死にかけた経験と救われた人生
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:松浦哲夫(ライティング・ゼミ4月コース)
「死にかけた」経験は、どんな状況であるにせよあまりに強烈な記憶だ。そのような経験を持つ人が世の中にどのくらいいるのかはわからないが、場合によっては、経験者の人生に大きな影響を及ぼすこともあるだろう。
ほとんどの場合、それは自らの意志によるものではない。予期しない怪我や病気、突然の事故に遭遇することによって「死にかけた」経験は存在するものであり、だからこそ、経験者の記憶やその後の人生に大きな影響をもたらすものとなり得る。
約10年前、私は一度死にかけた。ものの例えではない。本当に死の淵にいたのだ。今でこそ何事もなく充実した日々を送ることができているが、あの時に私が体験した衝撃は今でも深く脳裏に焼き付いているし、あの経験が私のその後の人生における大きな分岐点となったと思っている。今回はそのことについて話そうと思う。
かつて私はかなり本格的に登山をしていたことがあった。山道を歩いて山頂を目指す一般的な登山だけでなく、岩壁にはりついて山を登るロッククライミング、渓流を登って山頂を目指す沢登りも行なっていた。週に1回は山に登って脚力を鍛え、大型連休には仲間とともに長野県の穂高連峰や八ヶ岳へと向かった。リュックには食料やテントだけでなく、ロープやハーネス、カラビナのようなロッククライミング専用道具も詰め込んだ。数日間かけて登山を楽しむわけだ。
ある年の7月の3連休、初夏を感じさせる陽気の中、私を含めた登山仲間8名は奈良県の吉野山に来ていた。連休を山で過ごすためだ。吉野山には県内屈指の清流が流れており、かねてよりその清流の沢登りの計画をしていた。それは、連休の初日の夜に吉野山のふもとでテント泊、次の日の早朝から沢登り始めるというものだった。
その日も計画通りに沢登りを始めた。8人が一列に連なり、順調に沢を登っていく。7月の陽気の中清流のきれいな水しぶきを浴びながら、時には首まで水に浸かりながらの登山は最高に気持ちよかった。強い日差しと登山で火照った体が適度に冷やされ、夏登山の面白さや心地よさを存分に味わうことができた。沢登りは数ある登山スタイルの中でも危険度が高いとされている。それだけに全員が高い集中力を保ったまま山頂を目指すが、最高のロケーションの中での登山は緊張を適度に解きほぐしてくれる。全員が心から沢登りを楽しんでいた。
今回の沢登りでは、山頂に至るまでの途中でいくつかの滝を超える計画だ。しかし、流れ落ちる滝に逆らって登ることなどできないため、滝のすぐ横の岩壁をよじ登ることになる。言うまでもなく危険が伴う。
ここまで私たちはすでに3箇所の滝を超えていた。そして時間も14時をまわる頃、最後の滝にさしかかろうとしていた。ここを乗り越えれば山頂は目と鼻の先だ。
私たちは全員ロッククライミングの経験者だ。中には熟練者もいたし、全員が適度に緊張感を保っていた。万全の体制だ。私はあまり緊張することもなくこの日最後のロッククライミングに挑んだ。高さは20mほど、デコボコの多い岩壁でとても登りやすい。登り始めてから10分足らずで私は難なく岩壁の上へとたどり着いた。最後の難所を乗り越えた瞬間だった。先ほどまで保っていた緊張感が一気にほぐれた。そして安全確保のためのカラビナを外した時、まるで私が緊張感を解いた瞬間を見透かしたかのように、私の足元の土砂が急に崩れた。土砂崩れというほど大規模なものではなかったが、私1人を奈落の底に叩き落とすには十分だった。私はなすすべなく20m下へと落ち、全身を岩肌に叩きつけられた。ものすごい衝撃だった。10年が経った今思い出しても冷や汗が出る。幸いにも気を失うことはなく、私はどうにか立ち上がった。ズキズキと痛む額に手を当てると、血がベッタリとついている。どうやら額が大きく割れたらしい。岩壁の上から仲間の声が聞こえてくる。
「おーい大丈夫か、生きてるかぁ」
私はその声に応えるために振り向こうとした。その時、私の首にナイフで刺されたかのような激痛がはしった。寝違えた時と似ているが、それとは比較にならないほどの激痛だ。同時に自分の首が全く回らないことに気がついた。
この日一緒に登った8名の仲間の職業は様々で、その中の1人に整形外科医の男性がいた。医者の男性の指揮のもとで仲間による応急処置が施され、私は彼に自分の首の状態を伝えた。すると彼の顔に緊張が走り、その場にいた仲間全員に叫んだ。
「絶対に首を動かすな!少しでも動かしたら死ぬぞ!」
彼の口調はあまりにも真剣だった。その時点で私の首に何が起こったのかわかりようもないが、自身の経験から私の命が首の皮一枚繋がっている状態なのだと直感したのだろう。
応急処置後、仲間がスマホを取り出し、警察に救助を要請しようとした。ところが私たちがいた場所は山頂にほど近い山奥で、全員の電波が圏外だった。電波の届く場所まで下山するしかなかった。そうして私は仲間に助けられながら約3時間かけて下山し、そこに待機していた救急車で病院へと運ばれた。病院に到着後すぐにレントゲン検査が行われ、その結果、私の首の骨が折れていたことがわかった。私はそのまま3ヶ月間の入院生活を送ることになった。
後でわかったことだが、一緒に登った医者の男性の対処は正しかった。あの時、私の首は折れたが、脳と体をつなぐ神経はかろうじて傷つくことなく繋がっていたのだ。もしあの時、対処を間違えて首を動かし、むき出しの神経を少しでも傷つけていたら私の命はなかっただろう。ほんの少しのミスが命取り、そんな生と死の境界線の中で私はギリギリ生かされ、今もこうして五体満足で記事を書いている。
「死にかけた」経験はあまりにも強烈な記憶ではあるが、人の心の持ちようでそれは絶望にも希望にもなる。3ヶ月間の入院生活を経て私は会社に復帰したが、その時すでに会社での立場はなくなっていた。そうして私は退職した。あの時の経験は私の人生に大きな影響を及ぼすことになったが、絶望することはなかった。あの時私の心にあったもの、それは私を助けてくれた登山仲間への感謝の気持ちだった。救われた人生に絶望することなどあり得ないのだ。私の場合、あの時の経験は人生における分岐点となった。
退職後、私は様々な経験を積み重ねた。楽しくも辛くもあった日々だったが、今では充実した日々を送ることができている。今の生活は「死にかけた」経験があってこそ、と思っている。不謹慎を承知で言うが、今ではあの時の経験に感謝すらしている。人生において無駄な経験など何一つとしてないのだ。
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