「自信がない」人間は本当に自信をつけられるように努力するべきなのか?《川代ノート》
私は、自分に自信がありません。いつから自信がないのかはよく覚えていませんが、とにかく自信がないのです。「自信がない」と口にすると、たいていの場合、「なんで?」とか「そんな風に見えない」とか「もっと自信を持っていいんだよ」とか、言われます。でも、自信をつけようとしても、できないんです。何度もやろうとしました。意識を変えようともしました。なのに、いつも見つかるのは自分の欠点ばかり。何がいけないのかはわからないけれど、私は自分のことがあまり好きではないのだと思います。好きなところと、嫌いなところ、どっちの方が多い? と聞かれたら、圧倒的に嫌いなところの方が多いです。私は、いつもまるで日めくりカレンダーみたいに、毎日コンプレックスを数えているのです。本当に、毎日毎日。
どうしてこんなに私はだめなんだろう、とよく考えます。一体私の何がいけないんだろうと。どうしたら、自分のことを好きになれるんだろうと。だけど、いくら考えてもわかりません。そもそも、「自分に自信がない」とはどういうことなのでしょうか?
「自信」とは、「自」を「信」じるという字を書きます。けれど、そう考えると、なるほど、「自信がない」とはつまり、自分のことを信じられていないということなのかもしれません。そうか、私は自分のことを信用していないのか、とそれに気がついたとき少し、納得しました。思えば、私は今までに心から自分のことを信用できたことが一度もないような気がするのです。なんだか、「自分」は、「自分」でありながら、どこか遠い、ずっと奥の方に、見えなくなって、霞んで立っているような。そんなイメージ。
私にとって、自分とは、「私」ではないのです。私とは別の、操ることのできないだれかがずっと心の中にいて、それを覗き込もうとしても、たどり着けない。だから、私のことが信用できない。私が何をしでかすかわからないから、放っておけない。また変な気をおこさないでくれよ、と思う。でももう一人の「自分」は必ず変な気をおこすんです。かならず。だから私は本当にやめてほしいし、絶対にやめさせたいと思うのに、やめてくれない。そういう、困った存在。それが自分なのです。
よくよく、考えてみようと思います。いつから、私が自分のことを信用できなくなったのか。いつから、私が自信を持てなくなってしまったのか。
ちゃんと思い出そうとすると、記憶が蘇ってきます。大学生の頃、受験をしていた頃、高校生の頃、中学の思春期の頃、小学生の頃、幼くて何も考えていなかった頃、遠い記憶……。
あ、そうだ。たしか、私は、高校生の頃は、きちんと自信を持てていたような気がする。むしろ、自信満々だったと言ってもいい。
そうです。私は自信満々だったのです。あの頃。高校生の頃。自分には何でもできるんだと思っていたし、自分を救ってくれるのは自分しかいないと思い込んでいました。
高校生の頃の私にとって、「自分」とは、信頼のおける素晴らしい存在でした。そして、私がコントロールできる存在だと思っていました。私と「自分」は同じ人間で、私は「自分」のことをきちんと操作できる。私が向かせたい方向に向かせられる。私が困った時には、私は、私のことを信じることができていました。私は、過去の自分も全部受け止めていたし、未来の自分も、きっとなんとかうまいことやってくれるんだろうと、ちゃんと信頼することができていました。あの頃は。
高校生の頃の「自分」は、きちんとした信念を持っていて、矜持があって、そして、愛情深い人間でした。友達が困ったことがあればちゃんと助けてあげられる。支えてあげられる。テレビで災害のニュースが流れれば、心を傷めることができる。いじめの事件があった、いじめの事実を知っていたのにそれを担任の教師は無視していた、と聞けば、その教師に対して怒りの感情を抱くことができる。どこか知らない遠くの国の貧しい子供達のために、募金ができる。そういう人間だったんです。きちんとした。まっとうな価値観を持った、優しい人間だったはずなんです。
なのに、それが崩壊したのは、いつからのことだったでしょうか。よく覚えていません。でも、私が気がついた時には、「自分」は全く信用できない存在になっていました。
もしかしたら、それがわかったのは、就活生の頃だったかもしれない。そう、そうです。思い出しました。ある寒い夜に、家を飛び出して、走ったことがあったんです。ただただ、無我夢中で。家の近くを……ではなくて、遠くまで。駅の方まで。とりあえず、走りました。疲れるまで、足を止めたくなるまで、走りました。たぶん夜中の三時くらいだったと思います。息が白くなっていて、自分の手が震えている光景をぼんやりと見ていたことを覚えています。寒かった。とても寒かった。何しろ私は、ものすごい薄着をしていました。ぺらぺらのTシャツに、ゆるゆるのジャージに、高校のとき、文化祭で作ったパーカーを着ていました。背中にはクラス全員の名前が書いてあったような気がします。でもそんなダサい格好をしていることなんて全然気にしていませんでした。私は、泣いていました。涙を流しながら、とにかく、駅まで走り続けました。あまりに寒いので、涙が凍ってしまうんじゃないかと思いました。でも、凍りませんでした。走っているうちに、寒さなんて忘れてしまって、ただ、別のことを考えていたんです。
私は、今まで信じきっていた、「自分」のことを、考えていました。
あれ、自分って、なんだったんだろう。あれは、誰なんだろう。
私の心の中にいる、この、「自分」って。
「川代紗生」って、誰?
