定年の挨拶で愛を語った先生の伝えたかったこと
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記事:櫻井和博(ライティング・ゼミ平日コース)
「あなたたちは、いま付き合っている人と結婚する人もいるかもしれない。その人と一緒になってよかったかどうか、迷うときがあるかもしれない。その迷いの答えがわかるのは、もっとずっと先だ。私自身、正直に言って、定年を迎えたいま、妻と結婚してよかったのかどうかはわからない」
高校生のときだった。定年を迎えた先生が、全校生徒の前で、挨拶をしていた。
結局、なにを僕たちに伝えたかったのだろうか。挨拶の最後に、
「妻には、いろいろと我慢、苦労をさせたから、定年後は、妻に恩返しをしたい」
とか、
「これから、君たちは、答えのない問いと立ち向かっていく。君たちの選択が正しいかどうかは、選択した後にどう行動するかで決まる」
などといった、定年後の人生への思いや僕たちへのアドバイスがあったのかもしれない。でも、覚えていない。
覚えているのは、学校でも存在感もそれほど大きくなかった先生が、急に『愛』を語りだした事実に驚いたことだけだ。そして、その驚きとともに、先生が絞り出すように語りかけた言葉は、いまでも僕の心に残っている。その言葉は、僕にとって埋められない空白となって、僕に考えるきっかけをくれている。
先生がどんな人生を送ってきたのか、そのときの僕にはわからなかった。もちろん、いまの僕にもわからないのだけれど、軽々しく誰かに「頑張ります」などと自分の決意を伝えない、誰かに説教するような言い方はしないという先生の生き方は、先生の言葉を聞いたときから、ぼんやりと意識するようになった。
なぜ僕にこれほどに影響を与えたのか、ずっと考えている。最近になって、「先生の姿に、未来の自分の姿を重ねていたのかもしれない」と思うようになった。
担任の先生だったわけではないし、部活動の先生だったわけでもなく、授業を受けた記憶もない。皆の注目を集めるような、熱血漢というわけでもない。まじめな、紳士的な先生だった。定年を迎えるにあたって、生徒からプレゼントをもらうような人気者の先生でもなかった。
高校を卒業し、大学生になってから、読書に目覚め、ジャンルを問わず多くの本を読んだ。僕は本を読むだけで、自分自身を危険な状況に追い込むような行動はしなかった。安全地帯で知識を得て満足していた。大学生のころ、同級生が海外に留学したり、高校と大学が同じだった後輩がアメリカに一人旅にいったりと、自分にはない経験をしているのを横目で見ていた。僕にはない行動力で世界を広げる友人に対して、自分も殻に閉じこもっていないで、外の世界を見に行くべきなのだろう、という気持ちを抱きながら、特に何もせずに、大学生活を終えた。社会人になると、同期が海外に出向したり、社内で表彰されたり、活躍している姿を見ていた。
自分で言うのもどうかとは思うが、僕は、人の話を理解するのは早く、求められている成果がどのようなものであるかを理解できた。そして、最低限、その成果を出すために何をすればいいかはわかった。その反面、修羅場をくぐり抜けるような、一皮めくれたと思えるような経験をすることもなく、それなりに会社では評価はされてきた。
あのとき、挨拶してくれた先生も、同じだったのかもしれない。進学校で、問題児と呼べるような生徒はいない。ものわかりのよい、扱いやすい生徒相手に授業をし、学力に応じた大学を受験させる。結果に責任を取らされるようなことはなく、毎年、それなりの大学に、一定の数の合格者を送り込んでいく。まるで、会社のなかで、歯車になって仕事をしている、いまの僕と同じように。
先生は、定年の挨拶のとき、僕たちに、答えのない問いや迷いと、どう向き合うのかを語りかけた。テーマは『結婚』だったけれど、自分自身の選択をどう意味づけしていくかは、結婚に限ったことではない。もしかしたら、先生は、先生の職業人生をやりきったという実感がないままに、定年を迎えたのかもしれない。もしかしたら、先生は「お前たちは自分の人生を悔いのないように生きろ」というメッセージを込めていたのかもしれない。そして、先生の挨拶を思い出すたびに、僕の深いところでは「いまのまま、流れに身を任せていると、先生と同じように、人生をやりきることなく定年を迎えることになるぞ」と感じているのかもしれない。
人に嫌われることは避けてきた。自分に求められていることを考え、自分にできることを、まじめにこなしてきた。そんな僕に「このままでいいのか?」とあのときの先生はずっと語りかけてきている。
背中を押すでもなく、ずっと、そばにいて、離れない言葉。みなさんにはありますか? それはどんな言葉ですか? たまには立ち止まって、時間をかけて、その意味を考えてみてはいかがでしょうか? 忘れてしまわないうちに。
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