取るに足らないものを、父は取っておく
＊この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。
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記事：しんがき佐世（さよ）（ライティング・ゼミ日曜コース）
父がリビングの箱ティッシュからティッシュを一枚、しゅっと引き出す。
手にしたティッシュを、父は半分に割き、それをまたさらに半分に割く。
4分の1になった短冊状の細長いティッシュで、小さな汚れをぬぐう。
使わなかった方の、きれいなままのティッシュは、箱ティッシュに戻されるときもあれば「父の定位置」に取り分けられる時もある。
台所のカウンターの隅、ボールペンや鉛筆やハサミが数本ささっているペン立てあたりが父の使いかけのティッシュの定位置だ。
かたや、小さな汚れを拭き取った方の細長いティッシュは、すぐにゴミ箱にはいかない。
父は洗濯物のようにそれをたたみ、誰かが間違って使ったり捨てたりしないように、これまた台所のカウンターの端っこに隠すように置く。
「小さな汚れ」というのは、たとえばメガネを拭いたりだとか、目薬をさして目尻からあふれた涙を吸い取ったとか、そういうささいな汚れだ。
私は、読んでいる雑誌の視界の隅に映る父のティッシュのゆくえを、見るともなしに見ている。
使った後のティッシュを父が捨てないのは、それがまだ使えるからで、あとでまた使うからだと知っている。
他人は使えないけど、自分なら後で使いまわしできる程度の、少しだけ汚れたティッシュ。
そういう取るに足らないものを、父は取っておく。
父がどこかに行ってしまうと、私はその小さくたたまれたティッシュと目が合う。
ティッシュも後でリサイクルされることを知っていて、じっと次の出番を待っているように見える。
父は幼いときから大人になるまで、日々の生活にかなり困っていたらしい。
父の父親は若くして病気で亡くなり、父の母親は心臓が弱く働きに出れなかった。
父が育ったのは日本のはじっこ、長崎の離島のさらにはじっこの古い家だ。
竹や杉で覆われた山肌が家に迫り、暖かな太陽は午後にはその山に隠れて見えなくなった。
日中でもすぐに日が陰るので、外に干した洗濯物はたいてい冷たかった。
子どものいなかった叔父叔母の援助を受けながら、父は福岡の大学を出て所帯を持った。
家の事情で地元に帰り町役場に転職。
次第に生活が安定し、３人の子どもが大きくなり、４人の孫に恵まれ定年退職した今もなお、父はティッシュ一枚を一回で使い切ったりはしない。
そして、母や私たち家族のティッシュの使いかたが一枚丸ごとの「ぜいたく」な使い方でも、口を挟んだりもすることもない。
私は、父とそっくりなところがいくつかある。
私もティッシュを割いて使っている。
誰に言われたわけでもなく。
父と違う点は、父は人のティッシュの使い方に口出ししないのに比べ、私は気になってしまうところ。
例えば私の夫が、ティッシュをぼっぼっと二枚いきおいよく引き抜いて鼻をかんだりするのを見るとそわそわ落ち着かない気持ちになる。
結婚したばかりの頃は、夫に
「それ、一枚で足りないかな」と言ったりしていた。よけいなお世話である。
鼻水の量には個人差があり、それを受け止めるティッシュの枚数のバランスはさらに個人差があるとようやく思えるようになり、人のティッシュの使いかたに口を挟まなくなった今でも、落ちつかない気持ちはゼロではない。
事実、私が一人暮らししていた頃の箱ティッシュの減りはとても遅かった。
父と同様、引き抜いた一枚を細くやぶって少しずつ使うからだ。
あくびで出た涙を吸い取った程度のティッシュなら、細く破ったそれをさらに使いまわす。
父のことをいろいろ書いたが、私は長いこと父に反発をしていた。
高校進学で家を出るまでにはごつい反抗期もあった。
父に反発しては殴られて、布団にもぐりこみ泣きながら、なんどもまぶたの裏で父の息の根を止めた。
恨みつらみが生まれる心の場所は、父が教えてくれた。
外出中の父と母が車内で口論になり、父が暴言を吐きすてて車を降り歩いていってしまった夜、フロントガラスの暗闇を見つめたまま車のハンドルを握る母へ「別れたらいいのに」と後部座席からそそのかしたりもした。
今の私と父の仲は、悪くないと思う。
父には母と同様、言葉で尽くせないほど感謝している。
そして今もなお、父とは気軽な笑顔で話ができない。
家庭菜園で獲れた野菜の入った重たいリュックをしょって、船とバスを乗り継ぎ、父が娘家族の住むマンションにやってくる。
これはまだ熟れてないからしばらく寝かせたほうがいいとか、獲れた野菜や果物の説明をしたり、リビングの壁時計のぐらつきを手際よく直してくれる。
入浴後の浴槽の排水溝を、お風呂上がりなのに再び汗だくになって古い歯ブラシで掃除している。
娘家族に「なんでも好きなものを食べなさい」と言って、近所の店でごちそうしてくれる。
私たちが「ごちそうさまでした」と父にお礼を言うと、「ぃや、べつに」と開ききらない口でごにょごにょ言い、顔の前を片手で振りはらうような仕草で背を向ける。
「なんでも好きなものを食べなさい」と言うわりに「俺はこれでいい」 とメニュー表を適当に指さす父に「これで、じゃなくて、どれがいい？」と言葉尻を捕まえたがる私はズレている。
自分以外の人のことを考える人生が長かった父の、自分のことを後回しにする生き方はきっとこれからも変わらないのだろう。
私にとって父は「好き」「嫌い」ではくくれない。
自分のうちに同じものを発見して苦しくなったり、なぜか力強い気持ちになったりと、父といるときの私は、無愛想の下で忙しい。
名前のない感情が目まぐるしく動くので、父と会うと嬉しい反面、帰るとほっとする。
「じゃあな」と帰った後の部屋で、さっきまで持てあましていた感情が、父のいた余韻と一緒に消えていく。
父のことを考えると、条件反射のように鼻がツンとするので、もし「即泣き」選手権にエントリーするならば泣かせネタは父で決まりだ。
表面張力ギリギリでとどまっていた名前のつかない感情が、瞬時にあふれる。
ハンカチが手元に見つからない私は、一枚引き抜いたティッシュの端っこで涙を吸いとり、誰かが知らずに使ったり捨てたりしないようにサイドボードや机の隅にこっそり置く。
またあとで使う。
父の破ったティッシュがタオルのようにたたまれてカウンターのはじに置かれた光景は、これから何十年経っても実家の原風景になるだろう。
無骨でアルコールが手放せずやりきれない暴言を吐く父の、そんなささいな仕草に愛のようなものが宿る。
「だから何？」と言われたら返す言葉が浮かばないような、取るに足らないものが集まって世界はできている。
そんな取るに足らないものの扱い方が、その人だと思う。
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