文字を知らない時に見上げた空は《プロフェッショナル・ゼミ》
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記事:青木文子(プロフェッショナル・ゼミ)
「我が家の子どもには字も数字も教えていません。どうぞよろしくお願いいたします」
新しく小学校へ入学する長男。今から10年前に、入学前の担任の先生へ宛てて手紙を書いた。
もうすぐ新学期。まだ桜のつぼみは硬いが日差しは日に日に暖かくなっている。この季節になると、その手紙のことを思い出す。
我が家の息子はひらがなはもちろん書けないし、カタカナも数字も書けなかった。周りの子どもたちはひらがなばかりか漢字を書ける子も多かった。そこで、担任の先生に手紙を書いたのだった。下の子が入学の時も同じように担任の先生に手紙を書いた。
なぜ子どもたちが文字をなぜ書けないかといえば、それは教えなかったからだ。教えないというよりも、積極的に文字や数字を覚えるのはもっと後の方がいい、と子どもたちが字を覚えないようにしていたのだった。
こんなことをいうと、「そんな子どもがかわいそう」とか「周りはもうできているんだし」と言われることがある。今の世の中、早期教育と言わないまでも、今では小学校入学までに文字を教えることが普通にされている。
ではなぜ私が子どもたちに小学校入学まで文字や数字を教えないでおきたいと思ったのか。一言で言えば子どもたちをできるだけ長く口承伝承の世界にいられるようにしてあげたいと思っていたからだった。
口承伝承を最初に意識したのはいつだったろう。
大学に通っていたある日。大学の教授から声をかけられた。
「ちょっとおもしろい出版記念講演があるから行ってみないか」
「どんな講演会なんです?」
「今度出た『一万年の旅路』のという本の邦訳記念講演会だよ。原書の著書を呼ぶらしい。ゼミで希望者は一緒に行かないか」
この本『一万年の旅路』は副題が「ネイティブ・アメリカンの口承史」という。面白そうなので、まだその本も読まないまま、教授についてその講演会に行ってみることにした。
講演会は大学の講堂で開かれた。舞台にあがった『一万年の旅路』の著者ポーラ・アンダーウッドさんは穏やかで知的な印象を受ける女性だった。彼女はなぜ自分が一族の口承伝承者に選ばれたのか、自分たちがなぜ口承伝承を大切にしてきたのかということを語ってくれた。彼女は確かにアメリカインディアンのイロコイ族の中で選ばれた口承伝承者だが、長じて文字を覚え、高等教育を受け自身が民族学者になった。口承伝承と文字伝承の間を分かちもっている存在として、この本を書いたのだった。
日本でもアイヌなどに口承伝承は残されているが、このイロコイ族の口承伝承のスケールの大きさに驚いた。何しろ1万年前からその物語は始まる。イロコイ族が1万年前にサウジアラビアのあたりから一族の物語はじまり、地中海から、モンゴル、アリューシャン列島、アメリカ大陸を南下して、西海岸、五大湖へと移り住んだ物語を語る。つまり石器時代をも含大昔からの出来事が、実際に「口伝え」として語り継がれているのだ。この本の原題は”THE WALKING PEOPLE”。そう、まさに「歩く一族」の歴史を語り継いでいる物語だ。
そしてその物語は、ただの記録としてだけでなく、先祖が、それぞれの地でどんなトラブルを乗り越え、どんな環境に遭遇し、それぞれの土地でその土地の先住民と出会い、折り合いをつけ、時には折り合いがつかずに次の地を目指す、そんな様々な試行錯誤と苦難の物語が知恵をして語られているのだった。
一族の中で全員がこの物語を語り継ぐわけではないとポーラ・アンダーウッドさんは言う。一族の中で特に記憶力に優れた子どもを選び出して、この物語を口承で伝えていくのだ。そしてその物語を受け継いだのが、この本の著者ポーラ・アンダーウッドさんだ。
口承伝承と文字伝承の違いとはなんだろうか。
私達は今、人に物事を伝えるのに文字を使う。これが文字伝承の世界だ。この文字伝承に対して、文字のない世界で言葉だけで人に伝えていくのが口承伝承の世界だ。口言葉だけで伝えることと、文字で伝えること。私達日本にいる大人はもう、ほぼ99.9%文字で伝える文字伝承の世界に入ってしまっている。なので口承伝承の世界のことは想像しかできない。
