我が娘よ!
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我が娘よ!
記事:しみず あいこ(ライティングゼミ・平日コース)
「ふっ、ふっ、ハッ、ハッ、ふっ、ふっ、ハッ、ハッ」
吐いて吐いて、吸って吸って、吐いて吐いて、吸って、吸って……。
はるか昔に習った呼吸法を必死で忠実に再現する。
……が、吸っても吐いても、吐いても吸っても酸素が身体に全く入らない。
足は鉛のように地面に吸い付いて離れない。
手を振り子のように軽快なリズムを刻んでいたのは、もはや幻。私の四肢は、水揚げされたタコの足のようにデロデロだ。
「つ、つ、辛い! 」
私は、何を血迷ったかハーフマラソンに参加してしまった。
この世で一番嫌いなものは……
「マラソン! 」
そう、即答してきたこの私が、自らの選択でハーフマラソンに手を出そうとは。
最初は、単なる簡単な「ノリ」だった。
大学を卒業し、いわゆる社会人2年目。新しい環境にも慣れ、「働いている風」な自分に馴染んできた頃。自分はなんでも克服出来そうな、そんな根拠のない自信に溢れていた。友人に誘われて、うっかり開けてしまったパンドラの箱。
人混みの中で、友人達の爽やかな背中を見送りながら、私はいよいよ現実に引き戻されていく。身体に染みついたマラソン嫌いは、すぐに真実の自分の姿を如実にした。
回りを見れば、日常的にランニングを楽しんでいるスポーツマンだらけ。一方で、休日といえば半径1メートル以上動くか動かないかの世界を楽しんでいた私。ぐうたら生活をこよなく愛すこの運動音痴が迷い込んでしまった新世界。
「どうしよう」
沿道のわずかながらの声援を受けながら、私はいつリタイアするか、やめ時ばかりを考えていた……。
あれから10年以上経つ。私は結婚し、所帯を持った。
そして私は再びパンドラの箱を開けた……。
長女が3歳になった時から習い始めたバイオリン。最初は、音楽を娘と共に楽しめたらいい、そんな柔らかい気持ちだった。
バイオリンを習い始めた時、先生が私にこう言った。
「バイオリンの上達の鍵は‘親’です。その覚悟はありますか」
この先生の一言を受け入れた瞬間から私の覚悟は強靭な鬼教官の仮面をかぶることになる。
毎朝5時に起きて朝食を摂る前に行うのは長女のバイオリンの練習。
眠たい目を擦りながらも、娘はバイオリンを手に取る。私も、寝不足のボサボサ頭を振り乱しながらバイオリンの楽譜をセットする。
そして、早朝のバイオリン闘争の幕開けだ。
バイオリンの練習は9割が苦行で辛い。音を出し始めた瞬間から弓の動きやバイオリンの構え方が100%整う事を求められる。どこか一つでも狂いがあれば、「音」そのものに不具合が生じるからだ。そして、与えられた課題を譜読みし、解釈し、指に馴染ませる。まだ幼い娘にこの作業を丸投げする事は到底出来ず、私が付きっきりで練習を行う。
「バイオリンが出来ないのは、親である私のせい」
バイオリンの先生が示した覚悟の言葉は、呪いの言葉となって私に逃げることを許さない。
それは同時に娘にも、与えられた課題に対して常に正解を示すことを求めていた。弾けない所は弾けるようになるまで繰り返し練習をする。弾けないまま終わる事を許さない朝のバイオリンレッスンでは、当然、娘との大バトルが勃発する。大バトルを繰り返し、心底疲れ果て、私はあのデロデロの「水揚げされたタコ」になって朝食を摂る。
そんな生活を4年近く続けてきた。
毎朝の努力の甲斐あって、娘のバイオリンは上達した。
……が、早朝の大バトルの光景は変わらない。変わらないどころか、年々その激しさを増している。
愛する娘と毎朝バイオリンと共に戦わなければならなくなったこの日常は、やめたくてもやめられない。あのフルマラソンのように、いや、それ以上に苦しい。私の「やめる」という判断は、ここまで頑張った娘の軌跡を台無しにしてしまうかもしれない……。そんな呪縛を抱えて、私は今も息継ぎ出来ないまま走り続けている。
「つ、つ、辛い……」
フルマラソンの話には続きがある。
デロデロ手足のタコ状態の私は案の定、最後尾を走っていた。運営の車が私のすぐ後ろをついている。私は、言った。
「もう限界です。リタイアするので、車に乗せてください」
車に乗っていたスタッフの方は衝撃の言葉を発した。
「そんな事、言わずに。あと、少しだから、頑張って走って! 」
「えーーーーーっ!! 」
青天の霹靂。な、な、なんと! リタイアできない……!
私は、ついにハーフマラソンを完走した。陸上を這いつくばるタコは、命からがらゴールに辿り着く事が出来た。
リタイアするしかないと思っていたハーフマラソン。まさか、完走する事が出来たなんて。
苦しみの後に待っていたのは、今まで味わった事のない達成感と爽快感だった。
今も、耳に残るあの時のスタッフの方の声。
あきらめない限り、きっと自分なりのゴールに辿り着ける。
娘と私とバイオリンのゴールがどこにあるのか、今は分からない。でも、分からないからこそ、もう少し走ってみようじゃないか。
我が娘よ、もう少しだけ、この私と共に走り続けてはくれまいか……!
《終わり》
***
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