あれから10年 忘れられない1日、忘れられない一言 -写真展の出会い―
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:岩井さとり(ライティング・ゼミ 平日コース)
数日前の何の変哲もない一日がどうであったか、すぐに思い出すことができないことは時にあるが、大半の人は、10年前の3月11日であれば、どんな一日を過ごしていたか、すぐにその記憶の引出しを開けて思い出すことができるのではないだろうか。
東北の地を地震と津波が襲ったあの日。
誰とどんな風に過ごしていたか、どんな思いであの一日を乗り切ったのか……。
被災地から遠く離れた関東や都心にいた私達にとってもあの日は忘れがたい1日だ。
そして、私にはもうひとつ、東北の震災にまつわり忘れがたい1日がある。
あれは確か震災から半年ほど経ったある日のこと。
私はとある老人との出会いが忘れられない。
その日、私は会社のお使いで西新宿にある取引先に書類を届けに外出していた。大したことのないその用事は短時間で終了したのだが、取引先の玄関を背にした時、直帰するには早すぎるが、帰社するには遅すぎると中途半端な時間帯であることに私は頭を悩ませていた。
どっちとも決め兼ねたまま歩みを進める西新宿のオフィス街。
空は薄曇りでひんやりした空気と目に入ってくる街路樹の紅葉が秋の深まりを感じさせていた。
駅までの戻る道をなんとなく遠回りしていると、途中、新宿中央公園を横切ることとなった。
公園内に新宿エコギャラリーと言う区の複合施設があるのだが、入口に写真展と銘打って手作り感満載な看板が出ていることに気づいた。
近付いてみると東北大震災の写真展示会が開催されていた、入場は無料。
勿論、心踊るテーマではないが、中途半端な時間と、帰社することの面倒さが相まって、入口から中を覗いてみる。
それは一見、教室の壁にサイズ大小の写真が貼られているような、まるで高校の文化祭でも思わせるような出来栄えであり、入口の看板同様に手作り感のあるもの。ド平日の昼下がりで鑑賞している客はひとりもいなかった。
一瞬たじろいだが、入口にいたお兄さんと目が合い、「ぜひ見て行ってください」と言われたことで戻るタイミングも逸してしまう。
中途半端に頷きながら、戸惑いながらそのまま足を踏み入れることとなった。
あれから半年かぁ。まぁ、ちらっと見て行くかな。
壁に掛けられた数々の写真は、きっと被災者などから寄せられたものなのだろう。
家に突き刺さった漁船、地面からせりあがっている水道管、ぬかるんだ大地と散乱している瓦礫の山々……。
個々の写真には大した解説文もなく、元の原型を知らない自分にとっては、悲惨さや壮絶さはうかがえるが、正直なところ何がなんだかわからない。
もしかして、この写真、逆さまなんじゃないか!? とまで思うくらい。
怪訝な顔で写真を覗き込んでいると、ふと背後から老人に語り掛けられた。
私の入場数分後にふらっと老人が入って来たことは場内の雰囲気に察していた。
入場時に入口のお兄さんと一言二言と挨拶を交わしている様子からきっと近所のおじいちゃんで散歩がてらよく立ち寄るのだろうとも推理。
しかし、その老人、写真とにらめっこしている私の背後に歩みを進めて来ると、おもむろにぽつりぽつりと語り掛けて来た。
「ここはもともと母屋でね。」
……と、母屋とは思えない原型なしの瓦礫写真を指差してぽつり。
「で、このあたりは店舗だったんですよ。お店やっていてね。」
……とこれまた瓦礫写真に向かってぽつり。
はて?
そんな老人の出現に戸惑っていると、見かねた入口のお兄さんが近づいてきて、
「この写真はこの方のお宅だったんですよ。今は東京にいるお子さんのもとに身を寄せられているんです。」と事情を説明してくれた。
「どうですか? もうこっちの生活には慣れましたか?」と続けてお兄さんはその老人との会話を続ける。
気楽にちょっと立ち寄っただけの鑑賞者である自分にとっては、「ええ、おかげさまで」と目の前で穏やかに語る老人とこの瓦礫の山とがにわかには結び付かずに若干の混乱をきたす。
まさか、被災者なのか!?
