形ないもの
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:石瀬 木里(ライティング・ゼミ集中コース)
ドッッン、ガンッッシャン
やってしまった。
つい手が滑った。
あと5分で家を出ようとしている時だった。
そんな思いが、知らぬ間に自分の気持ちを早めていたようだ。
手に持っていたはずの、先週買ったコップ。
オーロラ模様のグラス製のコップだ。
キラキラと表面にピンクのようなエメラルドグリーンのようなきらめきを放ち、見ているだけで心が躍るコップだ。
300円均一のお店で買った割には、えらく気に入っていた。
そんなお気に入りのコップが、あろうことか手から滑り落ちた。
そしてあろうことか、もう1つ洗い溜めていたマグカップに衝突して、それを割った。
そう、オーロラコップは無傷であった。
何が起きたか一瞬分からず、その場に固まっていたが、我に帰るなり、こう思った。
「いっそ、コップが割れればよかったのに」
マグカップを割ってしまったことが何よりの衝撃だった。
無惨に3つに散ったマグカップを目の当たりにしても、信じたくなかった。
どうしても割りたくなかった。
2年以上も割らないように、これだけは慎重に扱ってきた自信があった。
それをたかが300円ごときのコップに粉砕された。
やりきれない怒りを感じた。
これは紛れもない、八つ当たりだ。
分かっていても、300円のコップに八つ当たりするより他に、私にできることはなかった。
なんと惨めな自分だと思った。
このマグカップは特別だった。
ピンク色のマグカップには、”フローレン”という名のムーミンキャラクターが描かれていた。
金髪の前髪と赤いアクセサリーを持つ、見たことのないムーミンキャラクターだ。
そう、私は別にムーミンのファンではない。
そんな私に、このコップをくれたのはフィンランド人の友達だった。
彼女は2年前、半年間の間、日本留学に来ていた。
私と彼女は大学の寮で出会った。
私は大学に通える範囲に元々住んでいたが、寮生リーダーとして寮内のイベント企画をすれために、春から寮で暮らしていた。
寮の自室から扉を2つ挟んだところに住んでいたこともあり、顔を合わせる機会も多かった。
数人の日本人と一緒に、彼女、そして韓国と中国から来た2人の留学生を交えて歓迎パーティーと称し、ピザパーティーを催した。彼女とは、その日に意気投合し、顔を合わせるたびに、話をする仲になった。
聞けば、彼女は日本に留学するために一度社会人として働いていたそうだ。
アニメをきっかけに、日本に興味を持つようになり、一度は日本に住んでみたいと思っていたらしい。
確かに一度彼女の部屋に入った時、彼女の部屋は、いわゆる”推し”に溢れかえっていた。
彼女からマグカップを貰ったのは、ピザパーティーから数週間たった、ある日曜の午後だった。
共同のキッチンでお皿を洗っていた彼女に会うと、渡したいものがあるからといって、部屋から取ってきてくれた。
ムーミンのマグカップは、ムーミン発祥の地と言われるフィンランド出身の彼女らしいプレゼントだった。
でもなんでプレゼントしてくれたかも分からない。
いきなり、こんなものを貰ってもいいのかと、心配になって尋ねると、「ピザパーティーのお礼。この前コップがなくて困ってると言ってたから、あなたが気に入ってくれると思ったの。」と英語で彼女は言った。
彼女の優しさを大切に受け取り、そのマグカップは毎日使うようにした。
時は残酷にも流れていき、留学生の彼女ともお別れの日がやってきた。
彼女が帰国する当日のことだ。
私が部屋でドラマを鑑賞していると、ドアをノックされる音が聞こえた。
ドアを開けると彼女が立っていた。
どうやら、別れの挨拶を言いに来てくれたらしい。
彼女は、私の手を取るなり、こう言った。
「ホント―二、アリガトウゴザイマシタ。ワタシハ、ココ二コレテ、ホント二ヨカッタ。リョウノイベントモ、サイコオデシタ。アリガトウ」
語気に力が入っていくにつれ、私の手を握る彼女の手も力が強くなっていった。
そして、言葉を言い終わるころには、彼女の目に涙が浮かんでいた。
心にぐっと、色々な思いが一気に込み上げてきた。
一気に体中の体温が上がったのを感じた。
気づけば視界は、歪んでいた。
最初は英語で会話していた彼女が、最後に日本語で自分への思いを伝えてくれたこと。
自分が企画したイベントがなんかしら彼女の留学の役に立てていたこと。
彼女が一度働いてまで日本に来てくれたおかげで、日本で彼女に出会えたこと。
これでもう、彼女とのお別れだと実感したこと。
悲しいのか、嬉しいのかも分からない。
でも、とにかく感謝の気持ちでいっぱいだった。
彼女に出会うことが出来て、良かったと心から思えた。
感謝の気持ちが、涙として溢れだした。
そして彼女と固く握手し、2人で泣きあった。
どのくらいの時間、そうしていたのかは分からない。
しばらくして彼女は、「モウ、イキマス」と言った。
彼女を入り口まで見送った。
後ろ姿はみるみる小さくなり、角を曲がると、ついに見えなくなった。
本当にお別れなんだと思うと、まだ実感が湧かないような変な気持ちだった。
まだ、気持ちの整理はつかなかった。
部屋に戻ると、さっきまで見ていたドラマがつきっぱなしのパソコンの横に、ピンクのマグカップが見えた。
一気にまた、涙が込み上げた。
彼女の優しさを思い出した。
彼女のぬくもりを思い出した。
彼女の笑顔を思い出した。
彼女の全てを、恋しく思った。
ピンクのマグカップは、彼女との想い出が詰まっていた。
彼女が確かに、留学していた証だった。
ずっと大切にしていこうと決めた。
そんな大切なマグカップを割ってしまった。
また買えば良いものではない。
想い出が詰まったマグカップだった。
だから、「いっそ、コップが割れればよかったのに」と本気で思った。
しかし、ここまで筆を走らせて、少しばかり考えが変わった。
形あるもの、いつかは壊れるのだ。
この言葉は耳にタコができるくらい、よく聞く言葉だ。
しかしこの言葉が頭をよぎった時、私が最も大切にしたいものはマグカップではなく、彼女との想い出なのではないだろうかと思った。
彼女と一緒に過ごした半年間の記憶なのかもしれない。
どちらにしろ、マグカップが壊れたところで、想い出がなくなるわけではない。
記憶が消し去られるわけでもない。
想い出も記憶も形は元々ないのだ。
形あるものは、いつか壊れるもの。
それなら形のないものは、いつまでも壊せないものなのかもしれない。
いや、もう何にも壊させはしない。
割れたマグカップを紙に包みながら、固く、固く、心に誓った。
***
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