メディアグランプリ

ずっと忘れていた心地よい気分、その後


*この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加のお客様に書いていただいたものです。

【4月開講】人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ《日曜コース》」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:田中義郎(ライティング・ゼミ日曜コース)

「今月から皆さんの給料を50%引き上げます」
朝礼の冒頭、社長の中嶋は全社員に向かって自信を持って言い放った。
歓声が上がると思っていた。
しかし、何の反応もなかった。いつものように無表情で驚いた様子もなく、静まり返っていた。後継者に予定している息子の雄太に目を向けたが、彼も横をむいたまま関心を持った様子はなかった。
中嶋は次の言葉を失った。
安すぎた給料、5年以上昇給もなく、ボーナスも支払わなかったことなど、今日までの非礼を詫びる予定であったが、言葉が続かなかった。
いつものように、形だけの朝礼に終わった。
今までの自分の人生をリセットし、社員に喜んでもらえる会社にする。50%昇給はその第一歩と考える。この熱い思いも虚しく崩れ去った。
昨夜から徹夜で考え、取り戻しかけていた自信を再び失った。

中嶋は駄菓子を製造販売する会社の二代目社長である。競争が厳しい業界にあって、低価格と品質(純国産)で発展してきた。
特に最近10年の発展はめざましく、売上の伸長と共に、社員も30名から120名に規模を拡大させた。
ところが最近になって業績が急降下した。
右腕だった幹部社員を失い、社員の退職が続き、いつの間にか80名まで減少していた。納期の遅れが常態化し、得意先である量販店からさまざまな苦情も入っていた。
このままでは会社は継続できなくなる。
強い危機感の下、彼にとって50%の昇給は、清水の舞台から飛び降りる決断だった。
しかし、実らなかった。
事実その後も社員の退職は続いていた。

たまりかねて中嶋は顧問税理士の川下を訪ねた。川下はことの顛末を熟知している唯一人の相談相手だった。
「川下さん、全社員に50%昇給を提案しましたが、何の反応もありません。社員の退職にも歯止めがかかりません」
税理士はしばらく考えていたが、中嶋に質問した。
「息子の雄太さんは、どのような仕事をされているのですか?」
「得意先と銀行回りは済ませました。その後は、本人の希望で現場に入り菓子づくりをしています」
また沈黙が続いたが、
「中島さん、一度、息子さんに相談されてはいかがですか」
「えっ? まさか? 息子は会社のことは何も知りませんよ。何の関心もありません。入社して2年、まだ33歳の若造です」
「そうですか。私がお答えできることはこれだけです」
税理士はそっけなく突き放した。
中嶋はしぶしぶ席を立った。

中嶋は税理士の真意を測りかねていが、他に相談する人もいなかった。
その夜、中嶋は息子の部屋を訪ねた。
「雄太、ちょっとお前の意見を聞きたいんだけど」
「50%の昇給提案に何の反応もない。社員も相変わらず辞めていく。君はこの現実をどのように受け止めているか知りたい」
雄太は即答した。
「それは親父のやり方が悪いからだよ。辞めていく社員に罪はないよ。すべて親父の責任だとぼくは思っている」
「50%の昇給でも不満か」
「その感覚が問題なんだよ」
「なにっ?」
中嶋はむかっとなった。
「人はお金だけでは動かないよ。この際だからはっきり言うけど親父は『化石』なんだよ」
「なにっ? 化石?」
中嶋は激高した。息子から初めて聞く屈辱の言葉だった。
「ぼくも後継者でなく社員だったら、とっくに会社を辞めているよ。親父、このままでは会社は潰れるよ。それでいいの?」
「……」
中嶋は言葉がでなかった。
徐々に追い込まれ弱気になっていった。

「どうすれば良い?」
口火を切ったのは中嶋だった。
「親父、ぼくに会社をくれない? どうせ潰れる会社なんだから早くくれない?」
「なにっ? 気でも狂ったのか。勝算があって言っているのか」
「勝算なんてあるはずがないよ。でも化石よりましさ」
中嶋は息子が何を考えているのか、皆目見当がつかなかった。手塩にかけて育ててきた会社だ。手放すことなど頭の片隅にもなかった。
「今会社をくれないのなら、ぼくも辞めるよ。親父と同じ轍を踏みたくないんだ。ぼくはもっとのびのびと生きたいんだ」
息子から聞いた初めての本音だった。
息子のために最高の会社にして継承したい。今までこの一念で働いてきた。中嶋にとって会社は人生のすべてだった。その人生が一瞬のうちに音を立てて崩れていくのを感じた。
何とも言えない悔しさが込み上げてきた。涙がこぼれそうになった。しかし、選択肢は他に見当たらなかった。
中嶋は観念した。
「分かった、お前にくれてやるよ」
「じゃあ、明日からぼくが社長になるよ。言っとくけど一切口出しはしないでね。口出ししても聞かないから。社長交代の手続きだけ親父に任せるよ」
雄太はさらに念を押した。
「親父は明日から出勤しなくてもいいよ。給料も払わないからね」

