もしかしたらそれは、戦争の芽を摘んだことだったのかもしれない《プロフェッショナル・ゼミ》
*この記事は、「ライティング・ゼミ プロフェッショナル」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
記事:一条かよ(プロフェッショナル・ゼミ)
誰にも苦手なことは、一つや二つあるだろう。私は苦手なことが多い人間なのだが、中でも掃除が苦手だ。言い訳から始めるのも自己弁護丸出しだが、決して“キライ”なのとは違う。スイッチが入れば、かなりな丁寧さでするのだ。するのだけれど、なかなかそのスイッチが重い。スイッチの数が少ない上に、重いから入らない。つまりは定期的には掃除ができないのだ。毎日が“障害物競走”のように、まっすぐには歩けない。よけたり跳んだりしながら、狭い我が家を往来している。
そんな自分に、嫌気がさすのが常なのだが、たまにその有様が功を奏することもある。
木製の小さな棚。その底から紙が見えた。片付け忘れたのか捨て忘れたのか、床から数センチ空いているその隙間に、紙が流れ入って、全体の3分の1ほどが見えていた。何かマジックで書いてある。折りたたんであるので、字は内側にあってすぐには読めない。いつもはスルーするその光景に、なぜだかその日は気になって、拾い上げて中を見た。少し大きめのB4用紙、大きな文字で標語かなにかが書かれていた。
『どっちも自分が正しいと思っているよ。戦争なんてそんなもんだ』
6年生の息子の文字。以前、ずい分前に一度見たことがあった。ドラえもんの名言らしく、引用先のURLも書かれていた。「なかなかいい言葉を選ぶじゃない」そんなふうに思った記憶がある。
息子は兄と妹に挟まれ、日々何かと兄弟ゲンカが絶えない。ケンカがコミュニケーション手段かと思うほど、ケンカの無い日はない。ケンカには、かならず双方の言い分があって、どちらかが悪いということは決してない。だから、どちらからも話を聞いて、最終的には「喧嘩両成敗」となるのだが、その息子がまさかそんな言葉を選ぶだなんて思いもしなかった。私はその大きな文字を見た時に、とても誇らしくも感じた。
今回その言葉を目にした時には、その時とはまた別の感動があった。前回は息子の成長に対する感動だったが、今回はちょっと違う。息子が、今の私に必要な言葉を投げかけてくれたのかもしれない、と、そこまで明確に思ったわけでは全くないのだが、それでもなにか、自分の胸にしみわたるような想いを抱いていた。その言葉が、私の日常で起こっている何かとリンクしたのだろうか。
その瞬間私はそれを、気の合う同僚に見せたいと思った。なぜ見せたいと思ったかはわからない。単に息子自慢をしたかったのかもしれないし、ただ分かち合いたかっただけかもしれない。「(この言葉を)会社に貼ってもいいな」と思ったその真意を理解してくれるのはその同僚だけ、と思ったからなのかもしれないが、まぁタイミングがあれば見せようか、といった軽い気持ちで、そのB4用紙を私のカバンにしまった。
その翌日は、午後一での打合せがあったので、家を遅く出ることにしていた。事務所に寄る必要はなかったので直行しようと思っていた。のに、
「一旦、顔出してくれる?」
突然の社長からの一言が飛んできた。まるで見透かされたようで、断る理由も見つからなかった。まったくこういう時に限って……。
11:10。その時間に出発する電車に乗ることに決めた。
家から駅までは徒歩5分強。余裕をもって、10分前には出られればと思っていたが、なぜだかその日はそれより20分も早い時間に準備が済んで、出られる状況になってしまった。なるべくムダな時間を過ごしたくない、せっかちな私としては一瞬ためらったが、「まぁ、早い電車で行ってもいいか」という気持ちにもなったので、10:40ぐらいには家を出た。
