現代のピノキオは自分自身で糸を切る《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:久保明日香(プロフェッショナル・ゼミ)
「おーい。聞いてんの? 当てられてるぞ」
ぼーっとしていた私は隣に座る同級生、ミキモトに肘で突かれて我にかえった。
「久保さん、ちょっと疲れちゃったかな? 議論の英訳、できた?」
私は優しく笑う藤堂先輩に向かって、肩をすくめる。ルーズリーフ上の英文は書きかけのまま放置されていた。
私は大学時代に英語を使ってスピーチ、ディスカッション、ディベートをするE.S.Sという部活動に入っていた。決して英語が得意だったわけではない。むしろ英語の成績は中の下だったし私より英語ができる人は沢山いた。だけど友人に誘われるがまま、E.S.Sの新入生歓迎イベントへ参加した時、なんとなく居心地がいいな、と感じた。それに「これからは英語の時代! 就活にも有利に働くから入って損なことはないよ」という先輩の誘い文句も魅力的だった。
そんな理由から私はE.S.Sに入部することを決めたのである。
4月から6月まではスピーチとディスカッションの体験期間だった。
与えられた原稿を覚えて、読む。輪になってお題について意見を述べ合う。
活動は和気あいあいと進んでいたが、英語が得意とは言えない私にとって、しんどいと感じるときもあった。だけど、部活に顔を出せば嫌でも英語に触れることになる。行かないよりは行ったほうがいいと思い、参加率100%を目指してほぼ毎日部活に参加をしていた。そのおかげか、日毎に英語に対する苦手意識は薄れていっていた。
7月からはディベートの体験期間だった。
「これから約1ヵ月、一年生は『日本政府は死刑を廃止すべきか』について考えてもらいます。最終的には試合ができるところまで辿り着いてもらうので、みんな、頑張ってね」
そして、ディベート長の藤堂先輩に洗脳されるかのように毎日死刑について、肯定側と否定側、両方の視点から議論、反論を考え続けた。最初のうちはなんだか変な団体に足を踏み入れてしまったかもしれないと思っていたのだが慣れとは恐ろしいもので一週間も経つと議論を考えることに対する抵抗なんてなくなっていた。
みんなで意見を出し合ってまとまった議論ができると、今度はそれを英訳する。そんな作業を繰り返していた。
英訳を途中で放棄したのが先輩に見つかったその日も、私はミキモトと議論を考えているところだった。ミキモトは部活への参加率が良いことに加え、積極的に意見を出したり質問をしたりと、私とは対象的でいつも関心させられてばかりだった。手元のルーズリーフにだってしっかりと完成された英文が書かれている。
「久保さん今日は途中までしか議論作れてないけど……二人共よく参加してくれていて、いくつか議論は作れてるから、一度練習試合をしてみよっか」
藤堂先輩からの突然の提案に私とミキモトは顔を見合わせる。
「ドラマで裁判のシーンとか見たことあるでしょ? あれを今からやってみるイメージ」
右と左に分かれて順番に議論を言い合う光景が頭の中に浮かぶ。
するとミキモトが早速先輩に質問を投げかけた。
「……ってことは勝敗を決める人がいるんですか?」
「その通り。試合には審判がいて、どちらのチームの議論が優れていたか、納得がいったかを判断する仕組みになっています。審判によって判断基準も微妙に違うから、上級者になると、審判に合わせた議論を繰り広げる器用な人もいるんだよ」
そう言いながら先輩は私達に何枚か紙を見せてくれた。
具体例を多く入れてください、早すぎる議論は書き取れないので採用しません、最も重要視するのは人の命です……。そこには人によって様々な価値観が判断基準として書き記されていた。
読み進めていると一つ、気になる表現を見つけた。
「先輩、この『マリオは嫌いですので……』って何ですか?」
マリオといえば任天堂のゲームキャラクター、スーパーマリオしか思い浮かばなかった。
だけどこの“マリオ”はきっと違う。
「あぁ、これはね、“マリオネット”の略だよ。ディベートは二人一組で行うでしょ? 私もそうなんだけど、同じチームの仲間を自分の『人形』のように操るようなディベートは嫌いですよってこと。まぁ基準は色々あるけど、今日はとりあえず試合、やってみようか」
