昭和の終わりにアメリカに挑んだ少年から学んだこと《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【12月開講申込みページ/東京・福岡・全国通信】人生を変える!「天狼院ライティング・ゼミ」《日曜コース》〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
→【東京・福岡・全国通信対応】《日曜コース》
記事:ナカムラコウ(プロフェッショナル・ゼミ)
少年は走っていた。
自分の背よりも1mほど高いみかんの木の合間を。
濃い緑色に染まった葉は、体の中に、これからどこまでも伸びてやるぞ、という無限のエネルギーを秘めて5月の日差しを跳ね返している。
走り抜けた先に、少年のお気に入りの場所があった。
少年は、負けん気が強い奴だった。
今日は学校で「将来の夢を発表する」という授業があったが、少年が自信満々で「日本で一番の男になる」と発表すると、教師に「もうすこし具体的に書きなさい」と注意された。教師にダメ出しされたことに勢いづいた級友からは「てきとうじゃんか」、「勉強も体育も俺のほうがすごいぜ」、「おまえんちみかん農家だろ? むりだよ、絶対」と次々ヤジが飛んでくる。気が付いたら、少年は教室の中で立ち上がり、「みかん農家」と言ってきた奴につかみかかっていた。
少年は負けん気が強いし、気が短い。
少年は特別勉強ができる訳でもなかったし、体育でヒーローになったこともなかった。それでも少年は「俺はこんなもんじゃないぞ」と根拠もなく思い続けていた。だから、いつも大口をたたいては、喧嘩になる。
けれど、喧嘩は負けてばかりだ。
成長期の小学生の喧嘩は、体格の差が露骨にでる。少年はなかなか背が伸びなかった。
少年は自分のきもちがあふれ出しそうになると、いつもそこに向かう。
あと少し……。
目の前が急に開ける。
そこは瀬戸内海が一望できた。
自分が駆け抜けてきたみかん畑が広がる先には、やさしげな雰囲気をたたえた海が、小さな波をきらめかせている。
穏やかな内海で造船業が盛んな海には、大小たくさんの船が行きかっていた。
少年は思う。
この海で生まれた船は、ずっと遠く、俺が見たことも聞いたこともないような国に行くんだ……。俺だって行けるはずだ。俺は日本一になる男だ。いや、もっと遠く、世界をまたにかけて戦ってやる。親父は農家を継げってうるさいけど、そんなんじゃいつまで経ってもばかにされっぱなしだ。俺は、そんなのは嫌だ。俺は高校を卒業したら、東京に行くぞ。こんな小さな村は飛び出してやるんだ。そして、いつか、そうだ、アメリカに行こう。アメリカって国はどんな奴にもチャンスがあるって聞いたぞ。俺はいつか、アメリカに行く。そして、大成功して、いつかばかにしてくる奴らを見返してやるんだ。
少年は大人になったら、自分の力でどこまででも行けるんだ、という無限の可能性に胸を膨らませる。
少年は、瀬戸内海に抱かれた村でいくつかの季節を過ごし、18才を迎えた。
高校を卒業した春、家を継げと言う父親と大喧嘩し、彼は家を飛び出した。彼は何も持っていなかった。家を抜け出す朝、祖母が隠れるように渡してきたわずかなお金だけが頼りだった。
彼の夢は小学生の頃から止まったままだ。すごい男になる、とは思うが、どうなったらいいのか皆目わからない。日本一と言えば総理大臣か。けど、政治家といっても政治なんて難しいことは、俺には分からん。社長になるっていったって、なんの会社を作ったらいいんだ。
だから、彼はとにかく東京を目指した。東京に行けば、なにか見つかるかもしれない。
その頃の東京は、敗戦後の連合国軍の支配から抜け出し、再び世界と戦える日本を取り戻そうという活気に満ち溢れていた。そこかしこが人手不足で働く場所には困らない。東京で小さなアパートを借りて、アルバイトを転々としながら食いつなぐうちに、人づてに理髪店を紹介された。青年となった彼は様々な職業を経て、少年時代の誰にでもぶつかっていった向こう見ずな負けん気の強さは影を潜め、野心を胸に秘めつつも人当たりの良い青年となっていた。そして、彼は、理髪店で働くうちに、自分では気が付かなかった自分に気付くこととなる。
