「ライティング・ゼミ」はゾンビを生き返らせる
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
【10月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《平日コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:あさみ(天狼院・書塾)
娘が生まれて、わたしは、義理母がキライになった。
“キライ”と言ってはいけないことはわかっている。
だって、義理母はとんでもなくイイ人だ。
ヨメであるわたしのことを「ムスメ」と呼び、夫が一緒にいなくてもかわいがってくれる。
わたしのためにセーターを編み、誕生日プレゼントを準備して、いつ行くかなんて事前に言わなくても、行けば必ずご飯を出してくれる。
「日曜日はあなたたちが来ても来なくても、あなたたちのぶんのご飯も準備しておくの。おかあさんがそうしたいの」
そう言って本当に実行しているのだ。
せめて片付けを手伝おうとしても「親には甘えなさい。テレビでも見てればいいの」と手をつけさせてもらえない。
娘が産まれてからなおのこと。義理母にとっては初孫だ。
「だっこしとくからご飯を食べなさい」
「赤ちゃんはいつでも預かるから自分の時間を持ちなさい」
「保育園に行き始めたらお迎えやってあげるわ」
“赤ちゃんかわいいわね”と鑑賞するのではなく、本気でお世話を手伝ってくれるのだ。
ボランタリー精神が皆無のわたしには信じられないことだが、夫やわたし、娘のお世話をしているとき、義理母はいつも幸せそうだ。
手もお金もかかるのに、喜んでわたしたちを迎え入れる。
どう考えてもイイ人だ。
ただただ、一生懸命尽くしてくれる。
なのに、なぜキライになってしまったのか、自分でも理由がさっぱりかわらない。
最初はありがたいなあと思っていたはずなのに。
求められるがまま頻繁に娘を連れて行くようになり、そのたびに義理母は本当に喜び尽くしてくれ、尽くされれば尽くされるほど義理母が苦手になり、ついには、キライになってしまったのだった。
こんなにイイ人をキライになってしまうのは、わたしの性格がねじまがっているからなんだろう。キライになる理由がまったくみつからないので、イイ人なのに遠ざけたいと思ってしまう “性格の悪い自分”をただただ責めるしかない。
あんなにイイ人なおかあさんを悲しませてはいけない。そう言い聞かせるのだけど、どうがんばっても心の奥底から出てくるのはその逆の気持ちばかり。自分のモヤモヤした気持ちに戸惑った。だんだんと、笑っている義理母の顔は、怒っている顔より怖く感じてしまうほどになってしまった。だけど「またいらっしゃい」と言われるので、どんなに嫌いでも、断る理由もないし、また行かなくちゃ……。モヤモヤモヤモヤ。
このモヤモヤの正体は
意外なところから現れた。
きっかけは、ライティング・ゼミだ。
「毎週2000字の文章を書いて提出してください」と言われたとき、わたしは特段大変そうに思わなかった。
大学生の頃に、高校生向けのウェブコラムを書くアルバイトをしていて、2日に1回記事を更新していた。毎日書きたいことが次々にあって、まったく苦じゃなかったからだ。市バスに乗っていても、学食で300円の定食を食べていても、夏フェスに行っても、景色はすべて文章となって頭の中に流れてくる。とめどなく流れる川のように、ときには洪水のように。わたしはその真ん中に立っていて、それをタイプすればすぐに仕上がる。
世の中はメッセージにあふれていた。
さあ、書こう。
今回もそんなに時間はかからないだろう。
育児の合間でも十分にできる。
そうして気楽にパソコンの前に座る。
ところが、キーボードにのせたわたしの指先からは、なんの文章もでてこない。
最初の1行どころか、そもそも、書きたいテーマが思い浮かばない。
書き始める前の最初の「メモ」さえ作れない。
20分たっても、30分たっても。
とりあえずネタ出しをしようとペンを持ってみても、書きたいネタも、書けそうなネタも出てこず、無意味に今日の日付を書いては消してをくりかえし、そのうちに娘が起き出してその日は終わった。
翌日、娘をベビーカーにのせ、散歩をしながら、頭の中で、必死に書くことを探していた。
最近何をしたかな。
心が動いたことって何かな。
誰かに伝えたいことあったかな。
家の回りを何周もしながらぐるぐるするうちに、わたしは気づく。
わたしは、わたしを失っている。
わたしの中は、娘という存在に占領されている。
“わたし”という主語はかきけされ、娘が主語になっている。
だから、わたし自身に、書きたいことがなんにもなくなってしまったのだ。
赤ちゃんはとてもかわいい。
娘のための服を買い、娘が過ごしやすいように模様替えをし、絵本やおもちゃを与え、泣けばあやし、オムツを変え、ミルクを飲ませ、寝返りお座りつかまり立ちとどんどん成長していく姿を写真におさめる。それはとても幸せな日々だった。
独身の頃、上司が「うちの奥さん、子どもが産まれたとたん、自分の洋服をほとんど処分して、そのスペースにそのまま子どもの服をきれいに並べているんだ」と言うのを聞いてドン引いたのは、紛れもないこのわたし。そこまで自分を失って楽しいのかなあと思っていたはずなのに、わたしはまったく同じことをしていた。
お世話をすると笑いかけてくれる、生きるためにわたしに必死に訴えかける、その姿が愛しくて愛しくて、自分の24時間をまるごと赤ちゃんに使っているうちに、その赤ちゃんは、ブラックホールみたいに、わたしを飲み込んでしまっていた。
今のわたしは娘がいないと幸せになれないかもしれない。
自分自身だけで幸せを見つけられないかもしれない。
「わたし」がからっぽになっていたことに気づかなかった。
一文字も書けなくてあたりまえだ。
わたしは娘に依存して毎日を生かされていたゾンビみたいなものなのだ。
ベビーカーを押しながらポロポロと涙があふれてきた。
悲しきゾンビの行進である。
そこで、わたしはようやく気付いた。
わたしは、怖かったのだ。義理母に、娘を奪われてしまうことが。
自分の幸せを娘に依存しているわたしは、誰かに娘のお世話を奪われるわけにはいかなかった。
それと同時に、義理母の幸せがわたしたちに依存していることも恐ろしかったのだと思う。
義理母の幸せは、わたしたちに尽くすこと。
自分たちに尽くしてくれる義理母を悲しませてはいけないと、気づかないうちに義理母の求めるわたしであろうとすることが苦しかった。
義理母も、ゾンビだったのかもしれない。
わたしや義理母だけじゃなく、もしかして、自分の服を処分してしまった上司の奥さんも、かわいいわが子に取り込まれ、ゾンビになっていたのかもしれない。一生懸命赤ちゃんのお世話をしている母親には珍しいことではないのかも。
親として自立することは、本当に難しい。
「だれかのために尽くすこと」が自分の全てになった人生は、大切なその人の負荷を大きくすることもあるだろう。
わたしが義理母を嫌いになってしまったように。
そして娘も将来、わたしを負担に思うかもしれない。
どんなに尽くしても、幸せを誰かに依存している生き方は、誰も幸せにしない。
「自分の人生は自分のもの」だ。
わたしは、わたしのために生きればいい。
自身が自立できてこそ、義理母も、娘も、ひとりの人間として尊重し、本当の意味で大切にできるのだと思う。
書くことは人生だというと大袈裟だと笑われるかもしれない。
だけど、書きたいことがないということは、わたしには恐怖だ。
自分の心から書きたいことがないあふれでる人生にしたい。
わたしは、今、書くことで、生き返ろうとしている。
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