夜なかなか眠れない夢想癖の強い子が大人になると……
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:塩 こーじ(ライティング・ゼミ)
「もう夜8時だよ、早く寝なさい」
テレビアニメに夢中になっていると、後ろから母親のせかすような声。
僕はしぶしぶテレビのスイッチを切り、2階へ上がっていく。
真っ暗な部屋に敷かれた三つの布団。パジャマに着がえて自分の寝床にもぐりこむ。
ひんやりとしたシーツが小さな身体をつつむ。あたたまってくるまでは少し時間がかかる。
横向きになって枕に耳を押しあてると階下の音が聞こえてくる。
テレビの音に父や母の話し声。
しばらく寝つけないまま、それらの物音に耳を傾けていた。子どものころだからはっきり憶えてないけれど、1時間半とか2時間ぐらい。そうやって布団の中でじっとしていた。
昼間は近所の保育園へ通う。
お昼の弁当を食べてみんなと遊んだあと、午後は「おひるね」の時間になる。
たくさん布団が敷かれた大部屋に行き、みんなパジャマ姿で横になる。
やっぱり僕は眠れなかった。
昼間のうちから寝られるわけないじゃないか。
僕はそんなふうに心の中で思っていた。でも保育園の先生の命令には逆らえない。
はじめはほかの子たちも、なかなか寝つけずに騒いでいる。だけどやがておしゃべりにも疲れたのか、ひとり、またひとりとつぎつぎに寝静まっていく。
やがて部屋の中はやすらかな寝息の大合唱。
最後まで僕は眠れなかった。
起きていることがばれると先生に叱られるから、布団の中でじっとしていた。
退屈だったので、頭のなかでさまざまな空想をめぐらせた。
テレビアニメや童話の主人公を登場人物にしてオリジナルストーリーをつくってみたり、想像の中だけの友だちをつくり、“チケ”と名づけて頭の中だけでその子と会話を続けたりしていた。
妹が生まれ、僕は小学生になった。
やっぱり寝る時間は夜8時のまま。
テレビなんかほとんど見られなかった。
なぜか妹のほうは遅くまで起きていても怒られなかった。
8時をまわり2階の布団に入っていると、下からテレビの音に混じり、両親や妹のにぎやかな笑い声が聞こえてくる。
いったいテレビではどんな楽しい番組をやっているんだろう。
僕はまたいろいろと空想にふけり、頭のなかで勝手にテレビ番組をつくってみたりした。
“はい、歌手の〇〇さん、歌っていただきましょう、××××です!”みたいに。
もちろん大人になる前にそんなことはやめてしまったけど。
「それってさあ、虐待と変わらないじゃん」
僕の話を聞いて、むかしからの友人は怒ったように口をとがらせた。「子どもの世話をしないで放置しておく、一種のネグレクト、育児放棄だよ」
「うーん、そうかなあ……」僕はいまいち、ピントこない。
「どうして居間へ下りていって、両親や妹たちの団らんに加わろうとしなかったんだい?」
「だって夜8時には寝るように親から言われてたから」
「親の言うことが絶対じゃないだろ。眠くないからまだ起きていたいっていえばよかったじゃないか」
「子どもが親に口ごたえできるわけないだろ。とにかく大人のいうことには従わなきゃいけないんだから」
「受け身で自分を主張できない性格に育っちゃったんだな。困ったもんだ」
友達は憐れむような目で僕を見ながら「だいたい夜8時ってメチャクチャ早いじゃんか。最近は小さい子だって夜中のファミレスに来てんだぞ、親に連れられて」
「今はそうでもさ、あのころはそういう時代だったんだ」
「なんでも時代のせいにするなよ。時代なんか関係なしに自分のやりたいことをやればいいのさ」
あいかわらず積極的なやつだなと僕は思う。僕とは正反対だ。
彼はいった。「ほかの友だちはどうだった? 学校で前の晩見たテレビの話とかしてなかった?」
「そういえば、クラスのみんなのあいだで話題になっていたドラマ、1回も見たことはなかったなあ。『前略おふくろ様』とか『寺内貫太郎一家』とか」
「みんなの話題についていけなくて仲間はずれにされたんじゃね?」
「よく知ってるな、僕の子ども時代のことなんか」
「ぜんぶお見通しさ。クラスで孤立したりいじめられたり、それもこれも両親がお前を放置して妹ばかり可愛がってたからさ、そうだろ」
彼は自信たっぷりな口ぶりで言う。
……あれは虐待の一種だったんだろうか。ネグレクトだったんだろうか。
ぼんやりと思いながらも僕は反論する。「でもさ、親だって、しつけのために夜早く寝かせていたんだ。けして悪意で子どもをいじめていたわけじゃなかったと思うよ」
友人を説き伏せるように、僕は一気にまくしたてた。「一時アダルトチルドレンとかいう言葉がはやってさ、いまの自分の人生がうまくいかないのはぜんぶ親のせいだとか言ってるやつが多かったけど、僕はそうじゃない。親だってけして完全無欠な人間じゃないだろ。100パーセント正しい子育てなんかできるわけないさ。人生うまくいかないのは、自分の責任だよ」
「だけど頭のなかで、“チケ”とかいう想像上の友だちと会話をしたり、テレビ番組をつくってたなんて、ちょっと普通じゃないぜ。どう考えてもアブナいやつだ」
「もちろん。自分でも普通じゃないのはよく分かってる。だから自分のそんな夢想癖みたいな部分は、友達にも親にもいわず、極力秘密にしていた。でも……」
彼の前で僕は口ごもる。「……いつからか、僕の頭のなかには、現実とちがうもうひとつ別の世界ができてしまった。現実の世界とのあいだは、分厚い透明なゴムの膜で仕切られているみたいなんだ。ほんとうの僕はそのゴムのなかに閉じ込められたまま、透明な膜をとおしてほかの誰かと会話している。ゴムの膜に閉じ込められた僕が、あやつり人形のように外側の僕を操作しているのさ」
そこまで僕が言うと、旧友は哀しそうに首をふった。「ダメだこりゃ。深刻な症状だな」
「もちろん。おかしいのは自分でもよくわかってるさ」
僕はだんだん感情がたかぶってくるのを自分でも感じる。「だから現実の世界ではつねに演技してる。正常な人間のようにふるまってる」
「でも、いま俺の目の前にいる君は、あやつり人形にすぎないんだろ?」
友人はちょっといたずらっぽく「じゃあ、ほんとうの君を見せてくれよ。ゴムの膜の中からとりだして、ここにいますぐ出現させてくれよ」
とっさに答えられなかった。
ほんとうの自分、どこにいるんだろう。考えてみても、わからない。
沈黙した僕を見て、友人はふと優しい笑みを浮かべ
「ま、あまり気を落とすなよ」と席を立つ。
「ひさしぶりに会えて楽しかったよ。じゃあまたな」
僕にそう言い残し、“チケ”はどこかに消えた。
「こーじさん、いつまで独り言をしゃべってるんですかあ」
閉鎖された精神病棟。鉄格子の向こうを通りかかった白衣の看護師が事務的な口調で告げる。「もう夜8時です。消灯の時間ですよ」
***
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