「俺はどうやら、手先が器用らしい」ということと「なぜか女性にもてる」ということだ。
器用らしいと気が付いてからは、その頃普及し始めた美容師の資格を取った。その理髪店も美容院としてリニューアルされ、女性のお客さんも増えた。自分がかっこいいなんて思ったこともなかったが、お客さんから「あなたはハンサムね」と言われることがよくあった。彼は女性を笑わせることが得意だった。仲良くなると彼女たちは予約するときに必ず自分を指名し、思わせぶりな視線を送ってくる。田舎にいた頃、チビだ、チビだと言われ続け、もてたことなど一度もなかった彼は、東京で女性に好かれることを知ったのだ。
ある日、彼はいつものように最後の片づけを終え、店を出た。
店の入り口に、女性が一人立っている。
「こんな時間に。一体どうしたのですか」
「今から、髪を切ってもらうことはできないかしら」
「もう閉めてしまったので……。すみません。」
「あなた、食事はまだ?」
「ええ、まだですが」
「私、一人暮らしなの。あなたも、ひとりでしょう? どうせ夕食を食べなければならないのなら、ひとりより二人のほうがいいと思わない?」
「それもそうですね。近くにある、ぼくがよく行く店でよければ」
彼女は思ったらすぐに行動に移す女だった。
欲しいものは、すぐ、手に入れたい、と思う。
だから、手に入れたいと思った夜、彼を待っていたのだ。
彼女は目立つ女でもあった。派手だが、百貨店の婦人服売り場で働くという彼女は、下品ではない。自分がどう男から魅力的に見られるか分かってはいたが、同性から疎まれるようないやらしさはなかった。
彼は女性からの思わせぶりな視線にはなれていたが、ここまで真っ直ぐに誘われたことは初めてだった。彼は、何度か髪を切ったことがあるだけのその女をおもしろい人だ、と思ったし、同時に、その真っ直ぐな駆け引きのない行動を好ましいと思った。
手に入れたいと行動に移した女と、それを好ましいと思った男の恋なんてあっという間だ。二人はなんどか食事に行き、いつしか互いの家を行き来するようになり、恋人となった。
彼も後から分かったことだが、彼女も田舎に嫌気がさして高校を卒業してすぐ、家出同然で東京に出てきたらしい。
ふたりは似ていた。恐ろしいほどに。若さ、境遇、持て余した情熱、夢、無鉄砲さ、このときばかりは全てが二人の恋を後押ししていた。
若い二人は燃えるように愛し合った。東京で、二人は孤独だった。
それまでの孤独を埋めるように恋をして、自分たちこそが運命の赤い糸で結ばれていたのだ、そう信じて疑わなかった。そして彼らは結婚し、子どもを二人授かった。
愛する者を手に入れた彼は無敵だった。
「俺はこいつらをしあわせにするぞ」
そう心に誓い、日々仕事に邁進した。影を潜めていた野心溢れる彼が顔を出し始めてきたのもこの頃だ。「そろそろ金も貯まってきたし、まずは手始めに美容室を開こう」。彼女も美容師の資格も取り、二人で美容院を切り盛りした。野心家の彼は美容室の傍ら、輸入インテリア、子供服、様々な業種で会社を立ち上げていく。彼には商才があった。人に好かれる才能も。彼の家はとても裕福になったが、夫婦二人で会社を切り盛りしているのである、それはそれは二人とも忙しい。家は荒れ放題、彼女は全く自炊などしなかった。家族団らんと言えば、近くの百貨店や行きつけの店に車で乗り付け、豪華な食事をとる。子どもが寂しいと言えば、最新のブランドの服を買い与えた。彼らの子供は、近所でも有名な「お嬢様」だったが、幼い子供たちにブランドの価値なんてわからない。幼い姉妹はいつも寂しかった。豪華なお子様ランチも、きれいなお洋服もいらないから、毎日家族でお母さんが作った夕飯が食べたい。別に上手に作ってなんか言わないし、お手伝いだってする。仕事が遅い両親を待つ間、自分で家の玄関を開け、待つしかなかった。近所には仲良しの学校の友だちがたくさんいたけれど、みんな暗くなる前には「お母さんが夕飯っていってるから帰るねえ」と弾けるような笑顔を残して手を振りながら公園を去ってゆく。姉妹はそれが嫌いでならなかった。なんでわたしたちはお友達のおうちとは違うんだろう。幼い二人には、母が帰ってくるまでの時間は長すぎた。
