかったことも全部ひっくるめて、東京という一つ目のふるさとをゴミ箱に捨てた。
中学に上がり、以前のようにいじめられることはなくなった。しかし、ただ広いだけの校庭が2つもあるマンモス校で「自分の居場所はここではない」という違和感は拭い去れずにいた。
どうやって家を出ようか。
ほとんどそればかり考えていた気がする。
家を出て一人暮らしをするには、家から通えない距離にある大学に進学すること。それが絶対条件だと思った。
遺伝的に考えて、私はそれほど頭のいい人間ではないとわかっていた。だから、とにかく勉強するしかなかった。テスト期間に入る随分前から睡眠時間を削って勉強し、その甲斐あってやがて学年トップが私の定位置になっていた。
母の様子が変わったのは、中学2年になった頃だったと思う。
「今回さ、全然勉強してなかったもんね」
定期テストで学年2番だった私に、母はそう言った。トップの子とわずか数点の差だったはずだ。トップでなかったことについて、私だって悔しいと思わなかったわけではない。でもそれ以上に、母は結果を認めなかった。
田舎の狭いコミュニティの中では、子供の成績はすぐに広まるものらしい。
街を歩けば声をかけられる母にしてみれば「永井さん、またトップだったんですってね」なんて言葉はこの上なく心地よかったに違いない。「東京に嫁いで、子供2人連れて出戻ってきた女」という劣等感は、おそらく彼女の中に存在していたはずだ。「学年トップ」という響きは、そんな母の劣等感を埋めるのに必要不可欠なものだったのだと思う。
それからは「なんでも1番にならなければ意味がない」と言われ続け、私はその期待に応えようと必死だった。
「承認欲求」
私たち親子がすれ違ってしまったのは、全てそれのせいだと思う。
母は子供の成績で、周りから賞賛されることに快感を感じていた。
一方私は、母から認められることで、自立への道が開けると信じていた。
近いようで遠いベクトルの先には、大きな隔たりがあった。私はそれから逃げるように、実家から遠く離れた福岡の大学へ進学することを決めた。
大学に入ってから1年以上、何かと理由をつけて実家に帰らなかった。もはや「帰る」という感覚の場所ではなかったし、何より母に会うのが嫌だった。
今となっては、あの時素直に「あんたが成績いいと私の鼻も高いから、また頑張ってね!」と言ってくれたら少しは楽だったんじゃないかと思う。でもその言い方を母は避けた。
「勉強しろなんて言ったことないのよー」と周囲に吹聴していた。大学を決めた時だって「その大学って有名なの?お母さん知らないけど」と、少々納得のいかないようだった。
もう母の自慢の道具になるのは嫌だったし、栃木にいた時に抑圧してきた自分の思いに向き合うのも嫌だった。
そうして、ごく稀にしか実家に帰らなくなった私は、やがて母を含めた親族から「変わり者」扱いされるようになった。
いや、実家を大切にしない「不届き者」という認識の方が正しいだろう。
早く実家に帰って結婚し、孫の顔を見せること。それが親孝行だと何度も何度も言われた。
大学を卒業し、働き始めた頃からだろうか。母は酒を飲んで電話をかけてくるようになった。そして昔の出来事を思い出しては私を罵倒するのだった。
「どうして親子なのにわかってくれないの? お母さんはいつだってあんたのために一生懸命だったのに」
いつもそればかりだった。
お母さん、私だって一生懸命だったよ。でも何も、認めてくれなかったじゃないか。
その言葉を飲み込み続けた。
親子だから分かり合えるなんて、誰が決めたのだろう。分かり合えないのに親子であるということは、私にとって苦痛以外の何物でもなかった。
最終的に「おばあちゃんが死んでも、あんたには連絡しないから!」そう言われた。
ある程度の距離を取っていれば、大きく衝突することなく、上手くやっていけると思っていた。
でも、その一言で全てが崩れた。
「もういいや、全部」
高校までの10年間を過ごした、栃木という2つ目のふるさとを、ゴミ箱に捨てた。
あれから3年。どういうわけか天狼院で働くことになり、偶然にもバイト中に劇団の稽古を目にした。
演目の「親にまったく反抗したことのない私が、22歳で反抗期になって学んだこと」は福岡天狼院店長の紗生ちゃんの記事を原作にしたものだ。
紗生ちゃんの記事<川代ノート>の大ファンである私だが、この記事はなかなか開けずにいた。実家を捨ててからの3年間、できるだけ親のことも親戚のことも思い出さないようにして生きてきたからだ。実際、そうすることで精神的に大きく崩れることなく生活できていたし「それなりに何でもあって、それでいてゴチャゴチャしていない」福岡という土地は、今まで住んだ東京や栃木と比べ物にならないほど私に合っていた。
それなのに、ずっと避けてきたのに、聞いてしまったのだ。
「いやー私は親との関係最悪だからさー」
脚本と演出を担当する中村雪絵先生の言葉だった。
ならばどうしてこの記事を原作に選んだのだろう?
どんな思いで脚本を書いたのだろう?
この公演を通して、何を伝えたいんだろう?
もう、避けてきた記事でも読まずにはいられなくなった。
稽古の声に何度か意識を奪われ、滞りながらも仕事を終え、半ば放心状態で家路に着いた私は、すぐに記事を開いて読み始めた。
そこには、もしかしたら私だったかもしれない紗生ちゃんがいた。
もしかしたら私の母だったかもしれない、紗生ちゃんのお母さんがいた。
たぶん、私はわかっている。
捨ててしまった実家に、いつか帰らなければならない日が来ることを。
だけどそれを先延ばしにして、逃げて逃げて、一人で生きているような気になっているだけなのだ。福岡の人々があまりに温かくて、それに甘えているだけなのに、全部自分で作り上げたような気になっている。
だから、この演劇は私にとって、チャンスなんだと思う。
自分の過去と向き合って、丸ごと捨ててきたふるさとを取り戻す、最後のチャンスなのだ。
きっと雪絵先生も「このままではいけない」とどこかで感じているのだ、だからこの記事を演目にしようとしたに違いない。
ちゃんと見たい。
1人の客として、この演劇を受け止めたい。
稽古の様子を目にするたびに、その思いは強くなっていった。
今日、チケットを予約して帰ろう。
もしかしたら来月にも、帰省のチケットを買うことになるかもしれないけれど。
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