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琥珀色の時間を、生きる。——おもふかい大人の生存戦略《週刊READING LIFE Vol.366「もう戻れない」》


 

 

 

 

 

*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

 

 

記事:川瀬健二(READING LIFE編集部ライターズ倶楽部)

 

 

もう戻れない。

その事実を、年齢とともに認めざるを得ない瞬間が増えてきた。朝、布団から起き上がるとき、以前よりほんの少しだけ身体が重い。階段を上る途中で息を整えることがある。久しぶりに庭仕事をすれば、筋肉痛は翌日ではなく二日後にやってくる。鏡の前に立てば、目尻には皺が増え、髪には白いものが混じる。そんな自分を見ながら、ふと昔の写真を開いてしまう日がある。

 

「この頃は元気だったな。」

 

誰にも見せない独り言を、小さく心の中でつぶやく。きっと多くの人が同じなのではないだろうか。若い頃には、一晩眠れば疲れは消えた。三十代には多少の無理なら勢いで押し切れた。四十代には仕事のためなら睡眠時間さえ惜しくなかった。ところが五十代、六十代になると、身体は正直になる。無理は積み重なり、回復には時間がかかる。

 

それを「衰え」と呼ぶことは簡単だ。実際、世の中には「衰えない方法」があふれている。テレビをつければ健康法が流れ、スマホを開けばアンチエイジングの広告が次々に現れる。筋肉を維持する方法、脳を若く保つ習慣、十年前の身体を取り戻す運動。もちろん健康は大切だ。できる努力はした方がいい。けれど、それらを眺めていると、僕たちはいつの間にか一つの思い込みに支配されてしまう。いつまでも若い頃を維持できる人が、周りの人たちから賞賛されるのだと。

 

本当にそうなのだろうか。

そんな疑問を抱くようになったのは、一杯のウイスキーがきっかけだった。ある蒸留所を訪ねた日のことだ。山あいに建つ古い石造りの建物の中へ入ると、空気が変わる。ひんやりとしている。木の香りがする。湿った土の匂いがわずかに混ざる。熟成庫には、大きなオーク樽が静かに並んでいた。何百本という樽が、暗がりの中で何十年もの時間を抱え込んでいる。そこには機械の音もない。人の話し声もほとんどない。ただ静かな時間だけが流れていた。案内をしてくださった方が、一つの樽に手を置きながら言った。

 

「この樽は二十五年前に詰めたものです。」

 

二十五年。僕は思わず樽を見つめた。その中では、四半世紀もの間、誰にも見られることなく、一つの液体が眠り続けている。ウイスキーは蒸留されたばかりのとき、実は透明だという。驚くほど澄んでいる無色透明の液体は、アルコールの刺激が強く、香りもまだ荒々しい。ところが、その透明な原酒が樽へ入った瞬間から、ゆっくりと変わり始める夏には木が膨らむ。冬には縮む。樽は呼吸を繰り返す。そのたびに液体は木の繊維へ染み込み、また戻ってくる。その往復を何万回も繰り返しながら、木の香りや甘みを少しずつ自分の中へ取り込んでいくのだという。

 

だから熟成とは、時間が経つことではない。時間と対話することなのだ。僕は、その表現に妙に心を惹かれた。時間と対話する。人間も、本当はそうなのではないか。けれど、そのとき僕はまだ、大事なことに気づいていなかった。案内の方は続けて言った。

 

「熟成中のウイスキーは、毎年少しずつ減っていきます。」

 

減るという言葉が意外だった。

樽は完全には密閉されていない。木は呼吸をしている。だから毎年、2〜3%ほどのウイスキーが自然に蒸発していく。それを蒸留所では、「エンジェルズシェア(天使の取り分)」と呼ぶのだという。僕は思わずにやっと笑ってしまった。なんて美しい名前なのだろう。若い頃の僕なら、違う言葉を使っていただろう。

 

「損をした。」

 

「もったいない。」

 

そう考えたはずだ。ところが蒸留所の人たちは違った。誰一人として、それを損失とは呼ばないし、失ったとも思っていないのだ。

 

「天使が少しだけ分けてもらったんですよ。」

 

そう言って笑う。そして、さらにこう続けた。

 

「減るから、おいしくなるんです。」

 

その一言に、僕は言葉を失った。

減ることが、価値になる。失われることが、豊かさになる。そんな世界が、本当にあるのだろうか。僕はグラスの中で静かに揺れる琥珀色を見つめた。透明だった液体は、もう二度と透明には戻らない。けれど誰も、それを劣化とは呼ばない。むしろ、その中にこそ、彼らは価値を見いだしている。そのとき僕の胸に、小さな疑問が生まれた。もし、この考え方をウイスキーではなく、人間の人生に当てはめたら、何が見えてくるのだろう。