父となった彼は、家族のために、と始めた会社経営のために、家族のための時間をつくれないほどに忙しくなっていった。仕事、仕事で家に帰れないことも普通だった。
その頃の彼がなにを思っていたのか私は良く知らない。
ただ、彼がある事業で失敗し、会社が傾きだしてから、彼は孤独で辛かったのだとは思う。
経営者は孤独だ。会社という大きな船を乗りこなさなければならない。従業員が、家族がいたのなら、その重圧はどれほどのものだっただろうか。ちょっと波を読み間違えただけで、あっという間に転覆してしまう。
しかし、彼は波を読み切ることができなかった。彼は借金を重ねた。彼は借金取りから追われながら、家庭にも居場所がなくなった。元来、責任感が強い人間だった彼は、「家族を守れる強い父」である自分を失った途端、家族にどう向き合ったらよいのか分からなくなってしまったのだと思う。
彼にはみっともない自分のまま家族に向き合う強さがなかった。彼は、ちがう女性を好きになった。弱くてみっともない自分のままで受け入れてくれる女性を。
ドンドンドン。
扉をたたく音がする。
ドンドンドンドン!!!
扉の音は激しさを増す。
彼女は子供たちを自分の背後に隠して、部屋の一番奥で息を潜めている。
借金取りだ。
頼りになる彼は今日も帰ってこない。
子どもたちは恐ろしくて泣きそうになりながらも、ぐっとこらえている。
子どもたちも知っているのだ。
中に人がいるとわかったら最後、彼らは近所の目なんて顧みずに、玄関の前で怒鳴り散らしもっとひどいことになるということを。
限界だった。
彼女は母として、小さな子供たちを守るために、ひとりで生きようと決心した。
「おかあさんはね、上野に来ると未だに思い出すの。最後にお父さんとお別れした時。お父さんもお母さんも今日が最後だなんて一言も言わなかった。でも、幼い私にも、きっとここでバイバイしたら一生お父さんに会えなくなるってことは、なんとなく分かった。でも、どうしたらいいか分からなかった。じゃあまたね、元気でなって立ち去るお父さんを何もわからないままかなしいきもちで泣きながら見送るしかなかった」
祖父が亡くなり、母がかつて家族4人で暮らしていた街を35年ぶりに訪ねてみようと誘われ、上野駅で待ち合わせた日、母は高架下にある当時からそのままの、幼かった母が祖父と最後にお別れしたレストランを見て、懐かしそうに目を細めながら言った。彼女はもう泣かない。彼女は愛情をさんさんと注ぎながら子どもを育て上げ、きちんと自分の家族を作った。幼かった彼女は、最後に別れたときの父と母よりずっと年をとった。
母が言うには、離婚後数年ぶりに実家に戻った祖母は、姉妹二人を育てるために猛然と働いた。祖母は数年後に再婚したが、幼い姉妹は長い間、相変わらず帰りが遅い祖母のせいで寂しいままの生活をしていた。
どちらに似たのだろう、私は祖父だと思うが、人懐っこく成長した姉、つまり私の母は、寂しい生活の中にも明るさを失わずすくすくと成長し、高校を卒業して入社した会社で私の父に出会った。ふたりは結婚し、そして私と妹が生まれた。
取り立ててすごく裕福、という訳でもなかったが、とても仲の良い家族だった。母は幼かった自分と同じような寂しさを味合わせないために、わたしたちが幼い頃は必ず家にいた。妹が小学生になった頃、再び働き出したが、夕食は絶対家族そろって食べられるように、毎日毎日手料理を用意してくれた。家族が大好きな父も休日は毎週のように遊びに連れ出してくれ、わたしたちは何不自由なく育った。
私が中学生になった頃である。ある日、母から言われたのだ。
「コウ、アメリカに旅行いこ」
「えっ! アメリカ!? 今まで家族旅行は国内だったじゃん」
「うん、実はね、今までずっと言っていなかったけど、おかあさんの本当のお父さんはアメリカにいるの」
