あの時の車掌のミスは、未来の私への贈り物だったのかもしれない
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記事:中村 美香(ライディング特講)
ああ、あのことは、思い出したくもありません。
しかし、そう思いながらも、時々、ふと、思い出されていました。
そう、あれは、10年以上前のことになります。
通勤中の出来事だから、私がまだ、会社勤めをしていた頃のことです。
帰りの電車の中でのことでした。
私は、一番後ろの車両に乗っていました。
その車両の一番後ろ、つまり、車掌室の壁に寄りかかるように立っていたのです。
ラッシュの少し前だったので、座席は全部埋まっていたけれど、つり革は半分くらい残っていました。
私は、壁に寄りかかって、持っていた文庫の続きを読んでいました。
家に帰るには、地下鉄で、8駅乗り、終点の駅で乗り換えた後、別の地下鉄でさらに5駅乗る必要がありました。
所要時間は、徒歩も入れて、約1時間の道のりでした。
それは、1本目の地下鉄で、3駅目を通り過ぎた頃に起こりました。
乗り始めた頃よりも、車内が混んできたので、私は、今までいた場所から少しだけ奥に詰めたのです。
ちょうど車掌室の入り口のドアの前に移動しました。
引き続き、文庫を読み続けていたのですが、地下鉄がカーブに差し掛かって、車体がゆっくりと、左右に揺れて、私は、少しよろけてしまったのです。
そして、右の肘で、車掌室のドアのノブを押し下げてしまったのです。
え? あ!
そう思った瞬間、私の体は車掌室の中に吸い込まれるように、ドアごと倒れこんでいました。
それと同時に、椅子に座ったまま、目を大きく見開いて私を見る車掌と目が合いました。
「す、すみません」
私は、咄嗟に、そう口にしていました。
ところが、車掌は、あまりに驚いたのか、一言も発さず、ドアごと私を押し返して、鍵を閉めたのです。
そうなのです。
どうやら、車掌は、車掌室のドアの鍵を閉め忘れていたようでした。
ドアごと、押し返されてしまった私は、その車両の中で、完全に孤立してしまいました。
加害者だか、被害者だかもわからないまま、平静を装って、文庫本を読み続けるしかありませんでした。
誰かが、びっくりしましたね! とか、大丈夫ですか? と、声をかけてくれないかと、淡く期待しながら、全く、頭に入ってこない文章を見続けるしかなかったのです。
次が終点だったらよかったのに、まだ、乗り換えまでに5駅もあるよ。
ああ、恥ずかしい。
ひどいよ。私は悪くないのに……
顔が異常に熱く感じました。
一度、次の駅で降りちゃおうかな?
ううん、私は、悪くない。
降りたら、私が悪いみたいだよね?
負けたくない。
私は、悪いことはしていない。
妙な正義感が高まり、私は、私自身に途中で降りることを許しませんでした。
ひと駅過ぎ、ふた駅過ぎ、だんだんと、私が車掌室に入ったことを知っている人と知らない人の割合が変わってきました。
ここにいる人たちは、今日、家に帰ったら、家族に、この話をするのかな?
「ドアに寄りかかって、車掌室に入ってしまった人がいたんだよ!」
なんて、子どもに説明するのかな?
ついでに
「車掌室のドアの鍵が開いていることもあるかもしれないから、ドアには寄りかからないようにしなさいよ!」
なんて、注意するのかしら?
明日、職場に行って、同僚に、
「昨日、面白いものを見たよ!」
なんて、伝える人もいるのかな?
私はさっき、どんな風に倒れて、どんな表情をしていたんだろう?
考えれば考えるほど、恥ずかしくなりました。
鍵をかけ忘れた車掌が、恨めしくなりました。
ああ……
確か、その日は、恥ずかしさと、苛立ちを抱えたまま、家に向かったと思います。
だけど、後になって、思ったのです。
もし、私が、ドアごと車掌室に倒れこんだ人を見たら、どうだろう?
気の毒だな、と思いながらも、面白いものを見たなと思うかもしれないな!
それなら、別に誰にも迷惑をかけていないし、むしろ、面白い話題を提供できたのならいいじゃない!
時間が経つと、なんだか貴重な経験をしたなと思えてきたのです。
人には、自分のせいか、そうでないかを問わず、思い出すと、恥ずかしい思い出が、たいてい、いくつかはあると思います。
私には、他にも、もっとあります!
ある時、飲み過ぎて、電車で帰ってきた時に、気持ちが悪くなり、駅についてすぐにトイレに駆け込もうと思っていました。
すると、普段会うはずのない、10年ぶりに偶然会った中学校の時の同級生に
「あれ? 久しぶり!」
と、声をかけられてしまったのです。
全く余裕がなくて、ありえない渋い顔で
「久しぶり。ごめん」と去ってしまったこともあります。
また、高校生の時に、部活の大会が近くて、部活の時間の他に、朝練、昼連があった日がありました。
少し恥ずかしいなと思いながらも、時間短縮のため、一日中ジャージで過ごした上に、昼休みの1時間前にお弁当を食べていたら、クラスの気になるイケメンに
「早弁? お腹すいちゃった?」
と、笑いながら言われてしまったこともあります。
しかし、そういった、恥ずかしかったことがむしろ、思い出として残っている気がします。
「昔、こんなことがあってさ」
と、語れるということは、実は、とてもありがたく愛らしい、過去からの贈り物なのかもしれません。
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