 

宿へ戻ってからも、「減るから、おいしくなる」という言葉が頭から離れなかった。減ることが価値になる。その考え方は、僕がこれまで当たり前だと思ってきた価値観とは、まるで逆だった。社会では、増やすことが善とされる。売上を増やす。利益を増やす。知識を増やす。人脈を増やす。資格を増やす。若ささえも、できるだけ長く維持しようとする。

 

けれど、蒸留所で出会ったウイスキーは、まったく違う時間を生きていた。毎年少しずつ失われながら、その価値を高めていく。僕はその夜、一つ素朴な疑問を抱いた。なぜ僕たちは、ウイスキーの熟成は美しいと思えるのに、自分自身の変化だけは素直に受け入れられないのだろう。

 

考えてみると、不思議なことだ。古い木の机には「味がある」と言う。革の鞄は、使い込むほど魅力が増すと言う。古民家には、新築にはない風格を感じる。陶器も、庭木も、長い時間を経たものほど、人は価値を見いだそうとする。時間を重ねたものを、僕たちは自然に尊ぶ。

 

ところが、人間だけは違う。皺が増えれば隠そうとする。白髪が増えれば染めようとする。体力が落ちれば、「価値まで落ちた」と感じてしまう。まるで、人間だけは時間の影響を受けてはいけない存在であるかのように。もちろん、健康でいる努力は大切だ。身体を整えることを否定したいわけではない。

 

けれど、「若い頃と同じであること」だけを価値にしてしまった瞬間、年齢を重ねることは永遠の減点競技になってしまう。昨日よりできなくなったこと。十年前より衰えたこと。二十代なら簡単だったこと。その物差しで自分を測り続ける限り、人生は少しずつ失うものを数える作業になってしまう。

 

しかし、本当に人の価値とは、それだけで決まるのだろうか。

僕は会社を経営していた頃のことを思い出した。若い頃の僕は、「答えを持っている人」が優れたリーダーだと思っていた。経営者なのだから、誰よりも早く判断し、誰よりも正確に決断しなければならない。そう信じて疑わなかった。ところが、十年以上経営を続けるうちに、少しずつ考えが変わっていった。社員から本当に信頼されたのは、正解を示した日ではなかった。失敗した社員の話を最後まで黙って聞いた日だった。取引先の表情から、言葉にならない迷いに気づけた日だった。

 

「大丈夫か。」

 

その一言を、相手が必要としているタイミングで掛けられた日だった。その力は、本を読んだから身についたものではない。数え切れない失敗を重ねたからだった。思い通りにならなかった仕事。信じた人との別れ。眠れない夜。経営者としての迷い。「あのとき、別の判断をしていれば」と何度も振り返った経験。その一つひとつが、時間をかけて人を見る目を育ててくれた。もし失敗のない人生だったなら、僕は今ほど、人の痛みに気づける人間にはなれなかったと思う。

 

あの日、蒸留所で見た樽の中でも、同じことが起きていた。樽は、液体に何かを教えているわけではない。ただ、夏の暑さも、冬の寒さも、そのまま受け止めさせている。時間の流れを止めない。変化を急がせない。そうして何十年も寄り添い続けた結果として、透明だった液体は琥珀色へと変わる。人間も、本当は同じなのかもしれない。時間が人を育てるのではない。時間の中で経験した出来事が、人を育てる。だから、人生に無駄な季節はない。思い通りにいかなかった日々も、回り道をした時間も、誰にも評価されなかった努力も、そのすべてが今の自分という「味」をつくっている。

 

若い頃の自分と競争し続ける人生は、いつか必ず苦しくなる。けれど、「どれだけ速く走れるか」という物差しを手放し、「どれだけ深く味わえるか」という物差しに持ち替えた瞬間、人生の景色は静かに変わり始める。そのことに気づいたとき、蒸留所で見た琥珀色は、単なる酒の色ではなくなっていた。それは、時間に抗わず、時間とともに生きた者だけが手にすることのできる、美しい生き方そのものの色に見えた。

 

あの日、蒸留所を後にするとき、僕は樽の並ぶ静かな熟成庫をもう一度振り返った。そこには、何か特別なことが起きているようには見えなかった。樽は動かない。誰かが毎日磨いているわけでもない。派手な変化など、何一つない。それでも、その静かな時間の積み重ねが、何十年後には世界中の人を魅了する一本のウイスキーを生み出していく。僕はその光景を見ながら、自分たちの人生もまた、案外そんなものなのではないかと思った。