ルールについてはこれまでの講義で説明を受けていたため、ある程度は理解していた。
それに私には毎日辞書と首っ引きになりながら作った議論のベタ書きがある。
苦手意識もなくなってきたし、初心者でも議論のキャッチボールくらいならできるだろう。
練習試合をするにあたって、私は三年生の林先輩と、ミキモトは三年生の安田先輩とチームを組むことになった。そして審判に藤堂先輩を交え、合計5人で試合が始まった。
専攻はミキモトと安田先輩のチームだ。
まずはミキモトが持ち時間の8分間をいっぱいに使い、肯定側の議論を撒き散らした。
ミキモトの英語はとても聞き取りやすく、何を言っているか理解ができた。私は8分間ただひたすらミキモトの声に耳を傾けて、撒かれた議論をルーズリーフに書きとめていった。
ミキモトの次は林先輩の番だった。
先輩はミキモトの議論を一つずつ丁寧に切り返していく。先輩からすれば所詮まだ入部したての一年生が考えた議論。8分間のうち半分ほどを費やして反論を終えた後、今度は私達のチームの議論を撒き散らす。
だけどその後、流れが大きく変わった。
ミキモトのパートナーの安田先輩が、本気で向かってきたのである。
林先輩の議論に対し、深く、深く切り込んでいく。自分たちの議論を補強するために準備してきた証拠の資料も引用し、私には聞き取れないほど流暢な英語で攻撃を繰り出してくる。安田先輩は負けず嫌いだと噂には聞いていたが容赦なかった。ちらりと審判の藤堂先輩を見ると、うなずきながら議論を書き取っていっていた。
私、これに反論するの……?
焦れば焦るほど議論に集中できなくなっていく。英語は右から入って左へ抜けていくばかりで気づけば8分が経過していた。
攻撃と防御を終えた安田先輩はまるで百人斬りをした武士のように目を見開き、肩で息をしていた。
きちんと議論を書き取れていたのは一つ目の安田先輩の切り返しのみ。焦って以降は英単語しか書き取れず、もはや文にすらなっていない。
どうしよう……。論点がさっぱりわからなかった。
「今のはちょっとひどいんじゃない、ヤス」
林先輩が文句を言う。
「林こそミキモトくんの議論、根こそぎへし折ったじゃない。そう来られたらやるしか無いなって思って」
林先輩は私のルーズリーフが真っ白に近いことを見て、
「……久保ちゃん、いける?」
と聞いてくれたがいけるはずがない。
「そうだな……一回、自分で考えた『ベタ書き』で、反論できるところまでやってみよっか。練習試合だし、その後俺も議論を説明しながらサポートするから」
そして私は武器らしい武器を持たず、ほぼ丸腰で敵陣に向かって駆けていった。
慣れない英語を駆使しながら、一つ目の議論について反論を返す。時間にしてわずか1分少々。小刀でちょこっとつついた程度の弱々しい攻撃だ。多分全く効いていない。
そしてしんと静まり返った部室で、私は口をパクパクさせたまま、ただ時間だけが過ぎていった。林先輩が日本語で議論を説明してくれるけれど、それを即興で英語になんてできなかった。
見かねた林先輩が後ろから私に囁いた。
「今から俺の言うこと、全部復唱して。ね?」
そして私の返事を待たずして、先輩は話し始めた。
残り時間は約6分。悔しいが、私には他に為す術がなかった。私は先輩に『マリオ』される形で、ポツポツと英語を話し始めた。
ただ操られる人形になることがこんなに辛く、悔しいだなんて思ってもみなかった。ちらっと見えたミキモトの手元のルーズリーフにはしっかりと議論が書き取られている。5人の中で議論が理解できていないのは私だけだという状況に視界が次第にぼやけてくる。気づけば涙があふれてきた。
「……久保ちゃん? え? 嘘、ごめん」
復唱できなくなって初めて林先輩は私が泣いていることに気づいた。
同時に8分間の終了を告げる電子音が部室に鳴り響いた。
一刻も早くここから出たい。
私は手の甲で涙を拭い、机の上の物を乱暴に掴んで鞄にしまって部室を飛び出した。後ろから林先輩の声が聞こえたが、私は立ち止まることなく全速力で校門まで走っていった。
『マリオ』されてわかったことがある。