中嶋はその夜、眠れなかった。冷静に考える心の余裕を失っていた。
翌日
朝礼で全社員に向かって言った。
「今日からぼくが社長になります」
これが雄太の第一声だった。小さなどよめきが起こった。
「給料の50%アップは約束通り今月から実施します。併せて、ぼくの給料も変更します。皆さんより少し高いですが、時給2000円の社長になります。幹部で月給制の方はそのまま継続します」
大きなどよめきを雄太は全身で感じていた。社員の強い眼差しがまぶしかった。懐疑的な目つきもあったが気にならなかった。約2年、現場で社員と苦楽を共にしてきたことが無駄ではなかったと実感し、嬉しかった。
雄太は続けた。
「3年後をめどに、皆さんに正社員になって頂きます。時給制を廃止し、全社員月給にしたいと考えています。
そして……
今後、辞められた方の補充はしません。働きやすい職場にするためです。皆さんと一緒に仕事をして、一番大切なことは働きやすい職場にすることだと学びました。皆さんの意見を聞きながら、今日から取り組みたいと考えています」
雄一は照れくさそうに、ぺこっと頭を下げた。

雄太は社会人になった当初の約10年、就職した大手家電メーカーで、人は理屈ではなく感情で動くことを学んでいた。この経験に賭けるしかなった。

社長の座を失った中嶋は、自宅で悶々とした日々を過ごしていた。息子が心配だった。軽率だったと自分を責めた。いくら悔やんでも後の祭りだった。
しばらくして、ある日
突然の珍客があった。税理士の川下であった。
満面の笑顔で話しかけてきた。
「いやあ、中嶋さんの思い切った決断に感服しました。会社が一番苦しいときに息子さんに託した。この決断は並みの社長ではできません。また、息子さんもその期待に応えようと懸命です。現場も変わってきました」
中嶋は信じられなかった。
夢を見ているのではないと自分を疑った。

税理士の顔からは世辞も作為も感じられなかった。本心から述べられている言葉には説得力があった。
中嶋にとって青天の霹靂だった。しかし、好転した理由などこの際どうでも良かった。
可愛い息子が後を継ぎ、自分が手塩にかけた「命」を育ててくれている。これだけで充分だった。嬉しさが込み上げてきた。
「川下さん、有難うございます」
声を振り絞ってお礼を述べた。これ以上、言葉が続かなかった。涙声になっていた。
税理士も涙目でそれに応えた。
忘れかけていた心地よい気分が、中嶋の心の隅々までしみ込んだ。
化石と揶揄されたが、息子の働く姿を心の中で追っていた。

*** この記事は、「ライティング・ゼミ」にご参加いただいたお客様に書いていただいております。 「ライティング・ゼミ」のメンバーになり直近のイベントに参加していただけると、記事を寄稿していただき、WEB天狼院編集部のOKが出ればWEB天狼院の記事として掲載することができます。

http://tenro-in.com/zemi/70172

天狼院書店「東京天狼院」 〒171-0022 東京都豊島区南池袋3-24-16 2F 東京天狼院への行き方詳細はこちら

天狼院書店「福岡天狼院」 〒810-0021 福岡県福岡市中央区今泉1-9-12 ハイツ三笠2階

天狼院書店「京都天狼院」2017.1.27 OPEN 〒605-0805 京都府京都市東山区博多町112-5

【天狼院書店へのお問い合わせ】

【天狼院公式Facebookページ】 天狼院公式Facebookページでは様々な情報を配信しております。下のボックス内で「いいね!」をしていただくだけでイベント情報や記事更新の情報、Facebookページオリジナルコンテンツがご覧いただけるようになります。


2019-03-23 | Posted in メディアグランプリ, 記事

関連記事