ボクたちは、あとどのくらい小銭を揃え、札を数えるのだろう-日本にキャッシュレス社会がやってきたら《プロフェッショナル・ゼミ》
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【東京・福岡・京都・全国通信対応】《平日コース》
記事: 村井 武 (プロフェッショナル・ゼミ)
スーパーやコンビニのレジに並ぶとき、私の中で、自分との闘いが始まる。
列に並ぶとすぐに、買いものの総額を概算し、対応する金額のお札と、そして小銭とを財布から取り出し始める。といって、私はそろばんも暗算もできないので、正確な端数までは把握できないから「だいたい、このぐらい」の金額感だ。レジで自分の順番が回ってきて、商品のバーコードが読み込まれ、レジの合計金額が増えて行くにつれて、自分の手の中の小銭を調整していく。
お店の人が合計金額を告げてくれる。
「1,624円になります」
この瞬間、手元に「24円」あるいは「624円」の小銭があれば、私の勝ちなのだ。例えば、
「二千円と、あと24円あります」と告げ
「400円のお釣りです」と端数-ここでは特に1円玉や5円玉-なしの金額を受け取るときの快感といったら!
この端数が少なければ少ないほど私の勝利。もちろん、お釣りなしでお支払いできれば完封勝利、いや、パーフェクトゲーム的勝利である。
実にくだらない勝負。お店のレジで、いかにお釣りの端数を少なくするか、キリのいいお釣りを頂くか。そこを目指して一日数回繰り広げられる自分との勝負。
いつからこんな趣味が始まったのか、ちょっと記憶にないのだが、ここ数年は、家を出るときに小銭入れの中に十分な1円玉、5円玉があることを確認するのがクセになってしまった。
反面、レジに並んでいて自分より前に、お釣りの計算に無頓着な客がいると、まったく大人気ないことにひとり立腹する。我ながら理不尽である。数百円の買い物で五千円札だの、一万円札だのを出す人がいると、
「勝負の世界を何だと思っているのだ」
と意味不明の怒りが沸いてくる。合計金額を聞いてから、小銭入れを開いて1円玉、5円玉を探し始める人には
「準備が足りない!」
と心の中で檄を飛ばしてしまう。
我ながらバカである。大バカである。私自身にしても、レジの総額が想定外の端数の出る金額となったときには、財布を再度あけ、小銭を数えなおしたりして、待ち行列を長くしてしまう。心から申し訳ないと思う。挙句の果てにぴったりの小銭がなく「すみません。こちらで」とお札だけを差し出し、ジャラジャラと小銭のお釣りを頂くときの情けなさと言ったら! 気分はサヨナラ負けである。
そんなにレジですっきりしたいのであれば、そもそもクレジットカードかデビットカードを使えば、お釣りに心悩ます必要はまったくない。
しかし、クレジットカードは、文字通り自分に供与された信用に頼った将来のキャッシュフローの先食いだ。自分の将来に自信が持てない私には、ちょっと使いにくい支払い手段である。かといって現在の銀行口座の残高を即座に引き落とすデビットカードが使えるお店はまだそんなに多くはない。
電子マネーも様々なブランドがあり、これ一つ持っていれば安心というものに行きあたらないので、全国で相互乗り入れが進んでいる交通系の電子マネーを除いては、及び腰にならざるを得ない。
金融の世界ではFintechという技術革新が急激に進んでいるという。ファイナンスとテクノロジーとを掛け合わせて造られた造語。その意味するところには変遷があると言われ、私もこの技術について語る教養も知識も持ち合わせないのだけれども、ひとつの要素あるいは効果としてキャッシュレスが挙げられることが多いようだ。
スウェーデンでは、急速に社会のキャッシュレス化が進んでいるという報道があった*。クレジットカード、デビットカードの読み取り装置を無料で小売店に配られたことが大きなきっかけだという。
確かに、お札や小銭-とりあえず、これを「現金」と呼ぶことにしておこう-というのは、それに触れている間ある種の安心感を与えてくれる。「金持ち」とはよく言ったものだ。しかし、反面、扱いは案外厄介である。
私はある時期、どういう動機なのか今となっては思い出せもしないのだが、一円玉と五円玉とを1.5リットルのペットボトルに貯めこんだことがあった。数年でペットボトルが10本ほどになったとき「これ、どうやって使うのだ」と我に返った。ペットボトル10本の小銭が金額にしていくらになるのかもわからない。
まず頭に浮かんだのは、銀行に預けよう、ということ。少なくともこれでいくらになるのか、計数はしてもらえる。ATMではこんなに大量の小銭を受け付けてはくれないので、このためだけに半休をとって銀行窓口に行くことにした。
