蕎麦湯のような女になりたい
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記事:鈴木かずこ (ライティングゼミ・8月コース)
蕎麦屋の暖簾をくぐり、天ざるそばを頼む。
これは、私が最近ハマっている蕎麦屋巡りでのルーティンである。
店によっては、鴨肉をおすすめするところもあって、そんなときは、鴨ざるそばを注文する。
とにかく、ざるそばが欠かせないのだ。
理由は一つ、最後に提供される蕎麦湯をめんつゆに入れて、飲み干すのが目的だからだ。
立ち食いそば屋ではそれが叶わない。夜にはそば焼酎が呑める、そんな本格蕎麦屋でないとだめなのだ。
私は、蕎麦湯が好きである。理由はわからない。最後におまけのように出てくる、あのお得感が好きなのかもしれない。そんなことを思い巡らせていたら、幼少期の記憶がうっすらと蘇ってきた。
私は、物心がついたときから、常に母親と行動を共にしていた。近所のおばさんからは、
「あらぁ、かずこちゃんはお母さんと仲良しなのねえ」とよく言われたものだ。
しかし、私の本心は、母親が好きだったわけではない。母親が子供から離れられなかったのである。
私の父親は、当時よく言われていたモーレツサラリーマンだった。毎日残業は当たり前。家庭をあまり顧みない典型的な昭和な男だった。
専業主婦だった母親は、さびしかったのかもしれない。毎日の食材の買い出しでさえ、必ず私を連れて行ったのだ。
今でも思い出す。とあるスーパーでよく迷子になっていた。理由は簡単だ。たくさんの豆腐が泳いでいる水槽に、手を突っ込んで水遊びをしていたからだ。今思うと、衛生上信じられない販売形態だ。スーパーにあるその水槽から、お客は自分の選んだ豆腐を拾い出し、自分でパッキングしてレジで精算していたのだ。
そんな豆腐の水槽に私は引っかかっている間、母親は自分の買い物に集中してしまう。おかげで、よく親子ではぐれて、何度か交番のおまわりさんに、家まで送り届けてもらっていた。
このように、近所から変わった親子として見られていた私たちは、ますます行動を共にするようになっていった。
小学生に上がったころだっただろうか。
母に連れられて神田のお蕎麦屋さんに連れてってくれた記憶がある。
神田という街は、とても不思議な街である。関東大震災、そして戦争の空襲の火災から免れた一角が残っている。地名でいうと「淡路町」だろうか。
その界隈には、古い店構えの飲食店が立ち並んでいる。とにかく、昔から活気のある街であることが、肌でわかるのだ。
ただでさえ、まるでタイムマシーンに乗ってやってきたような高揚感が胸の中にあるのに、お蕎麦屋の暖簾をくぐったら、まさにそこは江戸の空気が流れていたのだ。
どのように注文して、どんなお蕎麦で、天ぷらの中身など、まったく記憶がない。
痛烈に心に残っているのが、最後に出てきた「蕎麦湯」だ。
「おかあさん、これ、白く濁っているけど、大丈夫なの?」
「これは、お蕎麦を茹でたときのお湯なのよ。お蕎麦は茹でると栄養分がお湯に溶け出してしまうの。だから、このお湯は栄養満点なのよ。最後に残ったおつゆに足して、飲んでご覧」
そんな説明を受けて、私は、生まれて初めての蕎麦湯を飲み干したのである。
それ以後、蕎麦湯は私にとって、大のお気に入りになっていった。
蕎麦やめんつゆは、店によってぜんぜん違う。なのに、蕎麦湯だけは、どの店も同じだ。多少、濃い薄いはある。しかし、蕎麦からにじみ出た養分は、まぎれもない蕎麦であり、蕎麦職人の心意気が染み渡っている。
私の仕事は、経理である。どちらかというと、縁の下の力持ち的なポジションだ。蕎麦に例えると、蕎麦でもなく、めんつゆでもなく、まして天ぷらやかき揚げといった華々しい存在ではない。
最後の最後に提供される、それも、ざるを注文した客にしか出されない、蕎麦湯的な存在なのだ。
人によっては、手もつけず、飲まないだろう。膳を下げる際、流しに流されて捨てられるようなものだ。
しかし、蕎麦湯には、どこにも負けない栄養分がたんまり入っている。
会社でいえば、現場は新年度が始まって、気持ち新たにして仕事している中、経理だけは、過去に残って数字をかき集めている。会社にとっていいことも、悪いことも、すべて洗い出して、絞り出して、最後の蕎麦湯のように、すべての要素を取りまとめた帳票を作るのだ。
人によっては、鬱陶しい存在であり、特に価値もないと思われる経理だが、実は、ふたを開けてみると、会社のすべてが底に溜まっているようなところなのだ。味がないくせに、養分がある蕎麦湯とそっくりである。
そして、ほんの一部の役員たちに、飲み干される存在でもあるのだ。
それでも、私は、この仕事に誇りを持っている。蕎麦湯のような存在に、自分らしさを見出している。
私は、今、地元の駅前にある蕎麦屋にきている。ここでは、蕎麦がきもいただける。真っ昼間からそば焼酎もいただける。なんて幸せな時間だ。もちろん、ざるそばも注文した。
しばらくしたら、お店のお姉さんが、「蕎麦湯でございます」と持ってきた。待っていた蕎麦湯である。そば焼酎でほろ酔いだった私は、最後に蕎麦湯を頂いて、お会計を締めた。
「ごちそうさま」
そう言って、私は店を出た。まだ、日が高い。温められた胃袋を抱えて、家路を急いだ。まだ、身体が冷え切らないうちに、帰ろう。
***
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