メディアグランプリ

金メダリストから学んだ消えた心の炎の灯しかた


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人生を変えるライティング教室「天狼院ライティング・ゼミ」〜なぜ受講生が書いた記事が次々にバズを起こせるのか?賞を取れるのか?プロも通うのか?〜

記事:栗原知美(ライティング・ゼミ6月コース)
 
 

※この記事はフィクションです。
 

また、ここに戻ってくるとは思っていなかった。
 

2024年8月2日金曜日、午前8時半。
私は自社のエントランスで、エレベーターの中に吸い込まれていく社員たちを15分ほど見送っていた。西新宿のオフィス街に吹くビル風は、湿っぽく生暖かい。
 

ドクドクと波打つ鼓動を落ち着かせるように、大きく深呼吸をして、皮の手帖を開く。
1ページ目には、私の字で「自分の結末は自分で決める」と大きく書いてある。
 

そう、私はこの為に戻ってきた。
今日、3ヶ月休んでいた会社に復帰する。
 

すこし過去にさかのぼって、仕事の話をしたい。
 

私は、食品の卸会社に営業担当として新卒で入社した。
元々、人と関わるのが大好きで、良い意味でも悪い意味でも、おせっかいな性格。うわさ話が好きで、多方面から情報を集めるのが得意だった。彼氏の元カノ情報とかも、3日あれば大抵の情報を揃えられる。
 

この性格が功を奏したのか、営業で苦労することはなかった。同期が既存顧客の維持に悪戦苦闘している間に、私は余力を新規顧客の獲得に使った。4年目あたりから常に営業成績は上位。事業所で3位以内をキープしていた。
 

しかし、去年になって急に転職を決めた。
ずっと同棲していた彼氏と別れたのが直接の原因といえる。同じ職場で出会った彼と距離を置きたかったし、環境を変えて自分の営業スキルを試してみたくなったのだ。
 

私が獲得した複数の内定先の中から選んだ職場は、西新宿に本社があるIT企業だ。
営業職として採用された。この企業を選んだ理由は、管理職候補として迎え入れてくれることを確約してくれたからだ。
 

入社して3ヶ月は順風満帆だった。
上司からの期待も大きく、入社してすぐに大型プロジェクトの主要メンバーになった。新しい業界、人間関係、学ぶことがたくさんあった。
 

なにか違和感のようなものを感じ始めたのは、今年の2月くらいだろうか。
 

責任のある仕事を任され、残業は増えていった。それでも、充実した日々を送っていると思っていた。しかし、次第に眠れない日が増えていく。
 

ベッドに入って目を閉じると、明日のやることリストが頭に浮かぶ。そこから思考が広がり、気づけば深夜にノートPCを広げていることが何度もあった。
 

春を迎える頃になると、体調が悪い日の方が多くなった。
仕事を休むほどではないけど、ずっと体調不良。それと比例して、仕事の些細なミスが増えた。何度もチェックしたはずが、受注数を間違える。
 

上司やお客さんからのミスに対する指摘が怖くて、日々の作業が手につかなくなるほどだ。それでも、締切を守る為に涙を流しながらパソコンに向かう日もあった。
 

4月に入ってすぐの月曜日。
新宿駅の改札を出て、会社に向かった。
でも、オフィスのエレベーター・ホールで立ち止まった途端、一歩も前に進めなくなってしまった。1時間ほど、エントランスのソファで身動きが取れず、結局立ち去った。
 

4月のあの日、私は初めて会社を休んだ。そのまま心療内科に行き、受けた診断が「適応障害(新しい環境やストレスに適応するのが難しくなる状態)」だった。医師から休職を勧められた私は、その翌日から仕事を休むことになった。
 

5月から6月の記憶は、あまり無い。
治療のため実家に戻った私は、ずっと自室にこもって、寝ていた。薬を飲んで、寝る。それの繰り返し。急に仕事に穴を開けてしまったことをずっと後悔して、その気持ちから逃れたい一心で眠りにつく。そんな日々だった。
 

7月になると、気持ちが落ち着き、日中起きていられる時間が増えた。
そして、少しずつ動画を見られるようになった。そんな時に出会ったドキュメンタリーの主人公が、体操女子のアメリカ代表シモーネ・バイルズだった。
 

彼女は、リオ五輪で4つの金メダルを獲得した。圧倒的な技術とパワーで「体操の女王」と呼ばれている。2021年の東京オリンピックでも、金メダル候補の筆頭だった。
 

みんなの期待を一身に背負って迎えた団体総合決勝で、シモーネは跳馬の演技で致命的なミスをする。そして、調子を取り戻せないまま、自分のメンタルヘルスを優先し、その後に予定されていたすべての種目を棄権した。
 

ドキュメンタリーでは、東京五輪の後のシモーネが記録されていた。
彼女がメンタル・ヘルスを理由に途中棄権したことは、米国で大きな論争を呼んだ。
「アメリカ代表が、ただ気分が乗らないからといって、棄権するなんて何様のつもりだ。競技中に怪我をしたわけでもないのに」という批判を繰り返す、辛辣なコメンテーターも少なからずいた。
 

しかし、シモーネは強かった。アスリートとして、自分の状態を客観的に観察した上で、オリンピックの決勝を棄権することを選んだ。自分の心を、すんでのところで破綻から守り切ったのだと思う。
 

そして、彼女はSNSやメディアを遠ざけ、ゆっくり休んだ。婚約者や家族のサポートを受けながら、シモーネは心の元気を少しずつ取り戻していった。
 

シモーネは、東京五輪での出来事の後、引退しようとした。オリンピックの時に着用したレオタードを4年近く直視できないほど、大きな心の傷を負ったのだから当然だろう。
 

でも、最終的にパリ五輪への道を歩むことにした。
オリンピックに挑戦しなかった自分を10年後に後悔しないために、自分で復帰を決めた。
 

シモーネは言った。
「自分の結末は自分で決める」強い意志を感じる言葉だった。
 

私は、入社して半年のうちに休職してしまったことに、強い劣等感があった。
復帰した時の上司や周りの目を考えると、怖くて、恥ずかしかった。期待に応えられなかった自分をさらけ出すくらいなら、このまま退職してしまいたいと思っていた。
 

でも、このまま逃げ出したら、後悔してしまう。
納得するまで、自分らしく頑張ってみよう。シモーネのように強くありたい。
その時、私の心が動き出すのを感じた。
 
 

ドンっと背中に通りすがりのおじさんの肩が当たって、私は我に返った。
少しの間、意識が飛んでいたようだ。わたしは「よし」と気合を入れて、手帳を閉じる。
 

そして、昨夜パリ五輪で個人総合の金メダルを獲ったシモーネを思い浮かべる。
彼女は、晴れやかな笑顔でアメリカ国旗をひるがえしていた。
うん、なんだか元気が湧いてきた。
 

私は覚悟を決めて、エレベーターのボタンを押した。

 
 
 
 
***
 
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2024-08-15 | Posted in メディアグランプリ, 記事

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