10本のペットボトルを、かねて用意の安手のナイロン製旅行用バッグに詰め込み、えんやこら、と腰を入れて持ち上げた瞬間、バッグの二つの持ち手が「バリッ」と音を立てて破れ、外れた。安手のバッグはペットボトル10本分の小銭の重さに耐えられなかったのだ。私の身体は破れた持ち手と共に、その反動で部屋の隅まで転がった。
あぶねー。小銭、あぶねー。
しばらく呆然とし一瞬、銀行に行く気力も失せたのだが「半休を無駄にしてはならぬ」と思いなおし、別のカバンに予定の半分、5本のペットボトルを入れて、旅行用のキャリーに乗せ、これまで行ったことのない銀行を選んで、窓口に赴いた。
考え過ぎかと思いつつ、大量の小銭を持ちこむ嫌がらせだと思われるのは、不本意だった。せめて「口座を開きたい」という新規顧客となれば、多少面倒くさいことでも、やって頂けるのではないかと浅はかにも考えたのである。
「新規で口座を開きたいのですが」
「ありがとうございます」
「それで、ですね。お手数なのですけれども、この小銭を入金して頂きたいのですが……」
向うはお金を扱うプロなので、5本のペットボトルを見ても顔色ひとつ変えるでもなかった。
「ペットボトルの口から小銭が出しにくいので、口の部分をカッターで切ってしまってよろしいですか」と尋ねてきた。
「もちろん、結構です。お手数掛けます」と応じた。
小銭の計数には15分ほどかかっだろうか。ペットボトル5本分の小銭は思ったよりずっと少ない額の数字となって通帳上に記載された。
続けてペットボトルを持ち込むのもためらわれたので、その後は、銀行に持ち込むことなく、少しずつ財布に収めては、コンビニの寄付箱に入れたり、お釣りの端数に使ったりして、徐々にペットボトルの数を減らして行った。とはいえ、今でも一本分の小銭は家に残っている。
現金には、面倒くさい側面があることを、私は身を持って知ることになった。
現金の厄介さは、小銭に限らない。
ある時、事情があってなけなしの銀行口座から百万円を引き出し、他の銀行口座に預け替える必要が生じた。金額が金額である。安全を考えてまずはオンラインでの振り込みをしようとしたのだが、そこで示された振込手数料は、私の感覚からすると法外なものであった。自分の金を移動するだけなのに、こんなにとられるのか、と。
振込料に怖気づいた私は、銀行のATMから百万円分のお札を-現金で-引き出し、そこから一番近くにあるコンビニのATMで別の銀行の口座に現金で入金することを考えた。当時、銀行のATM相互乗り入れは、そんなに進んでいなかったので、一台の同じATMで私の口座がある複数の銀行の引き出しと預け入れとを行うことはできなかった。
金額が金額である。ひと気のないころ合いを見計らって、銀行のATMに向かった。暗証番号を入れて、震える指で金額を入力する。
無人のATMコーナーに、機械がお札を数える音がけたたましく響く。百枚の一万円札である。そう簡単に終わらない。冷や汗をかきながら、ATMの画面をにらみつけていると、隣のATMに別のお客さんが入って来た。続くときには続くもので、数名の客がATMコーナーに入り、私の後ろに待ち行列が出来た。
見られている。百万円を引き出す姿を見られている。
「私の後ろに立つな!」
心底念じた。気分は殺し屋に狙われるスパイである。頭の中に「ミッション・インポッシブル」のテーマが流れ出す。
やっと、札勘定が終わり、預け入れ口が開いた。一万円札の束が出現する。
「ドウゾ、オトリクダサイ」
ATMが催促する。
ふと、二つの問題に直面した。
一つ目。
「これ、ちゃんと百枚あるのだろうか」
後ろに他のお客さんが待っている目の前で自分の手で「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ」とやったところで、手が震えて正しく数える自信など到底ない。仮に98枚しかなくとも、窓口にクレームして、信じてもらえるのか。かつてコンピュータメーカーに勤務していたとき、ATMには「過払い」-機械のエラーによる払い過ぎ-という問題がつきものなのだ、と聞かされた記憶がある。あれから技術も進歩しているのだろうが、少なく支払われるパタンだってあるのではないか。あぁ、もう、機械を信用するしかない。
二つ目の問題。
「百万円の札束って、こんなに厚いのか」
お札が出てきたら、すぐにATM備え付けの袋に入れて、その袋をカバンの奥深くにしまいこみ、入金のために次のATMへ速足で移動するというのが計画だった。しかし、備え付けの袋は思ったより薄く、これに百万円は入らないのだ。半分も入らない。私の薄い財布にも入らない。こんな大金手にとったことがないんだもの。