「本当の……? じゃあ、今までおかあさんの実家にいたおじいちゃんは?」
「おばあちゃんが再婚した人よ」
私は急すぎてなにがなんだか分からなかった。
母の言った言葉だけが頭に残り、心は追いつかないままあれよあれよとアメリカに行く日になった。
正直、なにも実感のない私は「アメリカに行く」ということがうれしくて仕方なかった。
母の祖母、つまりアメリカの祖父のお母さんがその年の初めに亡くなり、葬式で25年ぶりに母と祖父は再会したのだという。25年ぶりの再会に感動した親子は、祖父の招待でアメリカ旅行に行くことが決まった。
冬のある日、私たち家族はサンフランシスコにほど近い空港に降り立った。
入国ゲートをでるとたくさんの人がプラカードなんかを携えて立っている。
私はある男性に目が吸い寄せられた。
にこにこと目を細めて、こちらに手を振る男性。
ああ、あれがおじいちゃんだ……。
私は一度もあったことがなかったのに、その人が祖父だとわかった。
だって、彼は今まであった母のどの家族や親戚よりも母に似ていたのだ。
人好きのする目元に寄った笑い皺。すこし角ばった顔。柴犬のような人懐っこい雰囲気。何をとっても母そのものだった。
「やあ、よく来たね」
「はじめまして。おじいちゃん……?」
「まあ、そうなんだろうけど、その呼び方慣れないな。なんだか老けちゃったような気がするし。あ、そうだ、トシって呼んでくれよ」
日本にいるじいちゃんやばあちゃんとは全然違った。彼は精力的で若さがはじけていた。彼は失意の中、昭和の終わりに渡米し、たくさんの失敗を乗り越え、年間数億を稼ぎ出す、会社の社長になっていた。彼が幼い日に瀬戸内海を眺めながら胸に誓ったことは、いくつもの人生と関わりながら、現実となったのだ。
わたしたちはトシとトシの息子たちと2週間くらいにわたってアメリカ中を旅した。ラスベガスのカジノで現実とは思えないきらめきに心を奪われ、サンフランシスコの路面電車に乗ってはしゃぎまわった。その間、トシはいろんなことを話してくれた。僕が渡米したころ、サンフランシスコは有色人種への差別もあって、みすぼらしい格好をした僕はバーからつまみ出された時もあったよ。仕事がなかなかうまくいかなくて、ちょっと息抜きをしたかっただけなのに、酒の一杯も飲めないのかって、さすがに悔しくて僕は泣いたね。僕はこっちにきてからも君のおかあさんたちのことが忘れられずにずっと財布に写真を入れて持ち歩いていた、だから今日はとても幸せなんだ、と。
アメリカにいる間、わたしたちはみんな幸せだったと思う。
けれど、私は二度と彼に会うことはなかった。
トシがビジネスのために日本に来るというたびに、母と食事の予定を立てていたが、彼はビジネスの予定が変更されると平気で母の予定をキャンセルした。
「なにも変わっていないじゃない」と憤る母は、彼と連絡をとることをやめた。
そして、今年のはじめ、彼は亡くなってしまった。
私は彼の本名をちゃんと知らない。本当の名前は4文字だったと思うが、下の名前がトシユキだったのかトシアキだったのか、そんな簡単なことを聞く前に彼は死んでしまった。
私は最近、母と喧嘩ばかりをしている。
きっかけは私が「会社をやめたい」と言ったからだ。
私の会社は世間的には「安定した会社」に入る部類だと思う。当然母は会社を辞めてほしくない。福利厚生の充実した会社で、そこで平和で穏やかな人生を送ってほしいのだろう。
それは、わたしもようく分かっている。父や母が私たちを育てる過程で愛情を持ってしてくれたことが、ちゃんと残っているから。
それでも私は会社をやめたい。やめて、いつか自分の会社を作りたいと思っている。私には毎日「変だなあ」と思うことがある。例えば、単身赴任だ。なんで一緒にいたほうがいいはずの家族がわざわざ離れて暮らさなければいけないんだろう? 経験のため? 経験なんてその人の生き方次第でいくらだって変わる。ここまでインターネットが普及した社会だったら、家族がそろって生活する、それはぜんぜん難しいことじゃないんじゃないか。じゃあなんで変わらないのか。それは、変えるのが大変で、みんな変えるアイディアをなかなか実現できないから、「我慢」に置き換えてやりすごしているのではないかと思う。私はみんながこれまで「我慢」でしかやりすごせなかったことを少しのアイディアで変えていきたい。「我慢」を全部なくせなくても、半分くらいにはできるんじゃないかと思っている。