そう思ったんです。不安になりました。このよく信用もできない人間と、自分の心の中で共存していることにぞっとしました。赤の他人みたいに思えたんです。本当に。
何でそう思ったのでしょう。私は……私は、そう。そうだ。そうです。私は、あのとき、一番入りたかった会社に落ちたんです。ほとんど、あとが残っていなかった。いや、もっと正直に言えば、あとに残っているのは、本当に適当に練習がてら受けた小さな会社だけでした。私は広告代理店に行きたかった。それも、電通や博報堂のような大手の会社に行きたかった。コピーライターになりたかったんですよね。だから、そういう大きな会社で、大きなクライアントをかかえて、クリエイティブな仕事をしたかった。まあ、あの頃の私が、「クリエイティブ」という言葉の意味をきちんと理解していたかどうかは謎ですが。
それで……だから、私はとにかく、もう自分には何も残っていないんじゃないかと思った。信用できない、と思ったんです。自分のことが。こいつは誰? と本気で思いました。なんでこんなところにいるの? と思いました。二重人格者とか、そういうのじゃないんですが、単純に、「私」という意識が、「川代紗生」という人間のことを、理解できないと思ったんです。私って何なの? と思いました。私のことがよくわからなかった。本当によくわからなかったんです。それで、軽いパニック障害を起こして、私は家を飛び出したんだと思います。
意味もわからず、気がついたら深夜の街を走り続けていた私は、ついに駅にたどり着きました。私の家から駅までは歩くと40分くらいあるのですが、気がついたらそこにいました。はあ、はあ、と白い息を吐きながら、私は誰もいない駅前の街を歩きました。本当に誰もいませんでした。たまに遠くで走る車の音やバイクの音がブウーン、と聞こえてくるだけ。
なんでこんなことしてるんだろう、と思いました。意味がわからなかった。こんなことがしたいんじゃない。別に走るつもりもなかった。でもここまで走り出して、泣いてしまいました。
なんでこんなに泣いてるんだろう、と思いました。私はそんなに電通の面接に落ちたことがショックだったのだろうか? コピーライターになる道が閉ざされたことがそんなに嫌だったのか? 本当に自分のやりたい仕事をできないという現実に、絶望しているのだろうか?
いや、違うな、と思いました。
私は、それほど、何もかも振り切ってもいいと思えるほど、コピーライターという職業に憧れていたわけでも、電通という会社に惚れ込んでいたわけでもなかった。
ただ、自分は優秀であるという、証明が欲しかったのだと思います。それだけです。
ああ、私はきっと、「自分」が、思い描いていたような「自分」と違ったから、だから、泣いているんだな。私は、そう結論づけました。私は、本当に広告代理店には入りたかったわけではなかった。別に何でもよかったのだと思います。そのとき目の前にあるのが、メーカーだろうが、商社だろうが、なんでもよかった。そういう自分が、今まで思い描いていた自分と、大きく食い違っていて、それが、気持ち悪い、と思いました。今まで私が思い描いていた私は、もっとキラキラ輝いていて、純粋で、まっすぐで。そして、目標に向かって一直線に向かっていけるような、そういう人間。人に優しくて、思いやりがあって。頭が良くて、かしこくて……。
だって、そういう自分だと思っていたからこそ、信頼してたのに。信じてたのに。自信が、あったのに。
私は、そのときはじめて、私が認識していた以外の感情に気がついたんです。私は、自分を一番知っているのは私自身に他ならないと思っていました。でも、その時にブワッと一気に、涙と一緒に、どこに隠れていたのか、私の知らない感情が流れ出してきたのです。
がんばりたくない。やめたい。就活嫌だ。なんでこんなことしなきゃいけないの。なんで無理しなきゃいけないの。なんで? なんで? なんで? なんで、こんなに頑張らなきゃいけない? これ、私が必死にやらなくちゃだめなことかな? 私、別に、もう、ここまで苦しい思いして、就活なんて、しなくていいんじゃないのかな。ああ、もう、嫌だ。死ねばいい。みんなみんなみんなみんな、死ねばいい。人間みんな死ねばいいのに。私の味方じゃない人間以外、みんな死ねばいいのに。いなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれいなくなれ!!!!