私の後ろの列は、わざとしたように長くなっている。
「私の後ろに立つな、と言っておろうが!」
半分泣きそうになって、百枚の一万円札を無造作にカバンの一番奥に押し込んで、ATMを離れた。敵に狙われるスパイとしては背に腹は代えられない。
カバンを両手で抱き、何度も後ろを振り返り、追ってくる不審者がいないか確かめた。
息を切らせ、走ってコンビニのATMに辿りつく。今、この百万円を奪われたら、私の家計は破綻に瀕する。この瞬間、私と私の抱くこの現金はあらゆる攻撃に対して無力だ。
ピロピロピロ。コンビニの自動ドアが音を立てる。静かにしてくれぇ。
コンビニのATMにキャッシュカードを差し込み「預け入れ」のボタンを押す。
「早く、早く!」
預け入れ口が開いた。頭の中では大音響で「ミッション・インポッシブル」のBGMが鳴り続けている。
百枚の一万円札を入れる。銀行のATMから引っ張りだしたままの状態のはず。
預け入れ口が閉じる。
「助かった」
敵から逃げ切ったスパイのように、ほっとした。
それも束の間、再び預け入れ口が開くと、そこには再び札束がむき出しで現れた。
「なぜに戻る?」
画面を見ると
「お取り扱いできる金額を超えています」
あぁ、一回の預け入れは五十万円までだったのだ。この瞬間、私は、背中に銃をつきつけられ、撃ち殺された。Game Over.
妄想は措いて、現実の五十万円を何とかしなくてはいけない。慌てて、戻って来た五十万円を抜き取り、再びバッグの奥底に押し込んで、最初の五十万円分の預け入れ手続きを終える。周りの目を気にしながら、バッグから残りの五十万円を再び取り出し入金する。
コンビニのお客さんがカジュアルに私の後ろを通り過ぎる。隣の雑誌コーナーで立ち読みをはじめる。
頼むからあと10分間、私の近くに寄らないでくれぇ。
再び、三度、泣きそうになって、合計百万円を新たな口座に収めた。幸いコンビニのATMも、お札の枚数は合計で100枚であることを確認してくれた。
ATMの吐き出す受取票の合計金額を見て、ほっとしつつも、どっと疲れた。
今、振り返るともうちょっと効率的で、安全な段取りもあったように思いつつ、あの現金を持ち歩くヒヤヒヤ感を再度味わうくらいであれば、「手数料」をお支払いすることにより、オンラインで送金が完了させて、安心・安全を買うことに十分意味はあったな、とも考えるのだ。
小銭、札束。どっちも現金の取り扱いには面倒なところが、確かにある。
お金の怖さを描いて人気を博した青木雄二のマンガ「ナニワ金融道」には、街金「帝国金融」の若手社員たちが、顧客に融資するために準備された四千万円の札束を、一枚ずつ数えて確認するシーンが登場する**。このシーンで、街金の社長が若手に向かって
「お前ひょっとして4000という数 今まで一度も勘定したことがないんと違うか」
と問う。確かに、お札に限らず現実に4000という数を数える作業は並大抵のことではない。100万円でオタオタして泣きっ面をかいた私なら「ムリです」と答えて「ムライ、お前には街金やる資格ないで」と帝国金融を追い出されるのがオチである。まとまった金額の受け渡しを現金で行うことには、あれこれリスクが伴うものだ、とATM間綱渡りのミッション・インポッシブルを経験して実感した。
大規模災害や火災に関連しては、いわゆるタンス預金の脆さが指摘されることも少なくない。銀行の経営も盤石ではあり得ないことは、世界の常識になっているとはいえ、同時に一般の家庭や人が一定の額以上の現金をナマで保管し、運び、受け渡しすることには盗難、紛失、焼失の現実的なリスクが伴う。金融機関の破綻が続き、銀行の金利が低くなった時期には「丈夫な耐火金庫が一番」という人に時々会ったものだが、東日本大震災で津波が何もかも奪った様を見聞きした今でも彼らは同じことを言うだろうか。
かつては、一旦銀行に預けた現金は、窓口が開いている時間帯に銀行の店舗に行き、通帳と届け出印とを提示しない限り再び引き出すことはできなかった。銀行での待ち時間も短くはなく、半日仕事だった記憶もある。銀行の店舗間がオンラインでつながれていない時代は、待ち時間も相当長かったのではなかろうか。1970年代くらいまでは、家にいくらの現金を置いておくかは家庭にとって結構大きな課題だったように思う。