人類は振り返ってみた時に、長く口承伝承の世界を過ごしてきた。エジプトの象形文字のように文字が発明されてからも、文字は一部の上流階級や知識階級に限られたものであった。日本で考えてみても、人々の多くが文字を書き、文字を読めるようになったのは江戸時代以降。例えば今も世界の中では識字率が低い国がいくつも存在している。
口承伝承と文字伝承。一見文字があるかないかだけに見えるかもしれない。でも一旦文字を手に入れてしまった人は失ってしまう力がある。それは記憶力であったり、想像力であったり、映像からものごとを読み取る力であったりする。
ある時こんなことがあった。アラスカの神話を描いたある絵本を買ってきた時のことだ。なにげなくテーブルに置いてあったその絵本を子どもは目ざとく見つけた。子どもが5歳の頃だったろうか。
「お母さん、これみてもいい?」と聞いて、子どもは絵本を自分でめくりはじめた。そしてその絵を見ながらその絵本を語りだしたのだった。それはアラスカのワタリガラスの神話だった。絵を見ながら子どもは嬉しそうにイキイキとその絵本のお話を語りつづけた。そして、後からその絵本を読んでみると、その子どもがお話とほとんど違わないお話であったのだ。子どもが持っている映像を言葉にする力、言葉を映像にする力に、かなわないと思わされた。
我が家の子どもたちは二人とも文字を覚えないまま小学校にはいった。そして5月の最初の家庭訪問でそれぞれの担任の先生が異口同音に同じことを伝えてくれた。
「小学校は文字を覚えていない前提で授業がはじまるんです」
「ひらがなの「あ」の書き方をおしえるだけで、お子さんは目をキラキラさせるんですよ。あんな目でこちらをみられると、教師になってよかったって思わされるんです」
「あっという間に文字を覚えてしまっているので大丈夫です」
本人たちに言わせると
「最初のうちはさ~、自分の名前が読めないから、靴箱とか困ったよね」
「でも位置で覚えちゃうから大丈夫だったけどね」
子どもたち二人は文字を覚えずに小学校に上がったからといって、困ることはまったくなかったようだ。
精子と卵子が受精してから、人は生き物としての進化をたどってくると言われている。受精卵は最初は魚類のような形態になり、そこから両生類、爬虫類、そして人の形に徐々になっていく。そう考えると、私達は生まれてからもまだその過程をたどっていると言えはしないだろうか。人類として生まれたからも、人類としても歴史をたどって育っていると。
そう考えると私達は赤ちゃんの時代から類人猿から石器時代の人類、そして言葉を獲得し文字を獲得する歴史をもたどっていると考えても良さそうだ。その過程の中で、ある力を獲得することで、ある力を失っていく。
先日、あるライターさんと話をしていた。そのライターさんにこう言われた
「僕は原稿書く時に手書きで書くんですよ」
「手書きで書くと、文字があふれるように文章になっていく感覚になるときがあるんです」
「あれはキーボードではない感覚ですね」
なるほどと思った。そして一度手書きで文章を書いてみようと思った。手書きとキーボードどちらが良いか、ではなく、手書きには、キーボードを得たことで失ったなにかがあるかもしれないと思うからだ。
私達はある道具を得てしまうと、もうその道具がない時に戻れなくなることがある。それは戻れないというよりも、その道具を得ることで私達が変容してしまうのだ。それは例えば鉄道であり、電話であり、インターネットであったりする。
もし、仮に子どもたちが生まれてから6歳までに、石器時代の人類から現代までの道のりをたどっているとしたら。その道程を急がせたくない、と思う。なぜならその道程の中に、大切な体験が詰まっているように思うからだ。
私達はある能力や力を得ることばかりに注力しているのかもしれない。ある力を得た時に、ある力を失うことをもっと知ったほうが良いのかもしれない。
だから思う。子どもたちが文字を知るのは小学校になってからでいいと。あるものを得ることをそんなに急がなくていい。
文字を覚えてから見上げる空と、文字を知らないままで見上げる空は違う空なのだから。子どもたちの目に、文字を知らないままで見上げる空を少しでも長く見せてあげたい、と思う。その体験は、そのひとつ先の力を手に入れてしまったら、もう二度と体験できない宝物なのだから。
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