私は多分、ずっとマリオネットだったのだ。誘われるがままに入部し、言われるがままに活動をしていた。そこに確固たる意思はないのに、参加しているだけでできるようになったと思い込み、鼻を高くしていた。だけどその鼻も今日、ポキリと折れてしまった。
マリオネットの私はまるでピノキオのようだと思った。
自分の意思を持たず、周りの誘惑に流されてしまったピノキオは人間になれず、途方に暮れていた。意思を持たずに流されるがまま生きてきた私は、ミキモトや先輩達のような『ディベーター』にはなれるはずもなかった。
明日からどうしよう。何も言わずに部室から飛び出すなんて先輩にも失礼なことをしてしまった。謝罪のメールを送ろうかと思ったけれど、どんな文章を打てばいいのか全く思いつかなかった。ベッドに横になっていると、携帯電話が震えた。画面を開けると「新着メール 林先輩」と書かれていた。
「今日は本当にごめん。手助けしたかったんだけど、結局マリオする形になっちゃって……。最初からみんなができるわけじゃないしまた頑張ってみない?」
一度逃げ出した私に対して、こんなに暖かい言葉をかけてくれる。返信ボタンを押そうとしたそのとき再び、携帯電話が震えた。今度はミキモトからの新着メールだった。
「今日はお疲れ様。あの後、安田先輩が今日言っていた反論の内容を聞きました。よかったら参考に。で、また準備ができたら、一緒に練習試合しよう!」
そのメールには箇条書きで7つほど、論点が書かれていた。
ピノキオの傍にはおじいさんや魔法使いがいてくれたように、私には先輩とミキモトがいてくれる。励まし、一緒にディベートをしようと、声をかけてくれる。
二人からのメールが私の心の奥に眠っていた意思を呼び覚ました。
マリオネットでいるのはもう嫌だ。
私もみんなと同じ、『ディベーター』になりたい。
私はベッドから起き上がり、紙とペンを取り出した。そこにミキモトのメールの内容を書き写し、まずは日本語で、議論に対する反論を考える。そしてそれを一つずつ英語に直していく。一つ、反論が完成するごとに背中がふっと軽くなる。細い糸を一本一本自らの手で切り落としていくようだった。
全ての議論について反論を完成し終えて時計を見ると深夜の2時を回っていた。だけど、今日出来なかったところができた。明日これを持って行って、林先輩に見てもらおう。
私は議論を書いた紙をクリアファイルに大切にしまった。
次の日、部室のドアをノックをしようとした瞬間のことだった。
「お前、マリオはご法度でしょー。組んでた相手、一年でしょ?」
「ホントだよ! せっかく入部してくれたのに林のせいで来なくなったらどうするのよ」
中からこんなやり取りが聞こえてきた。何となく入りづらい……。
「いや、あれやヤスが……いや、俺もやっちゃったとは思ってるよ。反省してる」
「今日絶対来ないよ、あーあー」
昨日の夜、メールで謝罪をしたものの、文面では伝わらないことだってある。私の取った行動のせいで今も先輩が責められている。
入室をためらっていると背後から人の気配がした。
振り返ってみるとミキモトが立っていた。
「……入ろっか。昨日の反論、考えてきたんでしょ?」
私はミキモトをじっとみつめて黙って頷いた。
勇気を出して再び腕を上げ、扉を三回叩く。
「はーい。どうぞー」
ドアを開くと目の前に林先輩が座っていた。目が合った瞬間、先輩の目が大きく見開かれる。その瞬間を逃さずに、私は先輩を見据えて言った。
「昨日はスミマセンでした。家に帰って、昨日返せなかった議論の反論、考えてきたので添削してもらえますか? あと……ちゃんとできるようになりたいんで、もう一度組んで、練習試合をしてくれませんか?」
先輩と数秒、見つめ合う。
「よしっ。次はミキモトチームに勝つか!」
「はいっ!」
私は先輩の向かい側に腰掛け、昨日考えた議論を取り出した。
もうマリオネットになんかならない。昨日の悔しさを決して忘れない。
私の背中の糸はまだ切れたてほやほやだけれど、林先輩とミキモトがいれば、「ディベーターになりたい」という強い願いはいつか叶う。そう信じている。
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