しかし、ATMが普及し、銀行の店舗が閉じていても預金を引き出すことは容易になり、さらに、スマートフォンやPC上で銀行からの振り込みがいとも簡単にできるようになると、クレジット・カードやデビット・カードの普及とも相まって、現金に触れず、現金を拝まなくとも-この表現もちょっと聞かなくなったのは気のせいか-お金を動かすことはでき、むしろ、現金を生身の人間が持つこと自体が盗難や紛失のリスクを際立たせる時代になっているように思うのだ。
こう考えて見ると、現金が目の前にある、この手にあるというのは安定・安心できるようにみえて、案外脆い状態だ。リスクもあれば、正確な計数だってそう簡単ではない。「ナニワ金融道」の帝国金融社長は、当時話題となった住専へ投入された税金6,850憶円を一万円札で数えるには、人ひとり飲まず食わずで475日かかると指摘する。人間ワザでは不可能だ。
特定郵便局の局長だった私の叔父は、死ぬまで「おじちゃんは、若い頃、お札を数える郵便局のコンテストで二等になったんだぞ」というのが自慢だった。私が覚束ない手付きで何となく札を数えることができるのは、おじさんのお陰だ。そのおじさんだって、6,850億円数えて見せろ、と言われたら、困惑しただろう。そもそも、今の金融機関で、お札を数える技能は必須とされているのだろうか。
お金もせんじ詰めれば金額という数字である、と割り切ってしまえば、それを札やコインで表現する必要は必ずしもない。もちろん、歴史的・経済学的・法律的にお札や小銭の意義はあったし、今もあるのだろうけれども、日常生活においては、数字のやりとりを確実に行える、信頼できるシステムさえあれば、スマートフォンや各種カード、電子マネーの媒体によって、口座間で数字を移転させる方が、現金を手渡しするよりずっと効率的だし、安心。システムへの信頼が確保できているのであれば、資産・財産管理も数字で見える分(手元にお札を集めて、1まーい、2まーい、と数える必要がないから)、ずっとラクだ。お金を持ち歩いて失くす、盗られる心配もないし、支払いのために支払い地へ出向く必要もない。かくいう私はPaypalのアカウントがないばかりに、天狼院書店のイベント参加のためには、毎回事前に池袋のお店に出向いてお支払いをしている-これは、これで楽しいからよいのだけれども、池袋への交通費やら、時間を考えると常に得策ではない。
先日は、ふと思い立ちあるFintechのスマートフォン用家計簿ソフトウェアで金融機関との連携をして、残りの人生の収支を1枚のスプレッドシート上にまとめてみた。その冷酷なまでの正確さと簡単さに愕然とすると同時にある種の感動を覚えた。
何せ、接続可能なあらゆる金融口座上の資産に加え、年金ネットのデータまで反映され「あなたの残りの人生、これだけのお金でやりくりしてくださいね。この調子でお金を使っていると、○○歳で、資金はショートしますよ」と教えてくれるのだ。余計なお世話にもほどがあるが、冷酷な真実でもある。これを現金で計算することは、リスクと手間と正確性の担保とで、相当難しい。それこそ、リタイアした後の余裕ある時間でちまちま、こっそり行うしかないだろう。
Fintech、それにつけても 金の欲しさよ
他方で、キャッシュレス化のためには、ある程度の技術的なリテラシーが必要となるため、同国先に挙げたスウェーデンの高齢者協会は「現金を使う権利を一方的に奪われるのはおかしい」と反対の声を挙げているとも報じられている***。
年金支給日には、銀行が混雑するらしい。高齢者の中にはATMの操作も覚束ない人も少なくはない。自ずと窓口に通帳と印鑑とを示して出金指示をする昔ながらの方法に頼らざるを得ず、窓口が物理的に混むのだろう。企業の給料支払い日が集中する月末にしてもATMの前に列ができる様子を見れば、それなりの技術的リテラシーを持っている人たちであっても、やはり現金を手元に置く需要はなくならないのだろう。
Fintechも広い意味での市場だとすると、市場が価値を発揮するのには、市場に対する信頼が十分に行きわたることが必要だ。Fintechに対する恐れを人びとが抱いている間は、現金への需要はなくならない。
私のテリトリーにある殆どのお店でデビットカードやキャッシュレス決済が可能になるまで、私の「端数のないきれいなお釣り」を頂くための闘いは当分続く。そのために朝、例のペットボトルから1円玉、5円玉を財布に移し替える日課も続きそうだ。
* 朝日新聞 2017年5月24日 けいざい+ 「キャッシュレス(上) スウェーデン 現金無用」
** 青木雄二 ナニワ金融道 第17巻 230発目 「顧問弁護士 悪徳先生」
*** 朝日新聞 2017年5月25日 けいざい+ 「キャッシュレス(中) カードない人 救う中央銀」
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