私のことを愛してくれない人間なんか、みんな、いなくなれ!!!!
本気でそう思っている自分に、自分が一番驚きました。
私が知っている「自分」は、決してそんなことを考えるような子じゃなかった。全然、違いました。私は、もっと優しくて、みんなに思いやりをもって接することのできる人間でした。なのに、今ここにいる、リアルな私は、「死ね」と思っていました。悪い感情を持っていました。他人に対して。苦しい自分の思いを吐き出したくて、それを他人にぶつけました。周りにいる人間みんなが憎いと思いました。消えろ、と思いました。
もう、なんなの、と思いました。
なんなの、この感情。何で今更、こんな感情が出てくるの?
ふらふらして、真っ暗になりました。吐きそうになりました。
信じられない。信じられない。
自分のことが、信じられない。
っていうか、わからない。
自分って、何? だれ?
私が今まで知っていたはずの「自分」は、私の真隣に、本当にすぐ隣にいて、私にいつでも微笑んでくれるような存在でした。
でも、それが、その瞬間から。
気が付いたらもう、ずっと遠く。
知らないうちに、かすんで、ぼんやり、見えなくなる。
遠くに、行ってしまったんです。
今となっては、まるで、一番の敵みたいに思えるんです。あの子のことが。
あれから、そういう意識を、ずっと持っています。
私は、私のことを信用できない。「自分」は、ますます遠くに行って、見えなくなってしまいました。霞んで見えない。どんな表情をしているのかも、どんなことを考えているのかも、全くわからない。
何もわからない。あの子が、何を考えているのか、私には、計り知れません。だから、今も私は、自分のことを、信用できないのだと思います。自分がコントロールできない存在。動かそうとしても、動かすことのできない存在。それが自分。
だから、私は、自信がありません。自分のことを信じることができません。自分を常に、疑っています。
自分を疑って、他人を疑っているんです。常に。
私のことを信じることができないから、常に、「これを思っている自分は、本当だろうか?」「私は本当にこの人に対して、優しくしたいと思って優しくしてるのか?」「私がとっているこの行動は、本物?」などと、いろいろ頭の中でぐるぐるぐるぐる、考えているのです。
だから、すごく自信がある人や、「自分はこういう人間だから」と断言できる人をみると、本当に不思議に思えてくるのです。疑いたくなるのです。
それ、本当に、思ってんの? なんであなたに承認欲求がないって確信できるの? 自分のこと、優しいって思ってるみたいだけど、それ、優しい自分に酔ってるだけじゃない? 本当に愛情から生まれてくる行動なの? とか。そういうきついことを言いたくなってくる。
もしかしたら、私は頭がおかしいのかもしれない、とよく思います。こんなことを考えているのは自分だけじゃないかと。優しい人を見ると疑いたくなるなんてどうかしてる。優しくされたなら素直にその優しさを受け取っておけばいい。なのに、そうすることができない。馬鹿みたいに、いつもいつも、自分や他人を疑っているのです。
でも私、だんだん、こう思うようになってきたんです。
自分を信じるって、そんなにいいことなのかな。素晴らしいことなのかな。自信がある人間の方が、幸せ、なのかな。
最近、よく考えるんです。そのことを。自信があるように見える人を見つけるたびに、考える。
どうして、あの人はあんなに自分のことを信用できるんだろう? 信じすぎじゃない? もしかしたら、自分は、悪いことをしでかすかもしれないって、思わないのかな。
そんな風に、疑問に思ってしまう。どうしてでしょう。たぶん、自分が自分のことを疑いすぎているからだと思います。でも、本当に不思議なんです。なんでそこまで信じられるんですか。なんで自信を持てるんですか。私にはわからない。本当にわからない。理解できない。
でも「自信があったほうがいい」って、私も思っていた。私も、自信がある人間になりたいと、思っていた。だってそのほうが、いいように思えたから。
だけど、別に、「自信がなければならない」とか、「自信があるほうが幸せだ」とか、誰が決めたルールでもありません。なんとなくそういう風潮が流れているような気がするから、そっちのほうがいいように見えるだけであって、別に、私が自信を持って生きなければならない理由は、何一つ、ない。
そうです。ないんです。ルールはないんです。「人の生き方」に、ルールなんてものは存在しないです。「性格」にルールはないんです。こっちのほうがいいとか、こっちのほうが幸せとか、そういうことはわからないんです。やってみないとわからない。試してみないとわからない。
「これはこう」と、決めつけるのが、嫌なんです。私は。
「自分はこういう人間」とか、「あいつはこういう人間」とか。そういうことを、よく考えもしないで言葉でくくってしまうのが、嫌なんです。嫌いなんです。だから私はいつも自分のことを疑っているんです。だって、私は「自分」のこと、わからないから。よく理解できないから。あの子は、ずっとずーっと遠くにいるから。霞んで見えないくらい、よくわからないくらい、あの子は私の遠くにいる。だからもっと知りたいと思う。もっともっと深く探って、近づいて、あの子のことを見てみたいと思うんです。
