兄のパーフェクト・デイズ
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:前田三佳(ライティング実践教室)
「今、亡くなったの」
義姉からの電話に言葉を失った。
悪性リンパ腫で入院していた兄の急すぎる死の知らせだった。
兄は76歳。15年程前から義姉の故郷である宮崎県に住んでいた。
今年の5月に病気が見つかり、見舞いに行く計画を立てながらも私や夫のコロナ感染などで機会を逸していた。
葬儀場の一室で、まるで笑っているように穏やかな表情で眠る兄がいた。
「お兄ちゃん、ごめんなさい」
頬に触れて、その冷たさにおののいた。
「遅いぞ」と兄に無言で叱られた気がした。
通夜には次々と弔問客が訪れた。
釣りが得意な兄に、毎週教えてもらっていたという小学生と父親。
カラオケ仲間とスナックのママ。
兄は歌が得意で、仲間と2人組で老人ホームを慰問してお年寄りのアイドルとなっていた。
「淋しいよお」と嘆くお婆ちゃんたち。
飼い犬をついでだからといつも散歩してもらっていたというおばさんは
「入院したとは聞いていたけど、まさかこんなに早くに……」と嗚咽した。
そして義姉の姪がお別れの言葉を声をつまらせながら読んだ。
料理が得意な兄から何を食べたいか聞かれ、「ラーメンでいいよ」と答えると出汁を取ることから始めるから出てくるまでに2時間かかった話。
とにかく物知りで1を聞くと10返ってくるような人だったから、最後には誰も聞いていなかった話。
「おじちゃん、今まで本当に……」と後は言葉にならなかった。
誰もが兄の死を悲しみ、淋しがっていた。
私の知らないところで、兄はこの地に根付き人々に愛されていたのだ。
翌日の葬儀を終え、空港までは義姉の甥子が私を送ってくれた。
「僕は叔父さんに何とお礼を言っていいかわかりません。何も恩返しができなかった」
聞けば青年は厳格すぎる父親にいつも叱られて育った。
高校を出て東京の大学に進学が決まっていたが、小さな出来事で父親が激怒し、彼に土下座させずっと地元で暮らすように言ったそうだ。
兄は当時東京に住んでいたが、たまたま宮崎に来ていた。
兄は彼のことは責任をもって面倒見るからと父親を説得し、青年は4年間兄の元で暮らした。
成人式の日も地元には帰れない彼を「よし2人で成人式をやろう」と兄が連れだし1日中パチンコをしたそうだ。
「いいことも悪いことも全部叔父さんに教わりました」と彼はさびしく笑った。
兄はずっと靴や衣料雑貨を扱う客商売を続け、40代でブランドバッグを輸入販売する会社を立ち上げた。
しかしバブルが弾けあえなく倒産。
自宅に在庫の山をかかえ、それでも強がってカッコをつけていた横顔を思い出す。
私たち姉妹の間で、兄は優しいけれど「父の財産を食い潰した男」でもあった。
そんな兄は60代で義姉の両親の介護のため宮崎に移り住み、結局そこで亡くなった。
介護の合間に趣味の釣り、カラオケ、料理を極め楽しそうに暮らしていた。
それにしてもこんなにも多くの人に愛されていた兄の素顔を、葬儀の席で知るとはなんと皮肉なことだろう。
悲しみも癒えないまま、今日私は映画を観た。
年末でやらなければいけないことは山積みだが、何をするのも虚しい気分だったからだ。
「Perfect Days」役所広司がカンヌ映画祭で主演男優賞を取った映画だ。
トイレ清掃員「平山」の日常を淡々と描くこの作品。
彼は毎日同じルーティンで生活をし、熱意をもって仕事に向き合う。
平山の仕事に対する姿勢、人や自然に対する愛情の深さに心を打たれた。
毎朝空を見上げ、木漏れ日に目を細める彼の日常は誰の目にも留まらないが、この世界で生きていることの美しさと哀しさにあふれていた。
帰り道、私はまるで初めて恋をした日のように、目に映るすべてがキラキラと眩しく尊く見えた。
風にそよぐ葉、空に浮かぶ雲のカタチ、電車ではしゃぐ幼子、舗道を駆け抜ける小学生、風を切って進む自転車の女の子、駅前のカフェのお兄さん、工事現場で働く人さえもなぜか
昨日とは違って見えた。
しばしビム・ベンダース監督の視線となって、生きていることの素晴らしさを感じた瞬間だった。
かつて流行った「勝ち組、負け組」という言葉が、私は嫌いだ。
生涯無名のまま不器用に生きた兄や平山を、あえてカテゴライズするならば世間的には「負け組」となるのだろう。
一方、名誉や財産を手にし「先生」と呼ばれ、それでも私利私欲に走り嘘を重ねる人もいる。
彼らは果して「勝ち組」なのだろうか。
人間の生きる意味はどこにあるのか?
地位や名誉や誇れる実績がなくても日々真摯に生き、人生を楽しむことだろうか?
いや、もし不自由な身体に生まれたり、不慮の事故で生涯ベッドの上での生活だとしても、精一杯その「生」を全うすることだろうか?
常々私は何か「これを成し遂げた」とひとに誇れるようなことをしたいと願ってきたが
60を過ぎ、これといって何一つ誇れるものが無いことに焦りを感じていた。
だが今は、何も成し得なくてもいいと感じている。
生きているだけで価値があると思うからだ。
この世に生を受けて、いつか死んでゆく。
誰も気に留めない一生でも、私自身が精一杯生きたと感じていればそれでいい。
小学生の頃、大学生の兄と屋根に登ったことがあった。
兄が得意げに見せてくれた「メリー・ポピンズ」のレコードを屋根の上で並んで聴いた。
メリー・ポピンズの親友バートの仕事は煙突掃除。
「煙突掃除屋はこの上なく幸運 この世でこんなに幸せな奴はいない」と歌う。
なぜわざわざ屋根の上で聴いたのか今までわからなかったが、兄はロンドンの曇り空を
眼下に歌い踊るバートの気分だったのだろう。
ロマンチストで誰よりも優しかった兄は、今どこにいるのだろうか?
痛みや苦しみからやっと解放されたと「チムチムチェリー」を歌いながら、煙となって空を登っているのかもしれない。
***
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