 

僕たちは若い頃、「何を手に入れるか」を競いながら生きてきた。もちろん、それらは人生において大切な時間だった。その時間を否定するつもりはまったくない。しかし、その競争は一生続けられるものではない。人には、それぞれの季節がある。若さには若さの役割があり、成熟には成熟の役割がある。それなのに僕たちは、ともすると春の物差しだけで秋を評価してしまう。桜が散ったことを悲しみ、紅葉の美しさを見落としてしまう。けれど自然は、一度もそんなことをしていない。春は春として咲き、夏は青葉を茂らせ、秋には色づき、冬には静かに力を蓄える。どの季節にも意味があるからだ。人間だけが、「春のままでいよう」と無理をしている。だから苦しくなる。

 

もし僕たちが若さだけを価値の基準にしていたら、それらはすべて「失ったもの」の陰に隠れてしまう。けれど物差しを持ち替えれば、人生はまったく違う景色を見せてくれる。体力が落ちた。その代わり、焦らなくなった。記憶力が少し落ちた。その代わり、人の気持ちを想像する余裕が生まれた。走る速さは若い頃にはかなわない。その代わり、一緒に歩く速度は、今のほうがずっと心地いい。それは妥協ではなく、熟成なのだ。

 

僕は最近、「人生を味わい直す」という言葉をよく使う。過去を美化することでもない。後悔を正当化することでもない。あの失敗があったから今がある、と無理に意味づけをすることでもない。そうではなく、過ぎ去った出来事をもう一度眺め直し、その時間が今の自分にどんな色を与えてくれたのかを静かに確かめることだ。

 

若い頃には苦いだけだった経験も、時間を経て振り返ると、不思議なくらい違う表情を見せることがある。あの挫折が、人に優しくなる入口だった。あの遠回りが、本当に好きな仕事へつながっていた。あの別れが、新しい出会いを受け入れる余白をつくってくれた。そんなふうに人生を読み直せるのは、時間が流れた人だけに許された特権なのだと思う。

 

だから、この記事を読んでくださったあなたに、一つだけ小さな提案をしたい。明日の朝、鏡の前に立ったとき、「昔よりできなくなったこと」を数えるのを、ほんの一日だけ休んでみてほしい。その代わりに、「今の自分だからできたこと」を一つ思い出してみる。昨日、誰かの話を最後まで聴けたこと。部下の表情の変化に気づけたこと。家族の小さな疲れを感じ取れたこと。あるいは、昔なら腹を立てていた出来事を、少し笑って受け流せたこと。

 

どんな小さなことでもいい。それは、若い頃のあなたには、まだ持っていなかった力かもしれない。もし一つでも見つかったなら、それがあなたの熟成だ。それが、時間があなたに贈ってくれた「琥珀色」なのだ。蒸留所の樽の中では、今日もまた、誰にも気づかれない小さな変化が起きている。一日では分からない。一年でも分からない。けれど、その静かな積み重ねだけが、人の心を動かす深い味わいを育てていく。

 

目立つ変化ばかりを追いかけなくていい。誰かと比べて焦らなくていい。戻れない昨日を惜しむより、今日という一日を丁寧に重ねていけばいい。その時間は、決して無駄にはならない。いつの日か振り返ったとき、あなたの人生もまた、透明なままでは決してたどり着けなかった、美しい琥珀色を湛えているはずだから。

 

僕は今日も、一杯のウイスキーを静かにグラスへ注ぐ。その色を眺めるたびに思う。人生とは、若さを失わない競争ではない。時間という樽の中で、自分だけの色と香りをゆっくり育てていく旅なのだ。だから、もう戻れないことを恐れなくていい。戻れないからこそ、僕たちは透明ではたどり着けない深さへと歩いていける。その歩みを、僕はこれからも「琥珀色の時間」と呼びたいと思う。

 

 

≪終わり≫

 

❒ライタープロフィール

川瀬健二(かわせけんじ)『READING LIFE編集部ライターズ倶楽部』

1898年創業の印刷会社にて4代目社長を12年間務め、現在は取締役会長。2027年新会社設立に向け、鎌倉の寺院に住みながら仏教哲学を勉強する日々。古くから伝わる生活の智恵、エシカルな暮らし、モノや想いの記憶を次世代へ繋ぐ事業を通じて、誰もがやさしく豊かに生きていける地域社会の実現を目指して奮闘している。また「サステナビリティ × 仏教哲学 × CSV(共通価値の創造)」をテーマに、企業の存在意義を再編集する独自のアプローチに取り組んでいる。

 

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