私はアメリカの祖父の話を聞くたびに自分に似ているような気がしてならない。もしかすると母もどこかでそう思っているときもあったのかもしれない。
わたしたちは似てるかもしれない。けれど、同じ人間ではない。
私のやりたい会社はちゃんと両親に教えてもらった家族の温かさとか大切さ、そういうものが根底にある。
祖父にも祖母にもできなかった、家族も仕事も大切にするということを実現してみせたい。
近頃は顔を合わせるたびに母と言い争いになることばかりで辟易してる。だから、自然と実家からは足が遠のき、両親ともめっきり会っていない。
母はもともと祖母とはあまり仲良くなかった。だから、母も実家から足が遠のいている。母は両親のような親にはなるまいと私たちを育てたが、いま全く同じことになっている。
私はいままで反抗期というものがなかった。でも、それは反抗期がなかったのではない。たまたま、常に両親と利害が一致してきただけだ。私が進学したいと言えば、それは彼らもよいと思う高校だったから応援してくれたし、大学だって就職だってそうだ。私は初めて、彼らの思う「よい」と違う方向に進もうとしている。
だから、私も両親も戸惑っているのだ。
祖父が亡くなってから私は思う。
大切な人と話し合える時間は有限だということ。
もしかすると分かりあえたかもしれない時間は、一度失ってしまうと取り戻せないということ。
会社がうまくいかなくなっていたとき、祖父と祖母が話し合い、助け合っていたのなら。
祖父と母がすれちがったとき、十分に向き合う時間をとろうと互いが思えたのなら。
もし、という時間は二度とこない。
心底、分かりあうことはできないかもしれない。
けれど、そうやって「どうせ理解できっこないのだから」と背を向けてしまっては、たいせつな人と過ごせたかもしれない時間はなくなるばかりだ。
ちゃんと向き合い続ければ、理解し合えるかもしれないし、理解できないなりにお互いが気持ちよく過ごせるように折り合いをつけることができるかもしれない。理解できない話題については、もう話さないってことでもいい。
だから、私は久しぶりに年末実家に帰ることにした。
もしかしたら、大喧嘩してしまうかもしれない。
それでも、向き合わないまま、互いに年を取るよりはいい。
きっと、なんとかなる。
めげずに向き合い続ければ、何とかなる日がきっと来る。
だって、家族なのだから。
いいところも、悪いところも、わたしたちはきっと似ているはずだ。
***
この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。
「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。
【12月開講申込みページ/東京・福岡・全国通信】人生を変える!「天狼院ライティング・ゼミ」《日曜コース》〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
→【東京・福岡・全国通信対応】《日曜コース》
【天狼院書店へのお問い合わせ】
TEL:03-6914-3618
天狼院書店「東京天狼院」
〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F
天狼院書店「福岡天狼院」
〒810-0021福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階
TEL 092-518-7435 FAX 092-518-4941
【天狼院公式Facebookページ】 天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。
【天狼院のメルマガのご登録はこちらから】