足がついた平らな板、これなーんだ?
*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事:土谷 薫 (ライティングゼミ 平日コース)
「板に足がついていて、足はだいたい4本の時が多いです。その板は地面と平行になっています。さてこれはなんでしょう?」
これは、私に言葉とは何かということを気づかせてくれた、非常に重要な問いである。
私は自分で自分のことを言語脳だなあと思う。
母曰く、歩くより先に話しはじめたそうだ。物心ついた時にはもう本に囲まれていたし、「子供だからまだわからなくていい」を絶対に言わないという両親の教育方針により、なぜ?どうして?攻撃が楽しい子供時代、適当にあしらわれたことは一度もなく、私が納得するまで両親は会話に付き合ってくれていた。とにかくよく話をする家族だった。
小学校に上がる前、まだ保育園に通っている頃、ある日の父兄参観でゲームをやった。先生がおっしゃる動物の鳴き声を真似するというゲームだった。
「カエルさんは?」
「はい!ケロケロ!」
「犬は?」
「わんわん」
「にわとりさんは?」
「コケコッコー!」
誰もが疑いを挟まない、これぞその動物の鳴き声、という答えが続いたが、さて、子供達を戸惑わせたのは「蝶々」というお題だった。
ほぼ全員がこう思っていたはずだ。「蝶って、鳴くんだっけ……?」
誰も手を上げられず、静かになっている中、私一人がなんの躊躇もなく元気よく「はい!」と手を上げ、先生にあてられた私は前に進み出た。
私の母も、一体どうするんだろうと心配して見守っていた。
そして
「ひ〜らひら」
といって、手を羽ばたかせてその辺りをくるくる回った私に、体育館がどっと沸いた。
言葉が得意だった私は、音や言葉で表現することで困ったことは一度もなく、むしろ言葉は無敵だと感じていたような気がする。できないことはないのだと。
小学生の時の国語の教科書で、言葉をテーマにした単元にとても興奮したのを覚えている。
それは、日本語には水に関する表現が非常に多く、アラビア語にはラクダを表す言葉が何千もある、というような話だった。
「オスのラクダ」「妊娠しているラクダ」「水を欲しがっているラクダ」のような細かさで単語が用意されていると知った私はたまげた。そんなにラクダが好きなのか。
そう、好きなのだ。いや、好き嫌いではない。それが生活の大変大事な、時に生死をも左右する根幹を担うからだ。本物のラクダを見たことすらなかった私は、ラクダととても近い距離で暮らしているであろうアラブの国の人に思いを馳せた。一体どんな暮らしなんだろうと。
「湯水のごとく使う」という表現が、もし砂漠の多い水が貴重なアラブの国に存在していたら、それはきっとケチケチ使うという意味になるのだろうか。
面白かった。すごく面白いと思った。
言葉に対する興味を順調に育てて行った私は、大学で言語学を勉強することに決めた。授業で使う本はもちろん、言葉に関する本は片っ端から読んだ。
そしてある本で、冒頭のクイズの素に出会った。
このクイズに対して多くの方は、机やテーブルと答えるのではないだろうか。ちょっとひねって椅子という答えもありえるかもしれない。
もし、あなたが机だと思っているものに腰掛けている人を見かけたら、一体どう思うだろうか。ちょっとお行儀が悪いわ、と思うかもしれない。しかし、それは本当に机なのだろうか。椅子である可能性はないのだろうか。机であるための条件とはなんだろう。
あなたは猫を飼っている。あなたの猫は、あなたの机にいつも寝そべって作業の邪魔をする。とても居心地が良いらしい。
その猫にとって、それは机だろうか。椅子だろうか。
そう、どちらでもないのだ。そこでいつも寝ているのなら、もしかしてベッドかもしれない。名付けるまでもない、単なる場所かもしれない。猫には机だろうが椅子だろうが知ったことではない
机は初めから「机」として存在しているわけではない。それを「机である」と思いそのように使う誰かがいて初めて机としてそこに存在することができる。そうでなければ、ただの足がついた板である。
言葉抜きに物が初めから存在していて、そこにペタペタラベルを貼っていくように名前はつけられるものではない。名前を与えられ始めてその物が存在することができるのである。
この本を読み終えて、ラクダの比ではない衝撃が私を貫いた。そこに見えている「机」は、そのように名付けられなければ、そのように名付ける立場の「誰か」がいなければ、机として存在できないなんて。
言葉とは、カオスを切り取る座標軸である。
これは私にとって自分史上最大の目から落ちた鱗だった。言葉に万能感を抱いていた私は、言葉で表現できないものなんてないと思っていた。
そして目から最大の鱗が落ちた後、いまも、やはり、言葉で表現できないことはないと思っている。しかしいまは、「自分の視座」という要素がど真ん中に座っている。
言葉は不完全である。不完全だからこそ、どんなことでも表現できる。それはあなたがどこから何をどう切り取るかという知性と覚悟を備えて。
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