ベトナムの少女と、色褪せないビデオテープ
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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜
記事:大村隆(ライティング・ゼミ2月コース)
僕は自己啓発的な人生論や、ライフハック的な考え方が好きではない。だいたい、あまりに人間というものを一般化しすぎている。加えて、人生はそれぞれ固有なもので、法則性で括って説明できるほど単純ではないからだ。
年齢を重ねるほどに、その思いは確かなものになっている。生きていれば、どう捉えればいいのか分からない、出口が見当たらない出来事も頻繁に起こるのだ。これから話すことも、そういう類いの小さな体験のひとつだ。
「なんだこのバイクの群れは……、まるで洪水じゃないか」
2003年9月、ベトナム・ホーチミン。開高健の「ベトナム戦記」を読み、一度この足でその地を踏みたいと願い続けていた僕は、空港に着くとそのまま戦争資料館へ向かった。湿気をおびた生暖かい風、周囲に響く聞き慣れない言葉、そして、全身に感じるこの国特有の熱気。何もかもが僕を激しく刺激し、興奮させてくれた。
しかし、資料館を目前にして足がすくんでしまった。ものすごい「量」のバイクが、目の前の道路を走っていたのだ。ここをどう渡ればいいのか、まったく見当がつかない。周囲には信号も、横断歩道もない。洪水が途切れる気配など、一切ないのだ。
立ち尽くしていると、道路の向こう側に赤いアオザイを着た一人の少女がいることに気付いた。しかも何か叫びながら、こちらに向かって大きく手を振っている。17、18歳くらいだろうか。その子は笑いながらバイクの群れのなかに足を踏み入れると、難なく道路を横切ってしまった。そして僕のそばにきて、こう言ったのだ。
「カモン」
言い終わらないうちに、少女はまた向こう側へと戻り始めた。僕は慌てて、恐る恐る彼女のあとをついていった。少女は向かってくるバイクのほうに顔を向けながら、一定の速さで歩いていく。不思議なことに、ぶつかることも、かすることもない。どうやら、ライダーがこちらの移動速度を考慮して、減速しながら避けてくれているようだ。「こういう交通ルールもあるのか」と驚いている間に渡り切ってしまった。
「サンキュー」。ちょっと震える声でそう言うと、彼女はケタケタと明るく笑って、こっちこっちと歩道沿いの屋台へと僕を導いていく。そこにはベトナム戦争関連のビデオテープや写真、書籍などが並んでいた。どうやら彼女は、その売り子をしているらしい。僕がビデオテープを手に取ると、40000ドンだと言った。
日本円にすれば、だいたい200円くらいか。だが、買う気にはならなかった。そもそも、どの程度の内容なのかまったく分からないし、日本語訳もついていないのだ。
「まずは、ここ見てくるから」
僕は資料館を指さしてそう言った。ジェスチャーは通じたようで、「オッケー」と少女は言った。
資料館はコンクリート造りの古い建物で、戦時中の写真パネルや焼け残った衣服、枯れ葉剤散布の被害の実態を示す証拠などが展示してあった。とても直視できないものもあり、浮かれていた気分はすっかり重く沈んでしまった。ため息をつきながら館内を一巡し、外に出るともう午後4時を回っていた。
「ハアーイ!」と明るい声がして顔を上げると、屋台の前に少女が立っていた。彼女は僕を待っていたのだ。ただ、僕の気分は塞いでいた。
「ソーリー」
僕は首を横に振りながらそう言った。すると、少女の笑顔は一瞬で消え、怒りの表情に変わったのだ。彼女はベトナム語で何かを激しくまくし立てると、「あっちに行って」というふうに手の甲を振った。そして、背中を向けたのだ。
胸がひんやりと痛んだ。僕は黙ったまま、その場を立ち去るしかなかった。
夜になってホテルのベッドに横になっても、少女の怒った表情が頭から離れなかった。僕の中途半端で曖昧な態度が、彼女に期待を持たせてしまった。そして、その期待を裏切り、傷つけてしまったのだ。申し訳ない気持ちがした。では、何か買えばよかったのだろうか? 横断を手伝い、観光客に恩を売り、その対価として商品を買わせる。きっとあの子はこれまでも同じことを繰り返してきたはずだ。だとすれば、僕はただのカモに過ぎない。
どうすることがベストだったのだろう? 資料館に入る前に“No”とはっきり伝えたなら、相手も僕を待つことはなく、僕も罪悪感に苛まれることはなかった。でも、それができただろうか。あれほどカオスな道路を一緒に渡ってくれた直後に? きっと、カモになればよかったのだ。それなら少女は怒ることなく、僕もそんなこと、すぐに忘れていたはずだ。
ベトナムには6日間滞在し、観光地を巡ったり、小舟に乗って川下りを楽しんだりしたが、どの記憶もすでにぼんやりしたものになっている。だけど、あの少女のことだけは、まだはっきりと覚えている。彼女の軽蔑に満ちた目、背中を向けたときに揺れた黒く艶やかな髪、そのときの陰りはじめた街並み……。
作家のキャスリン・ショルツは「後悔が思い出させてくれるのは、失敗そのものではなく、自分次第でもっと良い結果を生み出すこともできたのだ、ということ」と言っている。そして、「自分が生み出す完璧でない、欠点のあるものを愛そう。それを生み出してしまう自分を許そう」と。
確かに、その通りだ。けれど、その後悔に他者が関わっている場合、そしてその相手に二度と会うことがない場合、自分を愛し、許すということが果たしてできるだろうか?
ビデオテープを買わなかったことで、手にしたもの。それは20年近くたっても色褪せず、すり切れることもないまま、ずっと僕のなかで巻き戻り、再生され続けている。
***
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