暑い。この時間になると、朝とは違って、日影の範囲が少ない。遅く出るデメリットはこれだよな、なんて思いながら駅までの道のりを歩いていた。
この大通りを渡れば駅、というところで事件が起きた。
「ガシャン。ドタッ……」
目の前で、高齢の女性が、自転車もろとも倒れた。自転車同士の衝突だった。
なかなか起き上がれない様子。近くにいたもう一人の人と一緒に、自転車をもちあげようとした。私がハンドルをもち、その人は後輪側を持ち上げて、スタンドをかけてもらった。自転車はなんとか元通りになった。しかし女性は、なかなか起き上がれない。
「すみません、すみません、大丈夫ですか? すみません」
ぶつけた男性が、しきりに謝っている。年齢は30代前半ぐらいだろうか。せわしなく急いでいる様子。
女性がやっと、起き上がってきた。鼻の下に、血が広がっていた。私は、カバンの中のティッシュを探した。こういう時に見つからない。あぁ、思い出した。先週娘に渡してから、新しいのを入れていない。こんな時に……。
「鏡ありますか?」
その女性の声だった。一番そばにいたのは私だった。私に言われていた言葉だった。
「実は差し歯で……」
キズや血が、というよりは、差し歯の状態がどうなっているのかが知りたかったようだ。幸い手鏡を持ち合わせていたので、私はその女性に渡した。ティッシュを渡せなかった罪悪感が、少し減ったようでもあった。
「どうぞ。大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。あぁ、もう……どうしようかしら……」
私はなんと声をかけたらいいのか、わからなかった。わからなかったが、立ち去ることもできなかった。後から思えば、そこが、唯一、「ごめんなさい、私急ぐので」という言い訳をくっつけて、その場を去れるタイミングだった。幸運の女神には後ろ髪はないから、掴める時に掴んでおかないと、気づいたときには掴むものがない、という話を聞いたことがあるが、私はその後にまで居合わせた自分の選択を、後々後悔するのだった。
形勢逆転とはこのことなのだろう。被害者が加害者に、加害者が被害者へと一変していった。
「名前と住所、教えてもらえます?」
おもむろに女性がその男性に言い放った。男性の焦りが増していった。
「無理です。教えられません。すみません。もう時間がないんです。すみません」
しきりに謝る一方で、責任を負おうとはしなかった。いや、負えないのだろうか。そう思わせるほどに、何かにおびえているようにも見えた。
「そんなわけにいかないでしょう? 何を言っているの? 携帯は持っているでしょう。携帯番号教えてくださいよ」
言葉尻は強いが、丁寧なものいいで、彼女は男性に詰め寄る。しかし男性もかたくなだった。
「いやっ、ムリです。もう行かなくちゃいけないんです。これを届けないと……。警察には言わないでください。教えられません。ごめんなさい。すみません」
ただ単にこの場を逃げ出したい、だけのようにも感じた。実際に、自転車に乗って行ってしまいそうになった場面もあった。しかし当然、それを女性は許さなかった。
荷物がたくさん入っているであろう荷台には、それを覆うための銀色のカバーがかけられていて、その女性は、走り去ろうとする彼の自転車のその銀色の部分を、カバッと鷲掴みにした。
「名前も何も言えない? それでいいわけないでしょう? 許されるわけないでしょう?」
彼女は、彼に向かってそう言いながらも、時折こちらに顔を向けてくる。同意を求めているようにも感じた。私は彼女と目を合わすことができなかった。意図的に合わせなかったというわけではない。どうしたらいいのか、わからなくなっていた。
