メディアグランプリ

コアラでトリップ


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

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記事:イヴァンコ小原(ライティング・ゼミ特講)

コアラを抱きに、ブリスベンに行った。

夜に成田空港を出たエアバスA330はすでに安定飛行に移っていた。朝にブリスベンに着く予定だ。三つ並んだシートには妻と高校生の娘、親子三人水いらず。

大柄な男性CAから小さなペットボトルの水が手渡された。反射的に開封しようとしたが、ふと躊躇する。そして、それをそのまま眼の前にあるシートポケットにねじ込んで、座席に座り直した。

しばらくすると、機内の照明が暗くなった。機中泊の準備だ。前の席の背もたれには液晶ディスプレイがついている。あたりを見回すと、それで何かを観ている乗客もちらほら居た。ディスプレイ上の映画メニューを観ると、まだ観ていない話題作のタイトルがいくつもあった。ここなら無料で観られるのだ。お得だ。しかしブリスベンに着いてからはすぐに活動する予定だ。寝不足では活動に支障が出る。それに睡眠を削ってまで娯楽に興じるのは、不健康だ。

そう、不健康だ。私は健康志向だ。健康がスキなのだ。

たっぷり寝ようと背もたれを最大限にリクライニングする。そして、シートベルトを着用する。安定飛行中なのでベルトサインは消えている。しかし、安全のためだ。私は健康志向であるとともに、安全志向でもあるのだ。安全もまた、スキなのだ。

ふと、胃の辺りに強い違和感が走った。
ぐりぐりと、ぎゅぎゅっと、断続的にみぞおちをせり上がってくるこの感じ。

吐き気だ。

これは、かなり、強い。

シートベルトの締め付けのせいかと思い、すぐに外した。しかし変わらない。
自分のベルトも緩める。しかし、変わらない。
むしろ、吐き気は前より強くなっている。
こういうときのために、シートポケットに「エチケット袋」があるはずだ。
取り出して周囲を見回す。ためらう。やはりここでこの袋を使って、というのは、ためらう。
誰でもそうだろう。私もそうだ。

シートから立ち上がり、すぐ後ろにあるトイレに向かった。
ここなら安心だ。心置きなく処理できる。

アルミの冷たいドアロックを掛けると、早速便器に向かってしゃがみ込み、頭を下げ、ちょっとお見苦しい見たくも聞きたくも想像したくないだろうこと、要は嘔吐しようとした。げえっ、げえっ、といいながら、胃は何度も何度もせり上がる。しかし、何かが「吐かれる」印象が無い。胃液すら出ない。なんだろうこれは。不思議に思い、すぐ横にあったペーパーを取って口を拭って立ち上がった。

意識が切れかけた。目の前がグレーになり、足元がガクつく。ヤバイと思ってトイレの壁に手を付き、何とかふんばった。が、力が抜けてコントロール不能、再びしゃがみ込んでしまった。するとジワっと目の前に色が戻って来た。危ないあぶない危なかった。ふう。

しかし何だ? あれ? なんかへん。

ああ、えーと、ちょっとまって。ここは、飛行機だ。飛行機の機内トイレだ。
この音と振動、この狭い感じ、プラスチッキーで丸みを帯びた器具のデザイン、どれをとっても確かに飛行機のトイレだ。うん、確かに飛行機のトイレ。
しかも飛んでいる。そして私は、私だ。飛行機のトイレの中の私。
名前も仕事も住所も言える。大丈夫だ。
飛行機の中の私。飛行機のトイレにいる私。
大丈夫。大丈夫だ。

……でも、なんで飛行機なんかに乗ってるんだ?

私は私だ。誰なのかは分かっている。飛行機に乗っていることも分かる。
けど、目的がわからない。
ええ? なんだこれ??

混乱した。大いに混乱した。意味がわからない。わかるのに、わからない。
不思議さのあまりか、なんだか面白くなってしまい、笑いがこみあげてきた。飛行機のトイレの中でクククと声をだしてわらう。なんだこれ、おもしれー、と言って、またクククとわらう。冷静ではないようだ。おかしくなっている。むしろトリップしている。

ふと、両手をひろげてじっと見た。なんだかヘンに、シワが多い。トイレの照明のせい? 妙にくっきりとしている。両手を合わせてこすってみる。つめたい。カサカサしている。手の甲も、同じだ。唇をなめる。乾いている。唾もろくにでない。

(こ、これは、脱水……!?)

さきほどCAからペットボトルの水を貰っておきながら、飲まずにいたことを思い出した。そのせいで、脱水症状が出ていたのか。

そうこうするうち、なんだかまた、若干脳があやしくなってきた。機内の自分のシートはどのへんだったか、自信がない。一人だったか、だれかと一緒だったか。よくわからない。やばい。これは、とてもやばい。かといって、緊急ボタンを押すのは……。いや、押すべきなんだろうが、いやまてよ。いやいや。判断力が、やばい。

慌てて周囲を見回す。
手洗い。そう、手洗いだ。水道があるじゃないか。水だ。水。ここに、水が。

水道の蛇口に両手をかざす。
何かで、飛行機の中の水道というのは大変に汚いというのを読んだ。
ペットボトルの水以外は出されても飲んではいけないと。
決して飲んではいけませんよと。
しかし、そんなことはどうでもいい。緊急事態なのだ。水だ。みず。

出てきた水を両手で受け、そのまま口をつけて直接どんどん飲んだ。
ごくごく飲んだ。

ふう、と息をつく。尻もちもつく。ドッと体が熱くなった気がした。そして、上半身に汗を感じる。やった。脱水から回復した。そんなに急に回復するものか、とも思ったが、とにかく回復したのだ。したのだから仕方がない。

私は昔から頻尿なので、出先ではあまり水分を摂らない。それが裏目に出たのだ。脳梗塞など、回復しないようなダメージが来ることもある。やばかった。今後出されたらきちんと飲むことにしよう。そうしよう。みんなもそうするべき。

ゆっくりと立ち上がる。先ほどの心もとないココロとカラダは幾分かシャンとしていた。水、おそるべし。おそるべし水。そのままトイレのドアを開け、何事も無かったかのように自席に戻ってシートベルトを締めた。何も知らない妻と娘は既に眠っていた。私も安心して朝までぐっすり眠った。

ブリスベンは、真夏だった。
ペットボトルに水を詰めて持ち歩いた。
コアラは現地語で「水を飲まない」という意味らしい。

コアラは重かった。

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2019-03-09 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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