「私」は理性で、「あの子」は、感情なんです。たぶん。
私が昔思い描いていた、優しくて、素晴らしくて、思いやりのある自分は、私の理性が作り上げた「自分」だったんです。感情ではなく、理性で、「自分」のことを創造していた。「こういう人間が素晴らしい人間で、私の理想だな」というのを忠実に思い描いて、その通りに動こうとした。だからボランティアしたり、ひどいニュースを見て心を痛めようとした。最低です。本気で誰かの役に立ちたいという熱い思いを持っている人と同じ心優しい人間になりたかった。「自分はボランティアに参加するような優しい人間です」という証明がほしかった。
でももしかしたら、理性で痛めようとしていただけで、本当に痛めていたわけじゃなかったのかもしれない。
私は、「ボランティアするほうがいい人間」とか、「顔も知らない赤の他人のために心を痛められる自分であるべき」とか、そういうことを思い描いて、その理想に合わせて行動していただけなんです。本当に心からそうしたいと思ってそうしていたのかと聞かれると、わかりません。ただ、「痛めていなかった」可能性も、十分に、あると思うんです。
私が言いたいのは、そういう「理想の自分」を「理性」で作り上げて、感情が伴っていないにも関わらず、それが「自分」だと思い込むことがすごく危険だ、ということなんです。自分に自信を持つのはいいと思う。自分を信じられるのも、いいと思う。私にだって、本当に人を思いやれるときもあります。本当に心を傷めることだってあります。でも「いつも」そうかといえば、わからない。常に、私が思い描く自分であるとは限らない。だから、「自分を疑う心」を持たなければ、本当に誰かを思いやったり、本当に自分がやりたいことを見つけたりすることはできないと、そう思うんです。
私は高校生の頃、ニュースで流れた、いじめの事実があると知っていたのに無視したという担任教師のことを「ひどいやつだ」と思いました。なんてことをするんだと。私だったら絶対にそんなことしないのに。私なら絶対に助けてあげられるのに、と。手を差し伸べるのが教師の務めでしょ、と。
でも本当にそうでしょうか。本当に私は、私が教師だったとして、自分のクラスでいじめがあったとして、私はそれを助けられるのでしょうか。親にとやかく言われることを恐れずにいじめっ子のことを叱れるのでしょうか。いじめ問題が発覚して自分の教師人生が終わるかもしれないと思ったとしても、自分が路頭に迷うことになるかもしれなくても、本当に、それでもいいから、その子を助けたいと、本当に思えるのでしょうか。
わかりません。少なくとも、私は正直に言って、自信がありません。もしかしたら、見て見ぬ振りをしてしまうかもしれない。「気がつきませんでした」と言えば済むだろう、と思ってしまうかもしれない。
私が言いたいのは、そういうことです。正義になる可能性がある人間なら誰にでも、悪になる可能性があるのだということです。いくら自分には正義の心がある、信じる心がある、と思っていても。自分の「感情」は、それに従ってくれないかもしれない。コントロールできないかもしれない。自分の「理性」と、「感情」は、別物なんです。本当にコントロールできるのかどうかなんて、わからないんです。もしかしたら、「正義の心を持つ自分」に強い自信を抱いている人こそが、それが裏返った時にとんでもない悪になるんじゃないかと、そう思うんです。人は、どうなるか、わからない。
そうです。わからないんです。何も。わからないことだらけなんです。人間は。この世の中は。だから、だからこそ、私は……私は。
私は、自分に自信がないと、言いたい。大きな声で。自分のことを信用できないの、と。自分をいつも疑っているの、と。
だって、どんなに嫌いなところだらけで、コンプレックスばかりでも。それでも、自分を疑っている自分のことなら、少し……少しだけ、信用できるような気がするから。
ずいぶん、長くなりました。でも、私は、こう思っているんです。私は自分のことを信じてない。信頼できてない。
でも、それでいいんだと、思いたい。自信がない人間にだって、いいところはあると思いたい。自分を疑って疑って、疑いまくっている人間にでも、ちょっとはいいところがあるんだと、そういうことを、話したくて。
こんなことを公に話すのはおかしいでしょうか。おかしいかもしれない。「自分は悪になるかもしれない人間です」と言い切るなんて、変ですか? 変かもしれませんね。
いや……でも、変かもしれないのは、きっとあなたも、一緒です。
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この記事は、「ライティング・ゼミ」で文章を学んだスタッフが書いたものです。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、店主三浦のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。
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