転倒した彼女を、私は助けた。その時点で、一見すると、彼女の側に立っているようにも思える。自分でもそう思う部分もある。しかし今の時点では、彼女の側についているという気持ちでもなく、かといって彼の側にいるような気持ちでもない。わからない。私はただ、転んだ人と、その転んでいる自転車をもとに戻そうとするぐらいの軽い気持ちだった。立たせることができたら、すぐに駅へ向かうつもりだった。なのに、時間があったために、すぐにその場を去ろうという気持ちが起きなかった。けれどももう今となってはどうしたいのか、どうしたらいいのかわからない。むしろ、「なんで私は、ここにいてしまっているのだろう?」そんな自分の誤ったであろう選択に、嘆くばかりだった。
ただ一つ。確実に感じていたのは、彼が望んでいるような結末は、今の彼では掴めないということは、確信していた。
彼は怯えていた。この状況をつくり出してしまったのは自分で、自分に責任があることもわかっていた。しかし、その責任を今は負えないし、かといってどうしたらいいのかわからないから、どうにかその場から逃げ出すことしか、選択肢がないように思い込んでいた。私には、そう見えた。
「ごめんなさい。言えません。警察には言わないでください。すみません。もう行かなくちゃ……」
彼のセリフは変わらない。
しかしその「行かなくちゃ」は、逃げ出したいというよりは、何かに恐れているかのような声だった。激しい剣幕を見せる被害者の女性に怯えているのは確かにある。しかしそれとは違った何かに対して、彼はものすごく恐れ、怯えているようだった。
これ以上の恐れを、彼は味わう必要はない。
なぜだか私は、そう感じた。と同時に、彼が今しようとしていることは、彼をより一層窮地に陥らせ、恐れを倍増させるようにしか見えないとも思った。そこから考える間もなく次の瞬間、彼に聞いていた。
「今から行く職場にいけば、あなたと会えますか?」
意外なほど素直な答えが返ってきた。
「はい。省庁内の○○にいます」
「あそこの角にある省庁ですね?」
「そうです」
どのタイミングで言ったのかハッキリとは覚えていないが、私は彼に、こうも話した。
「きっと、身元をきちんとお伝えしておいた方が、むしろ大ごとにならずに済むと思いますよ」
大丈夫。という言葉こそ言わなかったが、私はその思いで彼に言葉をかけていた。どことなく、“彼を守りたい”、そんな気持ちにもなっていた。
そこから先は、あのかたくなに拒否し続けていた人物と同じ人とは思えないようなやり取りになった。
「そこの名前と、連絡先を教えていただけますか?」
彼は素直に、場所と名前と連絡先を教えてくれた。私は続けた。
「あなたのお名前を、教えていただけますか?」
「羽に下と書いて羽下です」
「連絡先も教えてもらえますか?」
「090の……」
女性とのやりとりでの“かたくな”な態度はなんだったのだろうか、と思うほどに、彼は私の質問に、いやがることもなく、次々と答えていってくれた。
ちょうどその少し前から、別の女性がこの輪に加わっていた。
「あっちで見ていたんですけれど……大丈夫ですか? これ使ってください」
そういってウエットティッシュを、ケガをしている女性に渡していた。ティッシュを持ち合わせていなかった私は、その光景をありがたいと思った。しかし、事態を別の方向に持っていこうとしていたのには、ちょっとばかり困った思いもしていた。
「やっぱり警察に連絡した方がいいんじゃないですか? 救急車呼びましょうか?」
そう言った彼女の手には、携帯電話がすでに握られていた。
もちろん、彼女も善意でその提案をしている。周りで見ていた人からしたら、事故が起きて、ラチがあかないようにこの状況が見えるのは、仕方のないことだった。
でも、正しいように見えるその選択は、「この場」の選択肢としてはどうなのだろう?