この老人はここから生還したのか?
あの時、あの地震の時、津波がこの場所を襲った時、この人は今や瓦礫の山と化したこの場所にいたのか?
どうやって助かったのだろうか?
ふと、目の前に健在でいることから、思わず「助かってよかったですね」と口をついて出そうになったが、次の瞬間、私はそのセリフを急いで飲み込んだ。
いや、そんなこと、果たして言っていいのだろうか?
彼の家族は? 友人は? 近所の人々は? 一体どうなったのか?
それこそ津波のようにたくさんの疑問が押し寄せて来た。
そして更に次の瞬間には、そんなこと私には聞けない、聞いた先にどんな苦労があったのか、どんな悲しみがあったのか、それを思うと部外者の私には受け止めることはできないし、無責任に聞くこともできないと、恐怖すら覚える感じで口をつぐんだ。
今、目の前にいる老人にかけられる言葉を、私はひとつも持っていない。
大丈夫ですか? なんて安易に聞けない。ご無事でよかったですね、とも言えない。
家屋は流され、故郷を離れた彼にとっての、無事とは何なのか?
まるで上唇と下唇が瞬間接着剤でくっつけられたかのように動かすことができなかったのを今でも思い出す。
「このあたりの土地は地盤沈下してしまってね、このぬかるんだ状態でも干潮時なんですよ。だからもうここには帰れないんです。」と水浸しの地面を撮影した写真について解説する老人の横顔にどんな思いが隠れているのだろうか、思わずじっと見入ってしまう。
そして、老人の一通りの解説を経て文化祭会場に訪れたのは沈黙だった。
ほんのさっきまで、出先でちょっとさぼりたかったご気楽OLとしては、この展開に戸惑いしか感じられない。興味本位で足を踏み入れた自分が恥ずかしいような、どうしようもない人間に思えてしまった。
しかし、申し訳ないと思うのも違うような、恥ずかしいと思うのも違うような、同情するということも、これまた違うような。
どんな反応をすべきか正解がわからないまま、いたたまれず、この時間が早く過ぎてくれないかと思っていると、老人の口から思いがけない言葉が出て来た。
「でもね……大丈夫ですよ。」
思わず私は、え? と老人に顔を向ける。
すると老人は、うんうんと頷きながら諭すように私の目を見ながらもう一度言ってきた。
「大丈夫だからね。」
その後、瓦礫の山と化したかつての住居写真に再び視線を戻しながらも更にもう一度、「大丈夫だからね」とつぶやく。
一言だけ、それ以上でもそれ以下でもなく発してきた。
自分自身が大丈夫なのか、家が倒壊してしまったけど大丈夫なのか、いや、その一言は、まずは、「何も言わなくて大丈夫だよ」と困っている私を見かねて言ってきた優しい一言だった。
被災者の老人ひとりにかける言葉ひとつ見つけられない私は、むしろその場で全てをはらんだ老人の優しい「大丈夫」と言う一言に救われてしまった。
それまで、何か気の利いたお見舞いの言葉でも掛けねばならないのではなかろうかなんて、頭の中右往左往させていた自分がなんとも浅はかで不相応な驕りを持っていたことか。
恥ずかしさや不甲斐なさを感じつつも、老人の一言に心が温まって泣きそうになってしまった。そんな一瞬が心に刻まれた。
たくさんの感情が一気に沸き起こってくる中、私にできたことは、結局のところ、「はい」と小さく返答するだけだった。そして、その後はごにょごにょと何かを言って私は逃げるようにその場を去った。
あんなに何も言えなかった経験は、人生後にも先にもあの時だけだ。
あれから10年。
私は東北にゆかりがあるわけでもない、誰か知り合いがいるわけでもなく、直接的にあの大震災にかかわる立場にはなかった訳だが、そんな私にとって、あの老人と交流したほんのひと時が、この震災が自分の中でまさにリアルになったその瞬間だったと言える。
今年も3月11日が近づいてくると、あの老人の優しさをはらんだ「大丈夫ですよ」の一言と共に震災から半年後の秋の一日が脳裏に蘇ってくる。
***
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