少なくとも、この一部始終に関わらざるを得なくなった私からすると、その選択肢が正しいとは、どうしても思えなかった。ケガをした女性の言い分があるように、ケガをさせた男性にも言い分はある。詳細なことは聞いてこそないが、何とはなしに私はそれを肌で感じていた。その中で、一般的な正義を振りかざすことだけが、ここでは正しい選択だとは思えなかった。
あのかたくなだった彼が、自分の名前を、丁寧に漢字まで教えてくれて、携帯番号も教えてくれている。この数分の間での劇的な変化を目の当たりにした私の頭には、あの言葉が、うすぼんやりとではあったが、思い出されていた。
『どっちも自分が正しいと思っているよ。戦争なんてそんなもんだ』
彼の連絡先を聞いている中で、今から行く先は、納品先らしいということも分かった。彼の職場は別の所で、その社名と連絡先も、彼の方から教えてくれた。私は彼に言った。
「今書いたこのことを、女性にお渡しします。おそらく連絡は入ると思いますけれど、きちんと対応すれば、警察沙汰にはならないと思います」
その足で彼女に、彼の連絡先がわかったことを伝え、今日の所は急いでいるので、このまま行かせてあげましょう、という提案をした。彼女もそれをのんでくれた。
「もう、仕事先に行っていただいて大丈夫です。とにかく気を付けて」
同じことを起こさないで、という祈りにも近い思いで、彼にそう伝えた。
「これが、連絡先です。彼がこれから行く先、彼の所属している会社がこれ、彼の名前と携帯番号がこれです」
そう言って、3か所の連絡先が書かれている紙を、彼女に渡した。
鼻の下には、まだ血が残っていた。
「拭きますけれど、いいですか? 痛かったら言ってくださいね」
時間が経ってしまった血は、なかなか落ちなかった。彼女のあごに手を添え、傷があるかもしれないからあまり力を入れすぎないように、拭き取った。
「もう大丈夫。本当にありがとう。ありがとうございました。助かりました」
私は手鏡だけ返してもらい、それを手に持って駅へと向かった。
手鏡には、その女性の血がついていた。すぐにカバンに入れる気にはなれなかった。ホームに上がる前に、トイレへ向かい、洗面所で手鏡を洗った。そこで洗いたかったものは、他にもあった。それが何だかは分からないが、いろいろなことをそこで、洗い流したかった。そんな気がした。
ホームに上がってみると、次の電車は11:10発。最初に乗ろうと思っていた電車だった。不思議な気持ちになった。
様々な思いが交錯してきた。誇らしい気持ち、こわかった気持ち、分からなくて逃げ出したい気持ち。なぜあんなことができたのだろうかと、振り返っても不思議な気持ちでしかなかった。
そんな思いを回想しながら、電車にゆられてしばらくし経った頃、前日に、会社であった出来事のことを思い出した。
その日、あるプロジェクトの全体打ち合せをしていた。参加者は7名。ある程度の概要が終わったところで、詳細を詰める話になった時。“自分が正しい”と思っているAさんとBさんが、互いに自分の意見を相手にぶつけ始めた。状況は悪化するばかり、どんどんヒートアップしていった。
私はそれを聞いていて、とても苦い思いをしていた。何かが違う。この言い争いは、まったく意味がない。そうわかっているのに、実際には何をどう行動したらいいのかわからなかった。わからないまま、苦い思いを抱いたままで打合せは終わってしまった。
もしかしたら私は、その自分の中の苦い思いを少しでも解消したくて、それを理解してくれるであろう同僚に、懺悔のような意味合いも込めて、あの時「見せたい」と思ったのかもしれない。
私は息子の手書き用紙を見せはしなかったが、この一連のことを同僚に話した。ドラえもんの名言と、それを採用した息子に助けられたのだと。同僚は、そうだね、と言いながらも、こう続けた。
「確かにドラえもんの名言は、すばらしいね。きっと戦争の本質をついているのだと思う。だけれどその言葉は、“半面”のことしか言っていないのではないかな? つまりね。その言葉は、『戦争はこういうものだ』ということは言っているけれど、『どうしたら戦争を回避できるか』ということは、言っていないんだよ。戦争を回避できる方法を見つけたのは、ドラえもんの言葉からじゃない。キミ自身のしたことが、その答えなんじゃないの?」
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